11 瞳

 だが、女は包丁を持った手を下ろした。

「そういえば聞きましたよ」

「またお喋りか」

 即座に太陽に遮られ、ハンチング帽の女は苦笑いする。

「せっかちですね。貴女、かの有名な稲葉日ホールディングスの社長令嬢だとか」

 にこにこと笑う女を、太陽は怪訝そうに睨みつける。

「……それが」

「十六年前に営業停止したらしいですが。というと、丁度貴女が八歳の時ですね」

 女の茶色い目が太陽を見る。

「何でも、火事で社長さんが亡くなられたとか。奥さんは出かけてたそうですが」

 口角をにやりと上げる。

「でもその後、奥さんも亡くなられたそうで。奇妙ですよね」

 太陽の指が微かに動く。ライトに照らされたそれに目を留める。

「何が言いたい」

 一層睨む目を鋭くし、呟いた太陽に女は表情を緩め、笑って見せた。

「稲葉さん、貴女はその時以降にも沢山人を殺したそうですね」

 口角が上がるのを抑える様に、女は頬を引くつかせて太陽を見つめる。暗がりの中に虫の声が響き、夜風が女の茶色がかった長髪をなびかせる。

「憧れちゃいます。それだけ沢山の人から、人生を奪ってきたなんて」

「だからさっさと用件を言え」

 単調なトーンで言う太陽の声色に、女はにっこりと笑って見せた。

「貴女みたいな方を子供に持てて、ご両親はさぞかし誇らしかったでしょうね」

 ぴたり、と踏み出しかけた太陽の足が止まる。手から携帯ライトが地面に転がり、ころころと茂みの中に入る。

「あ、落としましたよ?」

 茂みの中を照らすライトに女は視線を向け、太陽の方を横目に見る。


 氷の様に冷たい太陽の目が女に向けられた。

 その目を見て女は抑えていた口角を緩め、笑みを浮かべた。恍惚とした表情で太陽に包丁の葉を向ける。携帯ライトの明かりが反射した。

「ああ、やっぱり貴女はそうでなくっちゃ。さぁ、殺し合いましょう!」

 肩掛け鞄の小ポケットからナイフを引き抜いて眉間に深くしわを刻み、女に黒い両目を向けたまま右手に握ったナイフの刃を向ける。噛みしめた唇から血が滴った。

 がさがさと背後で草を踏む音が聞こえる。

 太陽は踏み出し、氷柱のように女を睨みつけ瞬時に右手のナイフを振りかざす。

 だがその手は振り上げたまま誰かに掴まれて止まる。握った手にナイフの刃の先端が当たり、人差し指の切り口から血が滲む。

「やめろ。激情で人を殺したら本当の殺人鬼になるぞ」

 強く掴む手を握り、息を荒げながら尹は太陽をさとす。その声に太陽は目を僅かに開き、後ろを振り向いた。尹の後ろにはキヨラも立っていた。

 二人の視線に、太陽はナイフを握る腕から力を抜く。

「せっかく上手くいったのに」

 だがはっと気が付いて後ろを振り向くと同時に包丁の刃先が尹めがけてかざされる。

「危ないっ!」

 後ろに立っていたキヨラが飛び出して尹を横に突き飛ばす。包丁の刃はキヨラの小麦色の首をかすめ、服に引っ掛かった黒髪の三つ編みの根元を包丁がざくりと横切る。毛先を結ばれたまま編んだ毛束は地面に散乱し、夜風が肩に付かぬほどに切られた髪をなびかせた。太陽の視線がキヨラに向く。

「あ」

「邪魔するからいけないんだよ」

 首元を押さえ髪を見たキヨラに包丁が振りかざされる。咄嗟にキヨラは目を瞑るも、その刃が到達する寸前で女は後ろを振り向く。


 太陽の振り上げたナイフが女の胸に刺さる。返り血が白く照らされた顔に飛ぶ。

「あっ……ゆ、油断しちゃった、な」

 口から血を吐き、太陽を見て包丁を当てようとするもナイフを引き抜かれて再び地面目掛けて突き刺される。倒れ込み、開いた傷口からどくどくと血を流しながら真上に立つ太陽の顔を見上げた。

「つ、つまらないな。こんな、情にほだされてるなんて。がっかり、だよ」

 荒い息と血をこぼし、女は口角を上げて見せた。

「でも、結局殺すんだ。やっぱり」

 ナイフが喉元に刺される。息を漏らして女は上を見上げる。


 ナイフを引き抜いた返り血を上着と顔に浴び、手を赤く染め血を滴らせ、氷の様に冷たい黒い目で太陽は女を見下ろしていた。

「お前が連続殺人犯だからだ。これ以上に理由がいるか」

 喉から胸から血を流しながら、女はうっすらと目を細め、口から血をこぼした。

「何を」

 かすれた声で、茶色い瞳が太陽をじっと見上げる。

「誰かを傷つけることしかできない、あなたが」

 口からどっと血を吐き出し、喉から息を漏らし、茶色い目を開いたまま女は事切れた。動かなくなった指先に鮮血が広がって浸る。

 夜風に流される血の匂いに太陽は手で口元を覆った。

「……太陽」

 ざっくりと切られた肩に付かぬほどの髪を揺らして、血の中を裸足で進み、キヨラは太陽に歩み寄る。瞼を閉じたまま、太陽は血の滴るナイフを上着の袖で拭き、鞄の小ポケットにしまった。刃先が指に当たって血がこぼれる。

 ぱっと目を開き、太陽は血を踏んで獣道を元居た方へと速足で歩き出した。キヨラがその後を追い、茫然と目が開いたままの女の死体を見下ろしていた尹も後を追う。茂みの中に転がったままの携帯ライトが白く赤い血を照らし、獣道に続く赤い足跡を照らした。やがて足跡はかすれ、途絶える。

 暗闇の森の中に虫の声、フクロウの鳴き声が響く。

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