第一幕 或る悪魔 (2)
「––––そう思うんなら、やめてやったらどうだ?」
唐突に、陽気な声が二人の間に割り込んだ。
声の主の姿は部屋のどこにもない。
だが、ヴィクトールは不快感を露わに舌を打った。
「ジェイ、無礼が過ぎないか?」
影なき声が笑う。
「おいおい、むしろ感謝してくれてもいいんだぜ。百五十条が成立して人間は喰えなくなっただろうが」
「人間の作った法律など知ったことか」
「それなら言うけどよ。お前、本気でその爺さん喰いたいわけ? 好みにうるさいお前さんらしくねえなぁ。それとも宗旨変えか?」
ヴィクトールは思わず押し黙った。
「潔癖なお前には無理だって。腹壊すか吐き出すのがオチだぞ。諦めな」
認めるのは癪ではあるが、確かにジェイの言う通りではある。
ヴィクトールの足元でうるさく苦しみ回る老人は、今や張りを失った皺だらけの手で胸や喉を搔き毟り、口を大きく開けて泡を吹いていた。
その様子を目にし、折角一時的にでも浮上していた気分が急激に萎えていく。
「……不愉快だ」
ジェイの言いなりになることも、人間如きのために働いた手間も、代価に妥協を余儀なくされたことも。
けれど、どう考えても、この老人が自分の口に合わないことは明らかだった。
仕方ない。
ふ、とヴィクトールは吐息をついた。
老人を締めあげていた力を解いてやったはずだが、彼は恐怖のせいか顔を見苦しく汚したまま治まらない痙攣に喘いでいる。
「大げさな男だな。この程度で死にやしない」
たかが数分息が出来なかったくらいで騒ぎ過ぎだろう。
「命は取らないでおく。その代わり、相応の物は貰っていくぞ」
老人はがくがくと首を振って頷いた。
どうやら命だけは助かった事を理解したようだ。
「まったく……」
なんて面倒な。
ヴィクトールは嘆息しつつ、長い指をぱちん、軽やかに一つ鳴らした。
すると、部屋の一角に仰々しく鎮座した重厚なデスクの引き出しがひとりでに開く。
中から幾枚もの書類がひらひらと宙を泳ぎ、ヴィクトールの手に収まった。
「へえ、骨董の権利書か? 爺さんもよく集めたもんだ」
姿形も見せないくせに、目ざといものだ。
感心したジェイに同意する。
「同感だ」
絵画、家具、食器、書籍、果ては城までコレクションしているとは。
「役に立つわけでなし、理解に苦しむ」
「まあ、役になら立ってるだろ。まさに、今」
ヴィクトールは鼻で嗤った。
「どうだか」
ヴィクトールは、代価なしには人の願いを叶えられない。
それはヴィクトールという存在においての摂理だ。
悪魔にはそれぞれの摂理がある。例えば、種族ごと、個体ごとに異なるそれは、もし違えれば自分が自分ではなくなってしまう。
逆に、自分として存在するためには、その摂理を満たし、廻してやらなければならない。
ヴィクトールの場合、それは『他者の願いの成就と、その同程度の代価』が必要だ。
だから、わざわざ近寄りたくもない他人を呼び寄せては、小間使いのように下らない欲望を叶えてやっている。
吐き気がする程おぞましく腹立たしい己の性に、たまに首を掻き切りたくなる。
「た、頼む……やめてくれ……」
権利書と聞いて、藻掻き苦しんでいた老人が掠れた声をあげた。
床に這いつくばったままこちらに伸ばしてくる手を、革靴のつま先であしらい、ヴィクトールはもう一度指を鳴らす。
すると、全ての書類の所有者を示すサインが滲んで消え、老人の名前からヴィクトールの名前へと書き換わった。
「これで僕のものだ」
用は済んだ。
無造作に紙束を捨てる。
老人がとっさに受け止めようと手を広げた。が、権利書は床に落ちる前に、ふっとかき消えた。
今頃はヴィクトールの家の書斎にあるはずだ。
現物はいずれ回収させればいいだろう。
「さて」
ヴィクトールはついと指先で帽子とステッキを呼び寄せ、立ち上がった。
「ジェイ、近くにいるんだろう。用があるならお前から会いに来い」
「はいよ。……ところで、その爺さんは放って行くのか?」
ヴィクトールは首を傾げた。
「何か問題が?」
死んではいない。
声は出るようだ。
転がっていればいずれ回復するだろうし、助けは自分で呼べるだろう。それが何時間後になろうが、最早ヴィクトールには関係ない話だ。
そもそもが自業自得だろう。
悪魔を頼っておいて五体満足無事で済むはずがない。
死にかけの強欲な人間など、心の底からどうでもいい。
ヴィクトールは、床に転がり悲痛にすすり泣き始めた老人を一瞥もせずに跨ぎ越し、部屋を出た。
メイドが美しく磨き上げたのだろう、窓から屋敷の廊下に燦々と陽光が差し込んでいる。
帽子を被り、陽を遮ると同時、自然と嘆息が零れた。
「ああ、まったく……」
くだらない。
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