狗と黒衣の円舞曲
それを察知したのは、果たしてどちらだったのか。
浄瑠璃狂歌――またの名は黒衣の彦六――と浄瑠璃長唄は、ほぼ同時に立ち上がった。
「オメェは火の番をしとけ」
黒衣装束の叔父は、甥に告げた。
甥は、怪訝な顔を叔父に向けた。その顔に、覚悟の翳りを見たからか。
「おじう」
言いかけたところで、口は止まった。
見知った顔が、視線の先に立っていたからだ。
案の定、合点がいったという顔になっていた。
「なるほど。彦六どのの正体は、浄瑠璃の隠し玉と」
「隠し玉なんて大層なもんじゃねぇ。ただの浄瑠璃崩れだ」
「ただのなり損ないが、『叔父上』などと呼ばれるものですか」
おお。今こそ長唄は戦慄した。
剣兵衛の装束が、侍のそれから忍びのものに変わっていたからだ。
すなわち、叔父の指摘は真実だったのだ。
「ククッ。そっちこそ吹っ切れたようじゃねぇか」
「おかげさまで、狗らしく生きて死ぬ覚悟ができ申した」
と、ここで剣兵衛が長唄に向き直った。
将軍にするような最敬礼とともに、彼は素性を長唄に叩きつけた。
「貴殿を騙すような振る舞いをしたこと、誠に申し訳なかった。公儀隠密・中村剣兵衛。浄瑠璃を助け、柳生獣兵衛を討つべく罷り越して候」
ザッ。ザッ。
ゆっくりとした足音が、夜の悪路に響く。
長唄は火を消すか惑い……消さなかった。
叔父が制し、剣兵衛の前に立ちはだかったからだ。
「まだ認めちゃいねぇぜ、幕府の狗。黒衣の彦六改め浄瑠璃狂歌。本気のお犬様がどんなもんか見極めてやろう」
浄瑠璃狂歌が、ドスと長煙管を構えた。
中村剣兵衛が両腕を広げた。
直後、剣兵衛の姿が消える。
「チイイイッッッ!」
響くは狂歌の唸り声。
浄瑠璃の極意――己の身体をあやつり、神速の薙ぎで迎え撃つ。
しかし。
「叔父上、上!」
狂歌が見上げる。
彼からすれば遥か上に、前宙返りを見せる剣兵衛がいた。
「なっ」
おお、今こそ動体視力フル活用の時。
なんと薙ぎに足裏の鋼を合わせて防ぎ、バネにして軽功で飛んだのだ!
「せぇいっ!」
腕が刃となり、振り下ろされる。
狂歌はなりふり構わず後ろに跳んだ。
着弾。地面がめり込み、めくれ上がる。
「チッ、
礫を防ぎつつ、狂歌は唸った。
なかなかに厳しい攻防だった。
甥の声がなければ、防げなかったやもしれぬ。
「だがオイラは生き残った。生き残ったからにゃ、足掻かせてもらうぜ!」
ドスを、長煙管を、放り上げる。
剣兵衛を襲うように、それらをあやつる。
だが剣兵衛は、動じなかった。弾き、防ぎ、突き進んでくる。
「おいおい、前とはえらい変わりようじゃねえか」
思わず嘲る。それほどまでに、敵手は変わっていた。
「人はいずれ死ぬ。ならば死ぬまで生きるのみ! 否、活きるのみ!」
「見出したかい!」
右腕、左腕、回しの左脚、返して右脚。
四本の刃が、狂歌を襲う。
しかし狂歌はさばく。あやつりの極意は、簡単に落ちぬ。
「チイイイッ!!!」
「落ちぬよ。浄瑠璃の身のこなし、舐めてもらっちゃあ困る」
ガンガンガン!
ギンギンギン!
けたたましく、鋼のぶつかる音が響く。
両者の蛮声が、夜の更けた番外地にこだましていた。
長唄は今こそ、この戦を直視していた。
この戦への介入は二人への義に反する。
「ならば、見届けるのみ」
それが、長唄の出した答えだった。
超速度の切り合いを、彼は瞬きさえ忘れて見守っていた。
「おおおおお!」
「チェリアアアッ!」
その間も、二人の速度は更に上がっていた。
剣兵衛が狂歌を引き上げ、狂歌が剣兵衛を引き上げる。
互いの力量を認めあったが故に、両者はさらに加熱し、
「ハッ!」
狂歌のドスが剣兵衛の懐を狙う。
だがこれを剣兵衛は
瞬間、狂歌は前蹴りで飛び退きを図る。そこへ剣兵衛が腕の刃を振り下ろす。
「シッ!」
狂歌の身体が加速する。あやつりが更に上がったのだ。
今や狂歌は、自分自身と完全に同調していた。
一切の差異なく、己の思うがままに、己を動かしていた。
「ハアアア、イヤーッ!」
剣兵衛は己の身体能力のみで狂歌に付いていく。
剣兵衛には狂歌のような同調能力はない。皆無だ。
しかし手足四本の刀と、軽功があった。そして。
「お覚悟!」
遂に彼は、伝家の宝刀を引き抜いた。
腕刀の先端が、五本の指刀へと変じたのだ。
下がる狂歌へと、必死に刀が追いすがる。その時。
「っ!?」
見よ。狂歌の左足、膝が崩れた。
操りの極致に、とうとう身体が悲鳴を上げたのだ。
「サアアアッッッ!」
奇声が一つ。斬撃音は五つ。
剣兵衛の五指が、浄瑠璃狂歌を袈裟斬りに仕留めたのだ。
「叔父上!」
浄瑠璃長唄が、叔父の元へと駆け寄る。
中村剣兵衛は、離れた場所で背を向け、残心の構えを取っていた。
「ハッハッハ……」
長唄は見た。
短い間で、初めて狂歌の笑みを見た。
難しい顔をしていた叔父が、心から笑っていた。
「オイラは踊り尽くしたぁ。あとはオメェの好きにしろィ」
それきり叔父は、崩れ落ちた。喋らなかった。
長唄は叔父を支えずに剣兵衛の背を見、決断した。
「好きにさせて、もらいます」
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