19 時間

 木でできた扉を開き、ドアノブを閉める。

 真っ暗な空一面に星がまたたき、うっすらとかかった灰色の雲の中に月がほのかに光っている。空を仰ぎ、キヨラは建物の前に置かれた水色のベンチに座る。


 剥がれかけたペンキあとの上に、オレンジの缶ジュースを二本並べた。

「あ」

 だがその声にキヨラは俯けていた視線を上げる。

 視線をそらし、尹は言葉を濁す。

「尹、これ飲む?」

 キヨラにオレンジジュースの感を差し出され、え、と尹は声をこぼした。表面に薄く水滴のついた缶を受け取り、ありがとう、と、指先でタブを押し上げる。

 かちゃ、と小さく音を立てて缶が開いた。

「……その」

 開いたジュースの中に視線を落とし、尹は口を開く。

「太陽、怒ってたか? 通報しちまったこと」

 開いた缶ジュースに少しだけ口を付け、キヨラは足をベンチの下に引く。

「会えなかった」

「そうか」

「でも、怪我も治したし、大丈夫なんだって」

 僅かに口角を上げ、微笑みを浮かべてキヨラはジュースをもう一口飲んだ。オレンジ色を背景に果汁の飛び出すオレンジのイラストが描かれている。

「尹は、何聞かれた?」

 口元にオレンジの果肉を一粒付けてキヨラは足元を見る。

「えっと、太陽の様子とか……つっても、あんま話すことなかったけどな」

「そっかぁ」

 缶ジュースの水滴に、尹は指先を僅かに滑らせる。

「あと、あん時のこととか」

 パキ、と缶が凹む。包装のオレンジのビニールがずれた。

「……そっか」

 缶を塗装が剥がれて銀色に擦れた水色のベンチに置く。


「尹は、あの時ね」

 膝に置いた手を握り、呟いたキヨラに尹はやや顔を上げる。

「私とか、太陽のこと守ろうとしてくれてて。だからさ」

 顔を上げ、黒いシャツを着ている尹を見る。

「私は尹のこと信じてる。太陽も、多分、わかってる……」

 語尾をぼかし、キヨラは再び俯いた。握りしめたシャツの裾に水滴が垂れ、ゆっくりと染みて広がっていく。下唇を噛み、鼻を拭う。

「……キヨラ、ティッシュいるか」

 ズボンのポケットからしなびたポケットティッシュを取り出し、一枚引き出してキヨラに差し出した。ティッシュを受け取り、キヨラは鼻をかむ。

「太陽、殺されちゃうのかな」

 キヨラの言葉に、尹が顔を上げる。

「それは無い……はずだ。けど」

 言いかけて、止める。

「太陽に会いたい」

 鼻をすすり、涙をこぼしながらキヨラは言った。シャツに染みが広がっていく。

「怖いよ。これからどうなっちゃうのかな」

 尹は息を詰まらせる。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を小麦色の手の甲で拭い、引きつるように息を吸って鼻を拭く。ズボンにぽつぽつと染みが出来る。

「……尹、お金貰った?」

 突如聞かれ、尹はえ、と声を漏らす。視線をそらし、花壇に向ける。

「……まだ、考えている」

「じゃあまだ間に合うよね。ね、太陽を助けよう」

 ばっと顔を上げ、涙の溜った青い瞳で尹を見つめる。扉の前の青い灯りが映った瞳から、尹は逃れる様に顔をそらす。

「けど……人がまた死ぬかもしれないだろ」

「だから太陽を守る。私一人でも行く」

 ずらした手が缶に当たって中身がベンチにこぼれた。角からジュースが滴る。じっと見つめるキヨラに、尹はジュースをベンチに置いて目を合わせた。

「そんなことしたらお前まで捕まるぞ。そんなんでいいのかよ」

「でも、太陽叫んでたんだよ、嫌だって、やめてって」

 声を詰まらせ、尹はジュースのついたシャツを握りしめるキヨラの手を見た。

「太陽に助けてもらったから、私も太陽を助ける」

 強く握りしめた手が震え、水滴がこぼれる。鼻を拭い、キヨラは足元に視線を落とした。雑草の生えた石畳の隙間で白い小さな花が咲いている。

「……これ」

 尹は後ろ手に抱えていた血濡れのマントを開き、ポケットからスタンガンを取り出した。そっと、ベンチのジュースがこぼれていない所に置く。

「何かに、使える……かもしれない」

 ぱ、と顔を上げ、キヨラは尹の顔を見た。

「いいの?」

「あ、や……」

 濁し、尹は唇を噛んで、顔を上げた。

「……俺も行くよ。太陽、助けに」

 キヨラの目がしらに溜まっていた涙が、こぼれて頬を伝う。

「でも、家族の人は」

「どうせ探したって居場所なんか分かりゃしないさ。生きてるかどうかすらな」

 吐き捨てる様に言い、尹はベンチに置いたスタンガンを手に取る。

「こいつは一応俺が使う。けど、いざとなったらお前に渡すよ」

「ありがとう! あ、でも先に様子を確認しておかないと」

 立ち上がった拍子にオレンジジュースが跳ねてシャツの裏側についた。ジュースと涙の染みで汚れた新品のシャツを見て、尹は微かに口角を上げる。

「そうだな。太陽の居場所もわかんねぇし」

 倒れたもう一本のジュースの缶に視線をやる。ベンチの角から地面に滴り、石畳の間に染みこんでいき、果肉が隙間に挟まっている。

 窓からもれる蛍光灯の青白い灯りが建物前に停められた車を照らす。



 かち、かち、と時計の秒針が鳴る。

 真っ暗な部屋で蛍光灯が点滅し、点灯する。そっと足を踏み込み、倒れている警備員の間を通って、部屋の中央のベッドに歩み寄る。

 目隠しを駆けられ、唇を閉じて小さな寝息を漏らす太陽の顔を見下ろす。

「太陽」

 小声でキヨラが名前を呼ぶ。かけられた目隠しを上げ、閉じられた瞼を見る。長い睫毛がうっすらとクマのできた下瞼にかかる。

 体をベッドに縛り付けるベルトをとり、床に落として拘束衣のベルトを外す。

「太陽、起きて」

 解放された両腕が体の両脇に落ちる。ゆさゆさと体を揺すり、キヨラは太陽の頬をつついた。微かに、太陽の瞼が動く。

「太陽、逃げよう。これ脱いで」

「キヨラ、増援が来そうだ。急げ」

 扉の前に立っていた尹がキヨラの方を振り向く。うん、と頷いてキヨラは太陽の方に視線を戻した。薄っすらと瞼を開き、黒い瞳がキヨラを捉える。

「……あ……」

 かすれた声を漏らし、頭を僅かに横にずらす。ぱちぱちと瞬きをして、キヨラの青い目をじっと見つめた。ぼんやりとしている太陽をキヨラが揺さぶる。

「太陽急いで。人が来ちゃう」

「えっと」

 言葉をこぼし、太陽は目を開く。


 黒い瞳が、キヨラの目を見た。

「どなた……ですか」

 え、とキヨラの視線が太陽に向く。体を起こそうと、太陽は袖口の無い左手の手元をベッドに付き、肘をついて足元をずらす。跳ねた髪が擦れた。

「私……あれ、私……」

「太陽、どうしたの」

「キヨラ。早くそれ脱がせろ、時間が無い」

 抑えた声で言われ、キヨラは咄嗟に太陽の着ている拘束衣のチャックを下ろしだした。茫然としている下着姿の太陽の手を取って引く。

「太陽、走って!」

 拘束衣を落としてベッドから滑り落ちる様に、太陽は引かれて走る。

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