第105話 名店は客を育て 上客は店を育てる(9月28日)

 白鵬関を初めて認識したのがいつだったかと問われれば覚えていないのだが、その名を心に刻んだのは大関に昇進した時ではなかったか。

 荒々しくも個性的な取り組みで他を圧倒する朝青龍関に立ち向かえるだけの力士が出てきたのではないかという淡い期待は、やがて前人未到の記録によって塗り替えられていく。

 ただ、この両力士の取り組みは燃え滾る闘志が全開で私は楽しみで仕方がなかった。

 魁皇、千代大海、栃東と今にして思えば贅沢な大関陣に加わり、栃東の引退を挟みながら、青と白の交わらぬ戦いを見られたことはこの上ない幸福と言えよう。

 取組後に睨み合って問題となったこともあるが、これほどの投資を漲らせる取り組みを今の力士たちは見せることができるのだろうか。

 いや、言葉が過ぎた。

 いずれにせよ、この両者の熱き戦いは私を長く楽しませるのだろうなと信じて疑わなかった。

 当時l、取組には難があると思っていた朝青龍関も、その人柄を好んでいたこともあるだろう。


 それが大きく変わったのは朝青龍関の唐突な引退による。

 これより長らく、白鵬関は苦しい一人横綱の道を進むこととなった。

 横綱の使命というのは、勝つことであり、優勝することであり、それでありながら「上等の人間」であることというあまりにも途方もないものであった。

 この評価は人によると思うが、果たしてその在り方を責められる人はこの国にどれほどあるのだろうかと悩んでしまう。

 少なくとも品位に欠ける私などは、とても論うことなどできないと思うのだが、いかがだろうか。


 この後に来るのは白鵬と稀勢の里が鎬を削る「白稀時代」であると定義するのは私の稀勢の里びいきが過ぎるのだろうか。

 無論、勝率で言えば日馬富士の方が良い。

 ただ、白鵬の大型連勝を止める姿と稀勢の里の優勝を阻む姿を見ればこの呼び名も許されるのではなかろうか。

 寡黙な稀勢の里と勝ち星を追う白鵬との土俵上での語り合いに何度息を呑まされたことか。

 それで好きな稀勢の里が敗れて煮え湯を飲まされたことも何度あったことか。

 しかし、白鵬無くして稀勢の里無く、稀勢の里以上に白鵬へ燃える戦いを魅せる者もいない。

 憎たらしいほどに強い横綱がいたからこそ、今の荒磯親方があるというのはあまりにも捻くれた考えだろうか。

 いずれにせよ、白鵬関の引退した今、二人が酒を飲みながら語らう姿などを拝見したいものである。


 私が白鵬関の姿を目に収めたのは玉名での一度のみであり、力士の大きさというのはかほどのものかと驚かされた。

 それが子供たちに押されて「土俵を割る」姿には笑顔と同時に涙を誘われたものである。

 横綱もまた人間であり、いずれ笑い事ではなく土俵を去る日が来る。

 私の相撲人生の約半分を飾った大横綱の去り際を、私は果たして無事に迎えられるのだろうか。

 稀勢の里が引退した今、その最大の壁が失われることにも、偉大な横綱の姿が土俵に消えることにも恐怖だけが過った。


「行く川の流れは絶えずして、しかも元の流れにはあらず」


 諸行無常。

 それを玉名の山寺で痛感しつつ、穏やかな横綱の表情に見入ったものである。


 引退に際して横綱審議委員会の委員が苦言を呈したという。

 品位というのは自らの行い全てに降りかかるものである。

 相撲の取り口や横綱としての在り様から批判をするのは容易なことである。

 とはいえそれを、引退を申し出た当日に行う阿呆がどこにいるというのか。

 

 繰り返す。

 引退する横綱に対して直ちに批判を行う阿呆がどこにいるというのか。


 問題視される行いがあったこと自体は否定しない。

 しかし、この大横綱に足して十分な尊敬を我々は示してきたのであろうか。

 稀勢の里の勝利に対して万歳三唱をした逸話は有名であるが、これは土俵への対し方に反するのではないか。

 横綱は強い存在であるが、それ以上にある意味で強い影響を持つのは観客であり、世論などという無粋な存在である。

 ならば我々は横綱以上に「横綱相撲」を問われるのではなかろうか。


 言葉が過ぎた。

 大横綱の引退を前に新横綱の照ノ富士を持ち上げる記事を複数目にしたが、掌を返すまでにどれほどの時間がかかるものかと今から不安視している。

 先に「本日の出来事」で触れたことと重なるが、照ノ富士関が用いた「お相撲さん」という言葉に往時の力士の在り方を私は重ね合わせ、胸を突くようなものを感じた。

 力士という言葉も相撲取りのことを表すが、この「お相撲さん」という和語はなんと優しい響きであろう。

 こうした眼差しで昔の人々は相撲を見詰めてきたのかもしれない。

 だからこそ、その眼差しを受けた「お相撲さん」もまたそれに応じてきたのであろう。


 白鵬が土俵を去る今、課題を多く残したのは個人ではなくその周りを囲う人々である。

 それに無自覚であり続けるのであれば、相撲どころか至る所で浮世の在り方が蝕まれていくに違いない。

 いや、もう至る所で穴が開いてもいよう。

 夜長に名横綱へ思いを馳せながら、私は改めて襟を正すこととした。


 最後になるが、白鵬関には「お疲れさまでした、ありがとうございます」という言葉とこれからの人生に幸多からんことをという祈りを捧げる。

 そして、いずれは荒磯親方などと酒を酌み交わしながら話をする姿を拝見したいものである。


【本日の出来事】

◎熊本県 二二店に「時短」命令 特措法受け

 まん延防止等重点措置が解除される三日前にこのような命令を出すことにどのような意味があるというのか。

 手段が目的化した恒例としていずれ教科書に載るであろう。

 過料も視野に入れているそうだが、副知事の「苦渋の決断」という言葉が何とも虚しい。

◎塩野義 新型コロナ用経口薬の最終治験開始を発表

 全てがこれで解決するとまでは言わないが、自宅という名の塹壕に隠れつつ応戦する中で全身可能な武器が一つずつ生産されようとしている。

 人類が発現して以来続く最小の敵との戦いは、こうして一進一退を繰り返してきたのだろう。

 いずれ来るであろうマスクを外しての生活が今から待ち遠しい。


【食日記】

朝:ヌク

昼:鮭ワカメおにぎり、から揚げ

夕:いり焼き鍋

他:おーいお茶、カフェオレ

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