17 自由

 ずっと、夢を見ていたのだろうか


 ポタリ、と緑のマットに水を滴らせた上履きを見つめ、ぐっしょりと濡れたそれを小さな手で強く握る。防水のマットに水が跳ね、小さな水溜りが出来る。

 インクの滲んだ濡れたままの上履きに足を入れ

「いたっ」

 つま先を引く。濡れた白い靴下に赤く血が少しだけ滲む。上履きを拾い、少女は中に入れられていた画びょうを床に落とす。つまんで拾い、一番下の下駄箱に投げ入れる。

 床に置いた上履きにそっと足を入れ、水を踏んで階段を上がる。


 扉を引くとざわめいていた教室は一旦止み、再びざわめき出す。

 机と机の間を進み窓際に寄せられた机を引き、椅子を下ろして背負っていたランドセルをその上に乗せる。机に書かれた言葉の数々に僅かに目をやり、水が滴るほど濡れた自身の雑巾を手に取り、机を拭く。

 長い黒髪を垂らし、黙々と机を拭く少女を生徒が横目に見る。扉が引かれた。

「皆さん、おはようございまーす!」

 元気よく笑顔で入ってきた担任教師の方をぱっと向き、生徒一同は挨拶を返す。さっと雑巾を椅子の下に戻し、少女はにこりと笑った。

「おはようございます」

「あら、また遅れたの? このおっちょこちょいさんめっ」

 にっと笑って担任は名簿を開く。

 少女は笑みを緩め、ランドセルを開ける。



 勢いよく突き飛ばされランドセルが電柱にぶつかる。壊れた金具が開いてランドセルの中身が水溜りに散乱した。ノートが濁った水に浸る。

「へらへら笑って気持ちわりぃんだよ」

 笑い声をあげる生徒達の方に顔を上げる。開いた筆箱から鉛筆が転がって用水路に落ちる。あ、と小さく声を漏らした少女に、一人が手を差し伸べる。

「……ほら。さっさと立てよ」

 俯けていた黒い瞳を開き、濡れた手を少女は、そっと少年の手に伸ばす。

 後ろ手に持っていた彫刻刀が少女の手に突き刺される。

「うっ」

 切り口から血が滲み、咄嗟に引いた手を少女は押さえた。笑いながら去っていく生徒たちのナップザックを薄目で見つめる。

 血の滲む手を緩め、水溜りに付き、体を起こす。

 水の滴るスカートを切り傷の入った手で絞る。水溜りの上に散乱した教科書やノートを拾い集め、下ろしたランドセルの中にしまう。

 つまみ上げた鉛筆に、水滴が垂れる。

「……今日は」

 呟き、少女は消しゴムと鉛筆を拾って筆箱にしまう。傷の無い方の手で顔をこすり、ランドセルを背負い直した。

「今日は、お母さんがお菓子を作ってくれる日だから」

 水溜りの残る路地を歩き出す。崩れたままの家の塀からひまわりの花が日を浴びて黄色く咲き誇り、ブルーシートで覆われた屋根についた水滴が光る。

「だから」

 顔を上げ、少女は足を止める。



 ぴくり、と手が動く。閉じられていた唇が微かに開いた。

「え」

 声を漏らし、拘束衣の中で手を僅かに動かすもベルトできつく固定された腕は動かない。目隠しをかけられた顔を僅かに横に向ける。体を固定されたベッドの、頭の下に敷かれたタオルがずれた。

 カーテンのかけられた薄暗い白い部屋の中を電灯が照らす。

 かちゃ、とドアノブをひねる音に続き、眼鏡をはずした女が入室する。

「あ、太陽。起きてたんだ」

 ベッドへ歩み寄る女の方へ、太陽は顔を向ける。

「ここは」

「太陽のための仮拠点……みたいな」

「お前は誰だ」

 問われて、女は言葉を止める。そっと、ベルトで縛られた拘束衣の上に手をのせる。

「覚えてるかな。昨日のこと」

「何の……」

 言いかけ、途切れる。僅かに離れたまま、微かに唇から声が漏れる。

「太陽、落ち着いて、聞いてね」

 静止した太陽に、女は穏やかな口調で話しかける。

「太陽ね、帰国するんだよ」

 あ、と声がこぼれる。袖口の無い拘束衣の下で手が動いた。


「嫌だっ!」

 扉の向こうからした声にキヨラは俯けていた顔を上げた。窓の無い扉を見つめる。

 叫ぶ声、それを制する声に、キヨラは膝に置いた指を強く押し付ける。真新しい白いシャツの裾を指で握る。ぼんやりと扉を見ていたキヨラの横を職員が通り過ぎていき、扉の中に入る。

 職員の声が聞こえ、やがて声は落ち着いていき、静寂が戻る。

 かちゃ、とドアノブをひねって出てきた職員にキヨラは詰め寄った。

「あのっ、太陽は」

「今は鎮静剤で眠っています。ですが危険ですので部屋には入らないでください」

 言い残して、職員らは去って行った。その背から目を外し、キヨラは扉をじっと見つめる。高い位置に空いた小さな穴から細く光がこぼれる。



 ぱちぱちと音を立てて燃え盛る家の前に人だかりができていた。

「やっぱりお金持ちだから」

 人々の囁き声が聞こえる。

「妬みを買ったのね」

 業火を上げて家の柱が庭の焦げた芝生に落下する。火花が飛んだ。

 灰色の煙が空高く昇る。

 ランドセルを落とし、少女は歩き出した。開いたランドセルから筆箱が出て鉛筆が転がる。補修工事のされたつぎはぎの道を家へと歩み寄る。

「あの子、もしかしてこの家の」

「可哀そう。これから誰のところに」

 火花のこぼれる家に近づく少女を男が制した。庭に焼け落ちた台所の、刃先の僅かに錆びた包丁に視線を落とす。

 路地の角で数人が家を見上げていた。

「何も燃やすことなかったんじゃ」

「金目のものは取ったし、さっさとずらかろうぜ」

 赤い火を映す黒い瞳が人物たちを捉える。血がまだ流れる、切り傷の手に包丁を握り、顔を上げた少女に人だかりが引く。

 頬で水が乾いたあとを炎が照らす。

 庭に咲く花々が煙に揺れた。飛んでいた蝶が火の中で燃える。

 アスファルトに引かれた白線の先が消えかかっている。


 雲一つない青い空の中央で、日が輝いていた。

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