第一幕 或る悪魔 (3)
真昼間の街は活気があって賑やかだ。
もっとも、ヴィクトールにとっては煩わしい以外の何物でもない。
騒がしい。
行き交う人々の会話さえ癇に障って、ヴィクトールは帽子の影で眉を寄せた。
「よう、ヴィクトール」
道の端、街頭に背を凭れたいかにも暇そうな男が気安げに手を挙げた。
「ジェイ」
ヴィクトールは込み上げた不快感に逆らわず、地面をステッキで打った。
舗装された煉瓦敷きの路面はやけにきれいに硬質な音を立てた。
ジェイという男は、頬骨が張った、頑健そうな偉丈夫だ。しかし決して粗野というわけではなく、むしろ飄々とした雰囲気のせいか、威圧感よりも逆に警戒心を感じさせない気軽さがある。
とはいえ、ヴィクトールはジェイのそういうところが嫌いだった。
「久しぶりだな、ヴィク。かれこれもう四十年ぶりくらいか?」
ジェイはヴィクトールの仏頂面などものともしない。
他人の機微に敏いくせに、だからといって配慮する気などさらさらない男なのだ。
まったく、嫌な奴だ。
どこもかしこも気に入らない。
「極東で腰を落ち着けたと聞いたが?」
図体のわりに人懐っこい笑顔で差し出された手を、ヴィクトールは当然のように無視した。
ジェイは残念そうに手を下ろして肩を竦め、歩き出したヴィクトールの横に並ぶ。
「ああ、小さい島国だが、いいところだぜ。お前も一度来るといい。俺らみたいなのに人権を保障してくれるんだと」
『人権』
ヴィクトールは嘲笑うように吐き捨てた。
「ヒトでない僕らにか」
ジェイは朗らかに頷く。
「善き国民である限り、人間と同等の権利をくれるそうだ。福祉も充実してるし」
「暢気な事だな」
「おおらかって言えよ。そっちこそ、アリーシャで市民権取ったんだろ」
「正確には『僕』のじゃないが」
ジェイは目を見開いた。
「おいおい、まさか、偽名は使えないはずだろ。どうやって査問会を騙したんだよ」
「騙してはいないし、言う必要はない」
抜け道など幾らでもある。
「人間の用意した首輪など、粗末なものだ」
ヴィクトールが人間如きに繋がれるはずがない。
ジェイは呆れたように嘆息した。
「へいへい、そうでした。お前って、いかにも悪魔らしい悪魔だよな」
ヴィクトールは眉を寄せた。
「馬鹿馬鹿しい言い方をするな。人間に毒されたか」
悪魔。
人は、ヴィクトールやジェイをそう呼ぶ。
そうして、同一視しがちだ。
何も分かっていない。
ヴィクトールに言わせれば、人間が悪魔と名付けた自分達はもっと複雑だ。
悪魔と呼ばれるモノの中でも、個体の種類や種族、能力、姿形もそれぞれで、無知な人間が思うよりもずっと個々別々で無秩序、混沌としている。
それが悪魔だ。
ヴィクトールは横目でジェイを見遣った。
この男とて、今は人間のようなナリをしているが、実態は同胞とされる悪魔でさえ目を背ける者がいるほどおぞましい姿だ。
能力が何かは知らないが、ヴィクトールの記憶するところによると、彼の餌は人間の強い感情だったはずだ。
中でもとりわけ、悦楽を好む。
故に、ジェイは他の悪魔よりも人間に近い暮らしを好み、彼らを愉しませることに長けていた。
その彼がことのほか喜んだのが、その昔ある国で導入された悪魔の准国民化制度である。
一国の制度は幾度かの戦争を経て、やがて全世界に広がり、多少の差はあれど今やほとんどの国が導入している。
百余年の変遷を辿り、異種間綜成法という名に落ち着いていた。
当初のものとは大幅に内容の改編が繰り返され、現在では悪魔にとって少々縛りの厳しい法律になっている。
いにしえの時代より悪魔に怯える人間が、ヒトに害を為さない限りは、傲慢にも自分達と同等の権利と保障を持つ国民であると認める法律––––失笑ものだが、成果はあった。
悪魔は決して強者ではない。
人間と悪魔、一対一であれば負ける事などありえないが、数でいえば圧倒的に人間の方が多いからだ。
そして悪魔が一致団結することなど有り得ず、それはこれまでの戦争の結果から明らかだった。
人間の文明の発展とともに徐々に居場所を奪われ、追われ、安寧を望む者、ヒトとの対立に疲弊した者、或いは一族の閉鎖的な掟に嫌気がさした者や、逆に秩序のない悪魔社会よりも整備された人間の法と生活を求める者達は意外に多く、綜成法は当時ヴィクトールが予想したよりも悪魔から支持を受けた。
特にジェイのような、人間との共存で糧を得る種類の悪魔は、人間との歩みよりを好意的に受け入れたのである。
この愚策の狙いなど知れている。
人間は、悪魔を統制するつもりなのだ。
個体数を把握し、正体を暴き立て、能力を封じ、名をもって縛る。
くだらないと思うものの、現実にこの政策が効果をあげていることは認めざるを得ない。
かく言うヴィクトールも、とりあえず目先の便利さに誘われて帰化申請をした悪魔の一人ではあるのだから。
–––––奇妙な世の中になったものだな。
ヴィクトールは道行く人々を流し見た。
長年を生きてきたヴィクトールだからこそ思う。
人と悪魔が巧妙に寄生しあう世界など、以前は考えもしなかったものだが。
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