第二幕 其の令嬢 (5)
ヴィクトールは目を細める。
「……真実の書?」
「その日記は読む者の求める真実を映し出す。たとえば未来、たとえば過去。人によっては予言書とも言っていたようよ」
すごい、とキーファが感心したが、ヴィクトールは呆れ返った。
世界で予言書と呼ばれる類が一体何冊あると思っているのか。そしてそのうちで本物に出会ったことなど一つもない。
フランツ・フィリップなどという人物も聞いたことがないし、どうせまた紛い物に違いなかった。
「所詮は噂だ」
一瞬、アンジェは唇を噛んだ。
「……それはあなたが判断することじゃないわ」
ヴィクトールは肩を竦める。
「それもそうだな。で、依頼はその日記を探し出せばいいのか」
「ええ。……いいえ」
ヴィクトールは眉を寄せた。
「どちらだ」
というか、どういうことだ?
アンジェはそこで、年齢に似合わぬ疲弊しきったような溜め息を深々と吐き出した。
「一度は、手に入れたの。だから探し出すというのは違うわ」
「だが?」
「……でも、失くしてしまったの」
なくした。
それはまた、間抜けは話だ。
ヴィクトールと、呆気に取られたキーファの顔を見て、アンジェが顔をしかめた。
「分かってるわ。わたしだってこんなことになるなんて思ってなかったもの。でも、騒ぎに巻き込まれて、気付いたらなくなっていたの。……あなたもジェイから聞いているのでしょう?」
――ジェイから。
ヴィクトールは半瞬だけ、呼吸を止めた。
「なるほど、騒ぎとは……」
とん、と組んだ膝を指で叩き。
「悪魔殺しか」
無言の肯定に、ヴィクトールは片頬を歪めた。
ジェイの奴め。
あの話は自分の気を引くためだけのものではなかったということか。
不愉快だ。
だが――面白い。
ヴィクトールは掌で顔を覆い隠す。
白い手袋の下で、にたりと薄い唇が裂けた。
アンジェに不審に思われないよう、ヴィクトールは一瞬で喜悦を消し去った。
「……それで悪魔の僕に依頼を?」
「そうよ。ミシャという悪魔に襲われるまでは確かに手に持っていたの。だから、なくなったとしたら、その悪魔が持って行ったとしか思えない」
襲われたとは。
「よく死ななかったな」
「わたしもそう思うわ」
嘆息は深かった。
「日記がなくなったことに気付いてから、この一ヵ月程必死で探したれど、どうしても見つからないの。ジェイに相談したら、悪魔絡みならあなたに依頼しろって勧められて。それが一番早くて確実だからって」
「なるほど」
「もちろん、悪魔の足取りを追ってみたけれど、手を尽くしても見つからなかった」
ということは、悪魔を殺したハンターが持っている可能性が一番高い。
事態はほぼ把握した。
「僕への依頼は、その『フランツ・フィリップの日記』とやらを奪い返すことか」
「いやだわ、物騒な言い方はやめてちょうだい。でも、そうね……もし誰かの手に渡っていた場合、交渉は必要よ」
アンジェはおっとりと微笑んだ。
「いずれにせよ、再びわたしの手元に届けてほしいの」
ヴィクトールは鼻で嗤った。
「報酬は」
返答は早い。
「わたしの命以外」
ヴィクトールは顔を歪めた。
「では、取引はなしだ」
え、と驚きの声を上げたのはキーファだった。
だが、当人である少女は、これまでヴィクトールに契約を持ちかけてきた大抵の人間が狼狽してきたこの場面で、最小限の動揺で押さえてみせた。
柔らかな頬が僅かに強張っているばかりで、ヴィクトールに据えた視線は揺らがない。
––––ほう?
新鮮な反応だ。
興味が湧いて、立ち上がりかけた腰を再び椅子に降ろす。
話くらいは聞いてやってもいいだろう。
ヴィクトールはひらりと手を翻した。
「どうぞ?」
「……まず、理由を聞いてもいいかしら」
「予想はついてるんじゃないか?」
日記自体を探して入手しろという依頼だけなら命までは対価の範疇じゃない。日記と等価の代価が支払えるというのなら、という注釈付きではあるが。
「だが、先ほど君が言った通り、ある種の交渉が必要になるというなら話は別だ」
この小娘は、ヴィクトールに命を懸けろと言っている。
「ハンターと接触する可能性が高い以上、戦闘は避けられない。もちろん、むざむざとやられるような僕ではないが、戦うからにはリスクはある」
そして、どの程度のリスクで済むかは、未知だった。
「異論はあるか?」
––––そもそもが、半ばハンタ―への好奇心でこの地にやって来たようなものだという事は、一端置いておく。
それはそれだ。
人間の要求で動く限りは、代価が必要不可欠。
そして、これはキーファしか知りえない事実だが、契約中のヴィクトールの能力は大幅な制約を受ける。
人間の要求を呑み、叶えるために尽くすということはつまり、人間に服従していることと同義である。
従って、ヴィクトールという悪魔本来の能力、本能、存在自体が『契約』という柵や派生する条件によって縛られてしまうのだ。
これもまた、ヴィクトールという悪魔を構成する絶対の理だった。
生きるため、存在するためには人間の欲望のため使い走りをしなくてはならず、そのために弱くなる。
我ながら、つくづく馬鹿馬鹿しい限りだ。
十全でハンターと相対するならば敗北どころか掠り傷一つありえないが、契約下にあるなら別だ。
黙り込んだままのアンジェに、ヴィクトールは舌打ちをした。
「僕に命を差し出せというのなら、君も同等の代価を支払うべきだ」
視界の端で、アンジェが硬く手を握り締めた。
……所詮、こんなものか。
帰るぞキーファ、と立ち上がりかけて、
「代価はあるわ」
断固とした声。
「代価は、そのハンターの命と、魂よ」
ヴィクトールは目を瞠った。
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