21 空洞

 刃先は刺さる寸前で止まった。伸ばしかけたキヨラの手が止まる。

「……太陽」

 海水に沈められた包帯のすんでで微かに刃先の震えるナイフを、握る太陽にキヨラは視線を上げた。眉間にしわが寄り、薄く開けられた目から涙がこぼれる。

「もう、解放させてほしい。怖い」

 ぽろぽろと続けざまに涙が海面に垂れる。震える刃先を引き、太陽は俯いた。勢いよく前へ引かれた腕を尹はそれ以上に引き返す。笑みは消えていた。

 ウミネコの鳴く声が海岸に響く。

「太陽、砂のところまで戻ろう」

「嫌だ」

 キヨラが聞くも、太陽は拒む。

「戻りたくない、いいから放せ!」

「太陽!」

 水平線の方を振り向いて前へ進もうとする太陽の左手も掴んで尹は引いた。両腕を掴まれ、頬に涙を伝わせて太陽は息を漏らす。濡れた黒髪が顔にはりついて、サングラスの支えから海水が垂れる。

「お願いだ、離せ。もう嫌だ……」

 鼻をすすり、充血した目を細め、涙が溢れ出る。ずれたサングラスの縁に涙がこぼれ、頬を伝った。腕を引くも、しっかりと掴まれた手首は前に進まない。落としたナイフが海面から底に沈んで波にゆったりと流れていく。

「太陽」

 海水をかき分けキヨラは太陽に歩み寄る。海面がみぞおちから胸まで上がる。

「太陽、大丈夫だよ」

「簡単に言うな! 何も良くなかっただろ」

 海面を睨みつける様に太陽は怒鳴った。水平線へと進み、海面が肩まで上がる。

「私は、太陽のこと好きだから」

「白々しい嘘をつくな」

 俯けたサングラスのレンズに涙が水滴を作り、縁からこぼれる。

「だから、太陽は、生きてていいんだよ」

 声を震わせてキヨラは太陽の前に踏み出し、その足を波がさらった。後頭部から海水の中へ転倒しそうになったキヨラの手を咄嗟に太陽は左手で掴む。だが振り払われた尹が足元を崩し、引きずられるように太陽、キヨラも海水の中へ落ちる。


 波が引き、よせ、再び引いて体を起こしかけた太陽のサングラスをずらす。

 両手を握られて、太陽は海面に上げた口から海水を飲み込んで吐き出し、咳をして、息を吸った。再びぐっしょりと濡れた髪からサングラスへ水滴が垂れる。

 海面から顔を上げ、咳き込んで、尹は口を拭って太陽の手を引いた。

「太陽、海から上がろう。あ、さっきは急にはっ倒してすまなかった」

 尹の隣まで進み、キヨラが反対の手を引いた。

「行こう、太陽。また風邪ひいちゃうよ」

 引かれるがままに太陽は海の中を一歩、また一歩戻り、茶色くなった血の跡が赤く溶けかかったマントから海水を砂浜に垂らした。俯けたままの目に涙を溜め、ぼろぼろとこぼれる。息を吸いながら濡れた足で砂浜の上を歩いた。

「太陽。今日は何しよっか」

 青空にまだ中央に至らない位置で傾く日を見上げ、キヨラは笑みを浮かべる。

「……歩くに決まってるだろ」

「あと食料調達もしなきゃな」

 尹が付け加える。そうだった、とキヨラは笑った。

「……って、正直笑い事じゃないんだけどな」

 はぁ、とため息をついて尹は茂みをかき分ける。虫の声がうっそうと茂る林の中に一層強く響き、昇った日が葉の間から差し込む。

 涙を頬に伝わせたまま太陽は足元に視線を俯ける。ぽつりと涙がこぼれて、足に当たった。砂だらけの足に葉がつくのを見つめ、太陽は口を開いた。

「突き飛ばして、すまなかった」

 キヨラがふと足を止める。


 足首に出来た虫刺されをつま先でかいて、キヨラはぱっと太陽の手を離した。

「ね、太陽」

 開けたところでくるりと体を回して、太陽を見る。立ち止り、赤くなった黒い目を僅かに上げ、太陽はサングラス越しの目を細めた。

 上がり切らない黒い瞳を、キヨラは真っ直ぐと見つめた。

「……ん。やっぱいいや」

 にっと笑ってキヨラは再び前を向く。

「あ。あと太陽の服も買わなきゃ」

 思い出したように振り向いて、キヨラはマント一枚羽織ったのみの太陽の服装を見る。眉間にしわを寄せる太陽に、尹も目を向ける。

「言われてみると……血だらけだしどう見てもアウトだったな。何か買わないと」

 返り血を浴びた、裾の擦れたマントを眺めて尹が腕を組む。

「自分の服くらい自分で買える」

「や、そういう問題じゃなくってな」

 ペットボトルを拾い、改めて水に濡れた太陽の服装を見る。






 悲鳴が上がり即座に扉が閉まり、または開け放されて中から散り散りに人が逃げ出す。田畑を踏んで鶏を蹴飛ばし、子供の手を引いて人々が駆け出す。

「殺人鬼よ! 早く逃げて!」

 駄々をこねる幼児を抱え上げて母親が走り出す。泣き叫ぶ声が響いた。

「この村はもう終わりだ!」

 積み上げかけられた石レンガが崩れて子供がつまづく。あ、と一歩踏み出しかけたキヨラの手を尹が引き、後ろを振り向く。

「太陽、逃げるぞ」

 立ち尽くしていた太陽の手を引いて走り出した。悲鳴を背に、三人は踏み固められた道を水路の方へと走り出す。水車が回る川にかけられた木の板の上を渡る。

「もう写真が更新されてるとはな……」

 鳩が垂れさがって枯れ落ちた青豆をつつく横を走り抜け、家々の裏を通って開けた場所へ出る。使われていない石造りの建物の前で一度立ち止まった。

 茫然としている太陽の両肩を尹が揺さぶる。

「太陽、しっかりしろ。また何か策を立てればいいだろ」

 血濡れのマントを羽織ったまま、ぼんやりと尹を見ている太陽をキヨラは見た。

「た、太陽、人が来るよ、走って!」

 包帯の巻かれた手首を引かれ、太陽は遅れて走り出した。

 トンネル状になった苔の生える石の空洞を通り抜ける。

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