16 空

 階段のおどり場で行く手を阻まれ、尹は目の前の男を睨みつける。

「そんな怖い顔すんなって。同じ炊飯器の飯食った仲だろ?」

 男はにやりと口角を上げて尹のわき腹に棒を当てる。

「ああそうだな。それならそこをどいてくれ」

「まぁ焦るなって。あのめんこい嬢ちゃんなら無事だぜ」

 男の言葉に尹は目を細める。

「あれを差し出すなら、って条件付きだけどな」

 尹の表情の些細な変化に、男は表情を緩めた。

「て、言ってもお前は譲らねぇだろうし。仲間のよしみで交渉してやったんだ」

 指を三本立て、尹に見せる。青白い蛍光灯が黒ずんだ爪を照らす。

「三割だ。懸賞金の三割、目の前で手渡すってさ。どうだ、随分でかいだろ」

 僅かに尹の視線が揺らぐ。男はそれを見逃さなかった。

「金だけ受け取ってお前は組織ともおさらばだ。これ以上の好条件があるか?」

「……あいつは」

 口を開いた尹に、男はああ、と声を漏らす。

「あの嬢ちゃんか、勿論無傷で逃がしてやるさ。お前がこれを飲めばな」

「違う。……太陽は、本当に大量殺人なんてしたのか」

 意外そうに男は口をすぼませる。ふっと口角を上げた。

「そんなこたしったこっちゃないさ。お前も金が必要なんだろ?」

「質問に答えろ。お前が分からないならもっと上に聞く」

 鋭い目つきの尹に男は眉をひそめ、棒を突き出した。

「なぁ、お前自分の立場分かってんのか?」

 男は棒の、手元に付いたスイッチをちらりと見せる。

「俺がこいつを押せばお前は即失神だ。嬢ちゃんの安全も保障できねぇぜ」

 ぐい、と尹のマントを棒で押し上げた。尹は僅かに表情をしかめる。

「確かお前、こいつの痛みは経験済みだろ?」

「分かった」


 その返答に、男は棒を離し、にやりと口角を上げた。

「賢明な判断だな」

「質問を変える。……引き渡した後、太陽はどうなるんだ?」

 呆気にとられたような表情で男は尹を見る。可笑しそうに頬を引くつかせる。

「お前、まさかあの野郎に惚れてんのか? そいつぁ残念だったな」

「真面目に答えろ」

 言われて、男はへぇへぇ、と軽く返事をして棒を指で揺らす。

「殺されるか拘束されるかの二択だろうな。ま、訳アリらしいし殺しはしないか?」

 疑問形で言う男に、尹は口を噤む。黙りこくってしまった尹を少々つまらなさげな表情で男は見た。棒で尹をつつく。

「で、改めて聞くが。答えはどっちなんだ?」

 口を固く結び、尹は視線を足元に落とす。指先が震える。

 パチッと蛍光灯が音を立てた。中で羽虫が飛ぶ。

「……ん?」

 きぃ、と扉の開く音に男は顔を上げた。逆光で陰になる足を下ろし、淡々とした歩調で階段を下りてくるのを見て男はおっ、と声を漏らす。

「恰好のチャンス、ってやつだな」

 背後に棒を回し、足を一歩引いて気取られぬよう臨戦態勢に入る。

「た、太陽、キヨラが人質にとられ」

 尹が伝えようとした時、すっと太陽の手が横切った。黒い両目が男を捉える。ひ、と男は棒のスイッチから指を緩めた。咄嗟に逃げ出そうとする。

 だがそれよりも先に太陽が手を振りかざした。

 鮮血が尹の頬に跳ねる。


「……え」

 頬を血が滴り落ち、尹は返り血を浴びたマントを揺らして、太陽を見る。血を浴びた手に握られた銀色のナイフを伝い、刃の突き刺さった男の顔面からこぼれる血を蛍光灯が照らした。

 引き抜くとえぐりとられた肉片と血が飛び散る。すぐさま太陽は再びナイフを下ろす。崩れた鼻から血を垂らし、顔を押さえようとした男の胸にナイフが突き刺さされた。壁に押し付けられた男からナイフを引き抜き、再び刺す。

「太陽、やりすぎだ」

 押し出すようにこぼした尹の言葉に太陽の手が止まる。銀の刃先から鮮血を滴らせ、喉から微かに息を鳴らしている男から尹に視線を移す。

 真っ直ぐと向けられた、サングラスの無い黒い両目、まるで無表情な顔に血を浴びた太陽を見て尹は微かに喉元で声を漏らす。男の喉から洩れた空気が鳴ると太陽は男の喉に刃を突き立てた。深く、深く刺しこむ。どくどくと血がこぼれる。

 滑りだすように尹は階段を下りた。パチ、と蛍光灯が音を立て、赤い血の足跡がコンクリートの階段に付く。開け放された扉をくぐった。

「何だ、まさか」

「逃げろ! 今すぐここから逃げろ!」

 必死の形相で訴える尹にキヨラを囲む数人は、は?と声を漏らす。柱に縛り付けられたまま、まだ俯いているキヨラの方へ尹は駆け寄る。一人に腕を掴まれた。

「おっと、それ以上は」

「放せ!」

 顔を上げた尹の頬を滴る鮮血に手が緩む。血の足跡はかすれ、尹はキヨラを縛る縄に飛びついた。堅く縛られた縛り目を解こうとする尹のフードが引っ張り上げられる。

「テメェ」

 た、と静かな足音に尹は呼吸を止める。

「お、援軍か?」

 包丁を手に歩み寄る靴音、瞬時ナイフがあげられかけた手を的確に刺す。包丁の刃が刺さり上着を着た太陽の手首から血が吹き出した。足で腹部を蹴り飛ばす。

「う」

 うめき声をもらし腹を抱えた男が睨むより先にナイフは下腹部に押し込められる。目を見開いたその横からもう一人がスタンガンを上げようとして

「あ、こいつ」

 呟いた。と、同時にみぞおちを刺される。腹部を押さえ血を流してうずくまる男の傷を靴で踏み、立ちすくむ残党に太陽は目を向けた。血の跳ねた壁に手をつき、壁にすり寄るように逃げ出し悲鳴を上げる。その声にキヨラが瞼を開く。

「え、こ」

 顔を上げたキヨラの口を尹が手で塞ぐ。目を開き、キヨラは床に転がる人々と飛び散る血、返り血を浴びてナイフを振るう太陽を見た。

 声にならない声を喉の奥で漏らす。やっと緩んだ縄を引き、尹は縄を解いた。

「逃げるぞ」

 囁いてキヨラの手を引き走り出す。ぱちゃんと血を踏んだ音に太陽は顔を上げかけるも、ひぃ、と小さく声を漏らした隅に寄る男の方へナイフを振り上げる。部屋の床中に真っ赤な足跡が残り、潰れた傷から血を流し、微かに動く息も絶え絶えな体に幾度もナイフを突き立てる。押し込み、引き抜き、また刺す。

 返り血を浴びたまま階段を駆け上がって尹とキヨラは明るい外へと走り出る。

 パチ、と蛍光灯の中で羽虫が弾けた。青い空の下、セミの鳴く裏路地を手を引いたまま走り、角を曲がる。


 それはまぶしいほどに青い空だった。


 は、と瞬きをし、ぽたりと水音を立てた自身の手に視線を移す。赤く血に染まった手に握られたナイフから、鮮血が滴って潰れた死体に垂れる。

 足を引き、茫然と後ろを振り向く。

 階段の方へと進む。

 夕焼けの赤い光がコンクリートのおどり場から消え、薄暗い中を蛍光灯が青白く照らす。乾いて茶色くなった血の足跡が残る階段を上り、血に染まった指先で真っ赤なナイフの柄を握り、太陽は黒い目を自身の手元に落とす。

 浅い息を繰り返し吐き、見開いたその目で蛍光灯を反射する血に濡れた刃を捉え、ゆっくりと、振りかざした。

 その手を、強く掴まれる。

 顔を上げる前に首に針が刺さり、素早く押し込まれた薬液に足元がぐらつき、緩んだ手からナイフが金属音を立てて階段を転げ落ちる。

 瞼を閉じた太陽を人々が囲む。

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