第二幕 其の令嬢 (6)


「……いま、なんと?」

「聞こえなかった?」

 強気なアンジェの笑みが返る。

「当然、それなりの金額も報酬として支払うわ」

 ヴィクトールは唇の端を吊り上げた。

「詳しく聞こうか」

「あなたがハンターをどうしようと、わたしは一切口を挟まないし、止めたりもしない。もちろん、その後始末はわたしが責任を持って処理するわ。あなたの関与が疑われないことも約束する」

 ノリス、と呼ばれて、部屋の隅にひっそりと控えていた老婆がアンジェに書類の束を差し出した。

 アンジェはその中から幾枚かを飴色に光る応接机に一枚一枚丁寧に広げていく。

「これは?」

「ハンターの失踪届け、死亡届け、それとこちらの写真の男は犯罪者よ。強盗の常習犯で、まだ殺人を犯したことはないけど、周囲の見立てだと時間の問題といったところね」

 ヴィクトールは思わず笑った。

生贄スケープゴートとはな。随分と用意がいいことだ」

「伝手があるの。……ハンターもこの男もならず者には違いないもの。その二人がケンカの末殺し合いに発展したところで、誰も気にしやしないわ。世の中そんなものでしょう」

 十四歳の少女が真面目な顔で口にするには思い切った脚本だった。

「今の世の中、そして准国民化したあなたにとって、食事は大変な手間と労力が必要でしょう。今回に限り、わたしが全てやってあげる。いかがかしら?」

 ヴィクトールは肘掛に頬杖をついた。

 長い手指で蟀谷と顎を支えながら、テーブルの上に広げられた書類を見下ろす。

 ……余計な世話ではある。が、確かにうまい話だ。

 最後に食事をしたのは、何時だったか……四十年程前になるか?

 記憶を辿ったヴィクトールは、その事実に驚いた。

 なんと半世紀近くも前ではないか。

 美食家を自負するヴィクトールである故に、数世紀に渡るこれまでを考えればさしたる期間が開いたわけではない。

 だが、幾度もあった機会を潰し、餌を見逃してきたのは、人間のつくった邪魔くさい柵が念頭にあったからだ。


 まるで僕が、人間如きに恭順しているみたいじゃないか?


 ある意味で事実だ。

 契約の履行が例えるなら生命維持に不可欠な呼吸とするならば、ヴィクトールの食事は娯楽の意味合いが強い。

 無いなら無いで構わないものだが、その事実はヴィクトールのプライドをいたく傷つけた。

 ––––そう、これは機会のひとつだ。

 これまで見送ってきた選択肢が、また巡ってきたのだ。

 熟考から意識を戻せば、ヴィクトールの漆黒の瞳に、緊張で血の気が失せた頬を強張らせ、それでも唇を引き上げるようにして微笑を作る少女の美貌が映った。

「ふん……いいだろう」

 小娘の思惑に乗るのは癪だが、これもまた一興か。

 無造作に言い捨てた諾に息を呑んだのは少女ではなく、背後に控える己のしもべ。

「じゃあ……!」

「ああ、契約してやる」

 アンジェは二色の瞳をきらりと輝かせた。

 ヴィクトールは腰を上げた。

「手を貸せ」

 言えば、跳ねるように立ち上がったアンジェが、恐れ気もなく素直に華奢な掌を差し出してくる。

 肌は触れるとほのかに温かい。

 ヴィクトールは不快な人肌に顔をしかめた。

 契約の儀はシンプルだ。

「――汝、アンジェ・ゴーシュは、我との契約を望むか?」

 ふわ、と風もなくアンジェの絹糸のような金髪が浮き上がる。

 ヴィクトールの手を握る指に力が入った。

「望むわ」

「代価は」

「ハンターの命と魂、そして金」

「何があっても契約の不履行は認められない」

「ええ」

「この誓いが破られることがあれば、お前の命はない。四肢は千切れ、魂は汚され、耐えがたい苦痛を味わうだろう」

 く、とアンジェは可憐な唇を勝気に吊り上げた。

「承知の上よ!」

 二人の足元に不可思議な模様が滲み上がり、青い光を放つ陣となる。

 魔力的な光に照らされて浮かび上がったアンジェの顔に迷いはなかった。

 ヴィクトールは頬に酷薄な嘲笑を刷いた。


「――我、******************は、汝、アンジェ・ゴーシュの望みを叶える事、存在と誇りと理に懸けて、ここに誓う」


 ごう、と一際大きな風が巻き起こり、アンジェは小さく悲鳴を上げて目を瞑った。

 同時に、二人の足元でぐにぐねとのたうっていた陣が弾けて消え、アンジェの手の甲に印が現れる。

 本人とヴィクトールなどの力のある悪魔にしか見えず、そして悪魔にしか読めない文字は、アンジェが契約者であることを示す刻印だ。

 やがて目を開けた主に、ヴィクトールは鼻で嗤うようにして宣告した。

「これで契約は交わされた。これからよろしく、ご主人様マイ・マスター?」


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