14 笛の音
満天の星空の中央から僅か横にずれた位置で月が光っている。薄い雲がかかるも、夜風に吹かれて雲は流される。曲げられたパイプの煙突から白い湯気が昇る。
引き戸を閉め、暗く狭いバルコニーのような空間に出る。微かに白い染みの出来た薄手の上着のチャックを上げ、太陽は街を見下ろした。通路の端に水溜りの出来たところを、野良らしき三毛猫が踏んで走り過ぎていった。
茶色いサングラスを外し、水滴のあとを袖で拭う。袖口についたままの血に太陽は視線を落とした。
暗がりの中を誰かが急ぎ足で通り過ぎて行く。
手すりの錆を見つめていた太陽の目が、微かに細められる。
引き戸を引く音に太陽は振り向いた。
「あれ……太陽?」
眠たそうに目をこすり、まだふらつきながらキヨラは太陽の方へと歩み寄る。手すりにつかまり、俯く。
「頭が痛くて眠れなくって……太陽も?」
問われ、太陽は視線を泳がせ手すりに逸らす。キヨラは手すりに腕を乗せ、額を押さえながらその上に顎を乗っけた。
「ひんやりしてて気持ちいい……」
目を細めて口角を上げるキヨラに、太陽は少しだけ視線を向ける。
「あまり寄りかかると落ちるぞ」
「えっ!?」
即座にキヨラは手すりから離れた。驚いて太陽は僅かに目を開く。鼓動の早まる胸を押さえ、キヨラは少し考え込み……再び手すりについた。
「……まぁ、落ちてもいっかな」
笑い、少しの間何も言わずに街を見下ろす。キヨラを見ていた太陽は、視線を外し、同じく街を見下ろした。
「ね、太陽。知ってる?」
だが突如キヨラに声を掛けられその方を向く。
「……何をだ」
「初めの日に吹いてたあの曲、二番があるんだよ」
え、と手すりに置いた手を浮かせた太陽に、キヨラは笑いかける。
「歌おっか?」
「今」
言いかけ、太陽は言葉を止める。
手すりに置いた腕の裾に視線を落とす。
「……ああ」
キヨラは目を向かいの建物に向け、軽く息を吐いた。アルコールを含んだ香りが夜風に流される。すっ、と息を吸う。
透き通った小声が聞こえる。
夕焼けの光の中に おぼろげな人影が 闇の中にとけて 消えて無くなる
曖昧な記憶の音に ふと耳をすませれば 何故だか涙が 頬を伝う
長い旅の終わりには 何もないだろうけど
あの夜流した涙の 意味を見つけるために
夜闇に、歌声が途切れる。
「……私は、二番の方が好きなんだ」
ぽつりとつぶやいたキヨラに、太陽は視線を僅かに落とす。
「そうか」
風が吹き込み、吊るされた草がなびいた。ぶるるっとキヨラは体を震わせ、小さくくしゃみをした。鼻をすすり、身を縮こまらせる。
「さっきまで暑かったのに、もう冷えちゃった」
笑って見せながらも微かに体を震わせているキヨラを見た。太陽は手に持ったままだったサングラスをかけ、上着のチャックをつまんで下ろした。
長い袖から手を引き、脱いだそれをキヨラによこす。
「え」
茫然とキヨラは太陽を見た。それから、不思議そうに上着に手を伸ばす。
「ありがとう……」
やや大きな上着の袖に手を通し、袖口から指を出してチャックを上げる。薄いフードに短く切られた黒髪がかかる。
「……いい匂いがする」
表情を緩ませるキヨラに、太陽は微かにしわを寄せる。
「酒臭いだけだ」
「ううん、それもそうなんだけど……なんというか、太陽の匂い」
「当たり前だろ、私の上着だ」
呆れたように言う太陽に、キヨラは笑った。
「太陽、前よりいっぱい喋ってくれるようになったよね」
太陽は目を離し、逸らす。
「……お前がしつこいからだろ」
「そっかぁ」
にこにこと笑っていたキヨラは大きなあくびをして、手の上に顎を乗せる。だが次第にうつらうつらと瞼が落ちてきて、小さな寝息を立て始めた。
そっと、太陽はキヨラに視線を移す。袖についた血がキヨラの唇に付いていた。
熟睡しているキヨラの脇を抱え上げ、部屋へ戻る。
「用事がある。夕方には戻るはずだ」
一言だけ言い残し、太陽は鞄を肩にかけて部屋の扉を開け、閉めた。寝起きのキヨラは目をこすり、もう布団をたたんでいる尹を見る。
「用事ってなんだろうね」
「さぁ、演奏のことじゃないか。それよりキヨラ、体調は大丈夫か?」
聞かれ、思い出したように襲ってきた頭痛にキヨラは頭を押さえる。
「やっぱりな……薬買ってくるよ」
ため息をつき、尹は床に置いてあったマントを羽織る。
コンコン、と扉をノックし、太陽は手を離す。
歩み寄ってくる足音の後、きぃ、と蝶つがいが音を鳴らして扉が開いた。眼鏡をかけた女は太陽の顔を見てにっこりと微笑む。
「おはようございます。さ、どうぞ」
軽く頭を下げて太陽は部屋に入り、女が扉を閉める。
「楽しみに待ってたんですよ。どんな曲でも構いません」
にこにこと笑い、女は畳んだ布団に座る。手に持っていた笛を上げ、太陽はサングラス越しの黒い目でその吹き口に視線を落とした。
「それでは……」
息をつき、女の肩をちらりと見て、そっと吹き口に唇を付ける。
静かな、安定した笛の音が朝日の差し込む部屋に響く。
短調でありながら鮮やかな曲調に、女は微かに目を細め、視線をそらして後ろ手に持った注射器に指をかけ……かけるも、それをそっと後ろポケットにしまった。
両頬に手を当て、じっと笛を吹く太陽を眺める。
足の指先を丸め、口元にほのかな微笑みを浮かべる。
同じメロディーを二度繰り返し、笛の音は止んだ。
笛から口を離し、丁寧に太陽は頭を下げる。女はぱちぱちと手を叩いた。
「こんな美しい演奏初めて聞いた。生きていて良かったと思った」
手を止め、女は布団から立ち上がった。
「ね、料金とは別にお礼がしたいの。近くに有名なカフェがあるから、行きましょ」
「あ……はい」
やや勢いに押されるように、太陽は頷く。扉を開け、棚に置いていた鞄を取って女は廊下に出た。その後を太陽は笛を鞄にしまい、付いて行く。
ふと、女のズボンの後ろポケットの凹凸を見る。
空は薄い水色に染まっていた。
「キヨラ、買ってきた……って、あれ」
扉を開け、尹は誰も居ない部屋の中を見回す。廊下に出て、扉の番号を確認し、再び部屋に目を戻した。部屋の中を進み、引き戸を開ける。
「いない……」
振り向き、そこに一枚の紙が落ちているのに気が付いた。ほっ、と尹は緊張を解く。
「何だ、どこか行ったのか」
紙を拾い、視線を落とす。
地図の描かれた紙、ぐるぐるとペンでつけられた印に、尹の指が震える。紙を強く持ち、扉から部屋を飛び出して行った。
蹴られた敷かれたままの布団に日が当たる。
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