第52話 源流を臨む(8月6日)

 もうどれほど経ってしまったのかは忘れたが、広島にいた頃、八月六日の平和大通りを自転車で駆けたことがある。

 「怒りの広島、祈りの長崎」とは母から教えられた言葉であるが、その熱量を目の当たりにして胸を突き上げられるような思いがした。


 そもそも私の文筆の源流には原爆というものが流れている。

 長崎に生まれた者は幼少期から平和学習の中に放り込まれ、考えさせられる時間も長いのであるが、私の中でその思いは変遷しており一つの形になり始めたのがちょうど高校生の頃ではなかったか。

 少なくとも小学生の頃は単純に凄惨な被爆の実相を見て戦争を嫌い、原爆の投下を誹るだけであったのだが、そう単純なものではなさそうであると気付き始める。

 そこから思考の沼にはまり込んでいくのであるが、その頃から私は批判の対象を単純に核兵器へ絞るようになった。

 決してそれが全てという訳ではないのだが、思いが散れば散るほど巻き込まれるものが大きくなってしまい、その分だけ共感を得ることができなくなってしまう。

 一人が思うだけで現況が変わるのであれば楽でいいのだが、そのような独裁制は何も生まず、一人でも多くの賛同者を集めるより他にない。


 その変遷が最も分かりやすく出たのが拙著「長崎の鐘」と「平和への祈り」である。


 この二作は一年を置いて書かれたものであり、前者は等しく祈りを捧げるとしながら原爆を投下した対象に「怒り」をぶつける部分がある。

 それに対し、後者は被爆者と原爆の研究者及び爆撃機の搭乗員を並列にした。

 それも被害者として並べたのではなく、ただそこに関わった一人として並べている。

 それでも、まだ純化できていなかった部分として戦争と核兵器を同列に語っていることである。

 さらにこれを蒸留した結果として私が存在するのだが、平和と核兵器には一線を引いており、優先順位としては核兵器の不使用、廃絶を高くしている。

 何とも幼稚な夢物語だと言われようとも、こればかりは私の血潮が滾る限り純粋に夢見続けることだろう。


 さて、平和大通りの群衆を眺めながら、その垂れ幕の一つに労働環境改善の文字を見つけ、私は思わず蒼天を仰いでしまった。

 なるほど、高校時分に合唱コンクールで取ってつけたような手話パフォーマンスを行うこととなり、それが嫌で当日休んだのを思い出す。

 車道の向こうで上がる声よりも、木々の合間より流れる蝉時雨の方が私には近い。

 その祭囃子が今でも耳について離れぬというのは、私もまた同じ穴の狢ということであろうか。

 八時十五分に首を垂れながら、茫漠とした朝の公園の前で私は静かに煩悶した。


【本日の出来事】

◎小田急電車内で男が複数を刺す

 そのようなことをして何にになるのかというのは、あくまでも何もない日常を送る者の言葉であり、それが犯人に届くようなことはないだろう。

 しかし、この犯人が精神に異常を来しているとして無罪となった日には、流石にやりきれないだろう。

 彼岸がすぐそばにあるとはいえ、あまりに行き過ぎた救済というのはいかがなものかと思う。

◎知事会長ロックダウンの検討を求める

 緊急時にやむを得ぬとしたことも、平時には大きな害悪を齎すことがある。

 平時に注意深く進めていたことでも、戦時には堰を切ったように翻弄されてしまい、常の理を失うことがある。

 何かを縛るというのはそれほどに重たいことであり、橋行く象のように慎重でなければならない。

 勇ましい言葉が先立ってしまい、悲劇を生むのは歴史において繰り返されてきたことなのだから。


【食日記】

朝:ヨーグルト

昼:おにぎり弁当、高菜ラーメン、野菜ジュース

夕:ニラ豆腐トマト風味、とろっと野菜のカレー、日本酒2

他:おーいお茶、水出し緑茶

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