中村剣兵衛の憂鬱

 夜。中村剣兵衛は星を見上げていた。

 無論、ただ見上げていれば格好の標的でしかない。

 身体を鋼にして、見上げていた。


『オメェも狗なら狗で、狗らしくしやがれ』


 黒衣の彦六に言われた言葉が、未だ突き刺さっていた。

 まったく彼の言う通りだった。


「『番外地に現れるであろう、浄瑠璃の生き残り。これを探し、助け、柳生獣兵衛とともに持ち帰れ』。言葉にするのは簡単でも、これほどの難儀とは思わなんだわ」


 改めて、数日前に下された指令を思い返す。

 今なら無茶を言うなと拒否しただろう。

 だが、当時は褒美に目がくらんだ。己の技であれば、蠱毒を越えられると思っていた。


 しかしそれらは思い込みに過ぎず、今や手助けの対象さえ奪われてしまった。

 柳生獣兵衛の所在は未だ不明。浄瑠璃長唄の所在も不明。

 今や剣兵衛は、不甲斐なさのあまり自刃さえ考えていた。


 だが――

 おお、今こそ読者はその視力、暗視力を発揮し、見よ。

 ポイントは彼から三百歩の距離!


 朽ちた家の影に、夜烏衆の生き残りがいる。

 二人だ。

 一人は一ダースの刀、一人は刀射出用の大砲を引っさげ、闇に潜んでいる。


 彼らは同志の無惨を見ていた。

 彼らは狙撃手と観測者だったが故に、生き延びてしまった。

 狙撃手の砲門は、まっすぐに剣兵衛を睨みつけていた。


「やるぞ」


 声なき声で、狙撃手は告げた。


「やるぞ」


 声なき声で、観測者は応えた。


 狙撃手の砲に、観測者が刀を差し込む。

 狙撃手の持つ砲は、最大三本の刀を撃ち出せる。だが、最初は一本だ。

 この一本で決めてしまえるのなら、それまでの相手ということだ。


「っ」


 狙撃手が引き金を引き、パシュンと刀が打ち出された。

 刃は高速射出によって衝撃波をまとい、彼方の敵――剣兵衛へと襲いかかる。

 しかし刀は、ありえない挙動を見せた。


!?」


「馬鹿な!」


 そう。剣兵衛が内功を振るって行っていた体鋼たいはがね――もう腕だけではないことは明白だろう――は、この種の敵には圧倒的有利。

 そしていくら落ち込んでいるとはいえ、剣兵衛もこれには動く!


「腹を掻き切ることさえ許さぬか、この蠱毒は!」


 剣兵衛は駆け出した。

 衝撃のやってきた方向から射出点を見極めようとした。

 しかし動きは芳しくない。いくら身体が鋼でも、衝撃と不調は己を苛むのだ。


「クソ、来るぞ!」


「撃つしかないだろ!」


 狙撃手は続けざまに刀を発砲した。

 もはや観測は意味をなさない。

 いずれは一方的な優位も消えるだろう。


 カァン!

 カァン!

 ギィン!


 だが通じない。

 鈍い音を発し、一時的には動きを封じることができる。

 しかしその先がない。決め手がない。


 オマケに、慌てて撃ったことこそが致命的だった。


「見つけた」


 剣兵衛は、遂にポイントを特定した。

 何度も撃たれれば、流石にわかる代物だった。

 脱出を図る二人組が、視界に入った。


「っ」


 剣兵衛は、あえて真っ直ぐに追わなかった。

 狗は狗らしく、軽功を駆使することにした。

 彦六の言葉が、未だ心に棘を残していたのだ。


「はっ、ほっ」


 破壊されつつある家々の屋根を渡り、剣兵衛は二人組を追った。


 さあ、今こそ彼の正確な出自を表そう。

 彼は忍びである。長らく隠密であり、軽功と内功を駆使してきた。

 時に陰謀を暴き、時に陰謀で藩を潰したりもした。


 そんな彼が、三流とまで言われたのは。

 やはり浄瑠璃長唄と出会ってしまったからだった。

 無駄を排してでも仇を追いかける男に、絆されてしまったからだ。


「恐らく俺は、この蠱毒を抜けても始末されるだろう」


 口の中でつぶやく。

 彼はよく知っていた。

 人の心を取り戻した狗など、使い物にならない。消すしかないのだ。


「なれば、この番外地で己に殉じて死ぬ他なし」


 足に力を込め、跳躍する。

 眼下に見えるは、刀と砲、二人の男。

 夜目を利かせてなお薄暗いが、十分だ。


 くるりと一回転して、前を取った。


「俺をハジいたのは、お前たちか」


「くっ」


 二人組は背を向け、来た道を戻ろうとする。

 だが戦において背を向けるのは、最悪の決断だった。

 剣兵衛は鋼の腕、否、刀を振るった。二人の足が止まり、こちらを向いた。


「へ、へへ……お助け……」


「命だけは……」


 覚悟は決めていたのだろう。しかし予測は足りなかった。

 跪く二人を見ての感想だった。


「なるほどな」


「へ?」


 思わずつぶやく。二人が、自分を見上げるのが見えた。


「実際、もったねえな」


 一言つぶやく。

 長唄の考えが、心から理解できた。そんな気がした。

 無駄な血脂が己を、剣を鈍らせる。彼はきっと、そう考えていたのだ。


「行きな」


 ぶっきらぼうに、口を開いた。

 どうせ他で死ぬ。そんな思いも確かにあった。

 しかし正直、斬る気が失せていた。


「へ……へへ……」


「では、甘えて……」


 へつらうように、刀狙撃の二人組が去っていく。

 剣兵衛は番外地の夜空を見上げた。

 彼の憂鬱は決して晴れたわけではない。だが、心は定まった。


「せめて、すべてを明かそうか」


 彼は、夜の道を歩み始めた。長唄を探すために。

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