第470話 戦乱の幕開け3

 大図書館でリムライト王子と向かい合っているフォルトは、周囲を取り囲まれていることを知っても何食わぬ顔をしている。

 随分と図太くなったと思うが、こういったものは慣れか。

 立場が人を作るという言葉があり、まさに自身で体験している最中だった。


(さて。何を聞かれるのやら……)


 丹田に力を込めたフォルトは、ラヴィリオにも視線を向けた。

 もしも対立するような話であれば、彼女の結界は厄介だ。破壊を試みていないが、リムライト王子を護るために展開するかもしれない。

 町に出現した悪魔の侵攻を阻んで、魔人も通さなかったのだ。大悪魔バフォメットの結界と同様に、魔神でなければ破れない可能性もある。

 最悪の場合は捕縛のために使われて、結界内に閉じ込められてしまう。


「俺に聞きたいこととは?」

「ローゼンクロイツ家とエウィ王国の関係について、です」

「うん? エウィ王国?」

「親書を携えていましたよね」

「そっそうだったな!」


 ローゼンクロイツ家は、アルバハードからの外交使節団である。バグバット宛に返書を渡すのは構わないが、エウィ王国についてはどうしたものか。

 親書を受け取りはしたが、別々の国なのだ。

 関係性が不明なフォルトに渡すことは無理である。


「王子の質問に答えるためには、俺のことを話さないと駄目だな」

「お願いします」

「まず当主になった経緯は聞くな。プライベートな話だ」

「わ、分かっていますよ」


 座っている場所がソファーなら、姉妹を引き寄せて口付けする。とはいえ残念ながら椅子なので、そういった行動は難しかった。

 ともあれフォルトは、ユーグリア伯爵にも伝えた内容を開示する。


「俺は異世界人で高位の魔法使いだ」

「異世界人、ですか?」

「拉致同然で召喚されたのだ。エウィ王国との関係など愚問だろう」

「ですが異世界人は、王家の命令に従いますよね?」

「俺は従わない。そもそも国民ではない!」

「では、エウィ王国との関係は希薄だと?」

「希薄とは違うな」


 エウィ王国の親書を届けた理由は、リゼット姫からの依頼である。

 フォルトの頼みを聞いてくれたので、渋々ながら受けたのだ。またそういった行動を選択肢に入れるのも、グリム家の存在があるからだった。

 つまり……。


「俺はグリム家に恩義を返しているだけだ」

「なるほど。そうきましたか」

「信じるか信じないかは任せるが、な」

「仮に信用するとして、エウィ王国への返書は要らないと?」

「俺たちはサザーランド魔導国に向かう。後は分かるな?」


 どうせ帰り道なので、エウィ王国に返書を届けるのは構わない。と言っても本来の目的は、妖精の捜索と竜王を目覚めさせること。

 もちろん目的は伏せるが、返書を渡されても当分の間は届けない。


「パロパロ様から聞いております。確かに届かないのは困りますね」

「ちっ。知っていて聞いたのか?」

「いえいえ。完全に忘れておりました」

うそを言え。では、アルバハードへの返書を渡してもらおう」

「はい。お受け取りください」


 リムライト王子は懐から返書を取り出して、フォルトの前に置いた。

 それを無造作に受け取り、後ろに立つレイナスに渡す。


「これで終わりか?」

「そうですね」

「ふーむ。ならば俺からもいいか?」

「何でしょうか?」

「質問の意味だ。返書の件とは別に何かあるのだろう?」


 返書の受け渡しだけのために、フォルトたちを取り囲むはずがない。他にも意味があるからこそ、そういった行動に出ているのだ。

 気付いていないと思っているのだろうか。


「意味ですか?」

「俺たちを取り囲んでいるのは騎士のようだが……」

「ははははっ! やはりバレていましたか」

「当然だ。ローゼンクロイツ家をめているのか?」

「申しわけありません。陛下からの命令です」

「ちっ。余程俺たちが気に食わないようだな」

「それもありますが……」

「言えない話か?」

「いえ。エウィ王国からの親書が原因ですね」


 外交文書は機密扱いなので、内容までは話せないとの前置きはあった。

 とりあえずエウィ王国からの親書に対して、ベクトリア王は激怒したそうだ。しかも、親書を携えていたフォルトの首を送り返すとまで言い出した。

 それをなだめるのに、リムライト王子は苦労したらしい。


「宥めた結果がこれか」


 ちなみに親書の内容は、リゼット姫がエインリッヒ九世に口添えをした。

 親書とは名ばかりで、ベクトリア公国の解体を指示した命令書にしたのだ。他にも公国樹立の弁明をさせるために、出頭まで命じられていた。

 そして提案どおりに、激怒の矛先をフォルトに向けさせている。

 もちろん、おとしめようとは微塵みじんも考えていない。ローゼンクロイツ家を害することは不可能だと、このゆがんだ精神の化け物は理解していた。

 ともあれ……。


「私の護衛もありますし、エウィ王国との関係性も薄いと考えていました」

「話しては拙いように思えるが?」


 王族の見苦しい姿などを口外しては、威厳が損なわれてしまうだろう。

 国民に知られれば失望を招きかねず、公国樹立の是非すらも問われる。しかも王子が暴露しているので、宮廷内に問題があるのかと疑われてしまう。

 もちろんフォルトにとっては、殺害を匂わされたのだ。

 身の安全を図るために、この場で暴れる可能性すらあった。


「悪魔から助けていただいた礼と思ってください」

「ふむ。まぁ口外するつもりは毛頭無いが……」

「でも礼と言うなら、私たちを襲ってほしいわね」

「まったくねえ。楽しませてほしいわあ」

「そういうことらしい。今からでもどうだね?」


 さすがに尋問を受けたようなものなので、フォルトにとっては不快だった。姉妹も魔族の貴族として、力で解決するほうが意に沿う。

 そして周囲から、ゴクリといった音が聞こえた。


「あまり虐めないでください。拾った命を捨てるわけには参りません」

「だろうな。ところでリムライト王子」

「何でしょうか?」

「これが魔族の貴族の相手にする、ということだ」

「分かりました。少々軽率だったようですね」

「理解したな? ローゼンクロイツ家を試すような真似をするな」

「肝に銘じておきます」


 本当のことを言うと、肝に銘じるのはフォルトのほうだった。テーブルの下ではマリアンデールとルリシオンが、太ももをつねっていたのだ。

 ちょっとだけ痛かったりする。

 とりあえず、名も無き神の教団についてでなくホッとした。とはいえキーワードのように思い出したので、リムライト王子に質問を続ける。


「結構。それともう一つだけ良いか?」

「構いませんよ。もちろん話せないこともあります」

「うむ。悪魔騒動は、誰が収めたのだ?」


 騒動を引き起こしたのは自分たちだが、バレていないなら棚に上げておく。

 フォルトたちも巻き込んで、悪魔を攻撃をした人物についてだ。女性としか分かっていないが、リムライト王子なら何か知っているか。

 自身の信念に基づいて、その人物には報復も視野に入れている。

 幸いにも最悪は避けられているが、マリアンデールは傷を負った。あの攻撃が無ければ、彼女は時間加速など使わなかったのだ。

 情報だけでも知っておかないと、広大な大陸で発見するのは容易でない。


「申しわけありません。それについては緘口令かんこうれいが敷かれています」

「緘口令だと?」

「国家としての事案ですので、私からは言えませんね」

「ふむ」


 フォルトは顎をさすりながら、ラヴィリオに目を向ける。

 精神操作系の魔法で聞きだしても良いが、彼女は信仰系魔法に長けた教皇。確実に阻止されて、ベクトリア公国が敵になる。

 デメリットのほうが多く、盟友バグバットの面子も潰してしまう。


「知ってはいるのだな?」

「一つだけ言えることは、もうベクトリア王国にはいません」

「ほう。公国にはいるのか?」

「それもご容赦ください」

「………………。ならば聞かん。ラヴィリオ殿も同様かな?」

「我ら神殿勢力は、世俗の争いに関与致しません」

「今まさに関与しているようだが?」

「大図書館を守護するためです。王子の協力は不可欠なのです」

「ふーむ」


 美女に強く出られないフォルトは、ラヴィリオの双丘に目を落とす。

 少しばかり司教服がブカブカのようだ。しかしながら様々な特徴を持った身内の体を目に焼き付けているので、そっち系の想像力が豊かだった。

 おっさんの眼フォルト・アイは、体のラインをはっきりと見通す。


(ラヴィリオもおっさんメイド隊に……。まぁ無理、か? ホルン殿とリーズリット殿はいけそうだが……。夢が広がるな!)


 くだらない。

 とてもくだらないが、キャロル用にエロメイド服が完成しているので、本格的に着手しても良いかもしれない。

 そんな思いを知ってか知らずか、ラヴィリオはすまし顔だ。


「王子、そろそろ王宮に戻らないといけないのでは?」

「そうですね。用事も済みましたし、私はこれで失礼致します」


 リムライト王子が席を立つ。

 そして、何かを思い出したかのように足を止めた。


「フォルト殿には重ねて申しわけありません」

「どうした?」


 リムライト王子の謝罪。

 内容としては、サザーランド魔導国に向かうフォルトたちの護衛の件である。ベクトリア王が激怒しているので、護衛を付ける許可が下りなかったのだ。

 外交儀礼に沿えないが、今回は我慢してほしいと言われた。


「察している。どのみちいないほうが気楽だ」

「そう言っていただけると助かります」

「うむ」

「お前たち、城に戻るぞ!」

「「はっ!」」


 フォルトにとっては願ってもない話だった。

 人間の護衛など邪魔なだけなので、快く謝罪を受け入れる。

 それにしてもリムライト王子の態度は、ベクトリア王とだいぶ違う。だが信用はしていないので、「道中で襲われるかも」と邪推をしておく。

 以降は取り囲んできた騎士たちを連れて、大図書館を出ていった。


「さて。俺たちも失礼して……」

「お待ちください」

「うん? ラヴィリオ殿も何かあるのか?」

「いえ。よろしければ、大図書館を見学なさいませんか?」


 ラヴィリオからの提案は魅力的だった。

 フォルトとしては、海外にあるような図書館には訪れてみたかったのだ。他にもどういった書物が並べられているかも興味があった。

 もう出発するつもりだったが、数時間ぐらい遅れても良いだろう。


「司書でも付けてくれるのか?」

「いえ。私がご案内致しましょう」

「…………。教皇が自らか?」

「折角面識を得たのです。関係を深めるのは当然のこと」

「関係を深める、か」


 フォルトは怪訝けげんな表情を浮かべて、ラヴィリオの言葉を舌で転がす。

 確かにゲーム脳ではアバターが映える美女で、自身の趣味にも合っている。だが賢神マリファナ神殿の教皇であり、神殿勢力では最高位の存在だ。リムライト王子も配慮していた様子で、王族よりも立場が上か。

 実際のところ警戒心は拭えず、思惑だらけの提案だと思えた。


(さて。一難去ってまた一難というやつか? 言葉だけであれば、ローゼンクロイツ家と友好関係を結びたいと言っている。でも神殿はなあ)


 天界の神々を信用していないフォルトは、神殿勢力と関係を持ちたくない。しかもイービスの神殿勢力は、金の亡者とのイメージがあった。

 信仰系魔法を使った治療では、寄付と称して多額の金銭を請求する。もしも関係を持つと、「ケツの毛まで抜かれる」かもしれない。

 それでも口角を上げて、彼女からの提案を受けるのだった。



◇◇◇◇◇



 サディム王国の北西にあるジンクとりで

 カルメリー王国との国境にある砦で、同名の町を守護するために、サディム王国四天王の一人サーダが配備されていた。

 高い丸木を重ねた壁に囲まれており、木造と言えどもそれなりの堅牢けんろうさを誇る。また壁内の左右には、遠くを見渡せるやぐらが建っていた。

 砦自体は壁内に二つ建造され、その中間が検問所になっている。

 周囲はただっ広い平原で、姿を隠せる遮蔽物は存在しない。左右二十キロメートル圏内では、所々に国境警備の詰所が存在する。

 それ以上先は魔物の領域になるので、越境の監視だけに留めていた。


「こちらに砦はありませんが……」


 そしてカルメリー王国側には、砦が存在しない。

 いや、現在は建造中と言ったほうが正しいか。国境警備の詰所関係は同様でも、ジンク砦の対面には検問所しかない。

 一応は木造の柵を並べてあるが、堅牢さは期待できないだろう。個人の越境を阻止する程度しか機能せず、軍隊で攻められたら破られる。

 その検問所には、ユーグリア伯爵が到着していた。

 仮に張られた天幕の一つでは、伯爵が椅子に座って書類を書いている。


「伯爵殿、随分と待たされているが?」


 エウィ王国英雄部隊「ガイア」所属、十傑の一人アンジェロが口を開く。

 現在のユーグリア伯爵は、検問所近くの駐屯地で、開戦の仕込みをしている最中。彼からは急かされているが、戦場に到着したからと部隊を動かせない。

 書類から目を離した伯爵は、隣に立つ副官のリシュアに目配せした。すると伊達だてメガネをクイクイと動かしながら、伯爵の代弁をしてくれる。


「前から準備を進めておりますが、最後の調整をしています」

「さっさと宣戦布告をして、ジンク砦に攻め掛かれば良いのでは?」

「事はそう単純ではありません。もう少しお待ちください」

「せめて概要をお聞かせ願えないか? 王子に説明せねばならぬ」

「伯爵様?」


 確かにアンジェロも、子供の使いではない。

 ハイド王子もしびれを切らしている可能性が高いか。ローゼンクロイツ家と極秘裏に会談した手前、あまり怒らせると拙いことになる。

 どうせ、デルヴィ侯爵にはバレているのだから……。


「カルメリー王国から宣戦布告はできないのですよ」

「なぜだ?」

「我らは小国。開戦をするにも工夫が必要なのです」

「時間がかかりすぎだろう?」

「宗主国の命令には従いますが、何でもと云うわけにはいきません」

「と言うがな。貴国の立場を考えると……」

「大丈夫ですよ。戦争になれば良いのでしょう?」

「まぁそうだが……」


(やれやれです。属国と言っても主権体制は維持されているのだから、あまり無茶な命令をしないでもらいたいね)


 属国の立場など知れている。

 宗主国に不利益を与えると、簡単に切り捨てられるのだ。

 エウィ王国は戦争の責任を、カルメリー王国に着せるつもりだろう。だからこそサディム王国に向けて、こちらから宣戦布告はできない。

 小国は蝙蝠こうもり外交をしないと、国の存続自体が難しいのだ。

 宣戦布告をしてしまえば、ベクトリア公国との関係を修復できなくなる。宗主国から切り捨てられたときに、公国への参加が難しくなってしまう。

 小国の立ち回りとしては仕方ない。


「今は傭兵ようへい団を雇って、国境の緩衝地帯で作業をさせております」

「傭兵団だと? 伏兵のつもりか」

「いえいえ。資源調査ですよ」

「伯爵殿は何を言っておられるのだ? 戦争をするのだぞ!」

「アンジェロ殿に分からないなら成功しますね」


 傭兵団自体は、資源調査をする研究員たちの護衛だ。

 そして緩衝地帯とは、両国境の間にある空白地である。カルメリー王国側の検問所からジンク砦までの約八キロメートルが対象になっていた。

 街道は対象外だが、左右に広がる平原は立入禁止区域になっている。

 ノウン・リングで言えば、朝鮮半島の南北軍事境界線が思い浮かぶだろう。実効支配領域を分割している地帯で、地続きの国境線となっている。

 ユーグリア伯爵は「もうすぐですよ」と、笑みを浮かべて話を締めた。


「リシュア、傭兵団からの報告は?」

「そろそろ定期報告が来るはずですが……」

「おっと。来たようだね」


 天幕の外が騒がしくなって、一人の騎士が入ってきた。

 それから握り拳を胸に当てて、ユーグリアに敬礼をする。


「ご報告申し上げます!」

「はいはい。どうやら動きがあったようだね?」

「ジンク砦より歩兵部隊の一団が出た模様です!」

「では、二十四番の騎馬隊を救援に向かわせてください」

「はっ!」


 伝令の騎士に命令を出したユーグリア伯爵は、再び書類を書き始めた。

 もう戦闘は始まっているのだが、実におっとりしている。リシュアも天幕に用意されている茶を入れて、伯爵の机に置いていた。

 その光景に苛立ったアンジェロから、またもや質問される。


「戦闘が始まるのなら、俺は報告に戻っていいのか?」

「まだですよ。頃合いを見て退きますからね」

「どういうことだ?」

「もうすぐ本格的な戦闘が始まる、という話ですね」

「うーむ。分からん」

「ですか? まぁ本日はお休みください」


 今日のところは、これ以上の進展が見込めない。

 そうアンジェロに伝えて、天幕から退出してもらう。色々と文句を言いたそうだったが、ユーグリア伯爵にもやることがあるのだ。

 彼の質問に答えている暇など無い。


「分かった。何かあればすぐに呼ぶのだぞ?」

「了解ですよ。ではリシュア、アンジェロ殿を送って差し上げなさい」

「はい」


 リシュアも騎士と同様に敬礼をして、アンジェロを連れ出した。

 それからのユーグリア伯爵は、何枚もの書類を書きあげている。内容としては、各部隊の隊長に渡す命令書だ。

 今は貴族ではなく、用兵家としての本領を発揮しているところだった。


(さて。サーダ嬢も苛立っているでしょうね。私は私で、被害を減らす用兵をしなければなりません。やはりこちらのほうが、私の性に合っていますね)


 最近は貴族の仕事ばかりで、ユーグリア伯爵は疲弊していた。腹の探り合いは、敵の指揮官とするほうが楽しい。

 伯爵は席を立って、緩衝地帯の地図を広げた。

 同時に四十個ほどの駒を、テーブルの上に置く。数字が刻まれたそれは、ユーグリア伯爵軍の部隊を表している。

 そして暫くの間、駒を地図上で動かしながら何度かうなっていた。


「今日の戦闘は三カ所……。明日は昼から行うとして……」

「伯爵様、戻りました」


 リシュアが天幕に入ってきた。

 それからアンジェロの様子を報告した後は、何枚かの書類を机に置く。


「少しお休みになられてはいかがでしょうか?」

「書類を提出しておいて、それを言うかね」

「横になられては? という意味です。目は開いておいてください」

「さすがだね。リシュアは本当に優秀な副官だよ。鬼かっ!」

「あら。でしたら、もう一枚差し上げます」


 余計な一言は、更なる不幸を招くか。

 リシュアは文官でも、騎士の家系に生まれている。見た目どおりと言って良いかは分からないが、彼女は気が強い女性だ。

 ともあれ渡された書類に目を通すと……。


「あれ?」

「承認印だけで結構です」

「………………。リシュアに配置換えの話なんてしましたっけ?」

「やらないのですか?」

「いや。やろうと思っていましたが……」

「ならさっさと押してください」

「わ、分かったよ」


(本当に優秀な副官だね。もうリシュアに用兵を任せてもいいんじゃないかな? そうしたら私はゆっくり寝られるのだけど……)


 これを口に出すと、また仕事が増えそうだ。

 それでも他に提出された書類は、ほぼすべてが書き込まれている。また空白の部分は、先ほど地図を眺めながら唸っていたところだった。

 ユーグリア伯爵は頭をかいて、リシュアに顔を向ける。


「もう……」

「無理です。伯爵様がいるからできるのです」

「まだ何も言っていないけど?」

「私を使って休もうなど許しません! さぁ空白の部分を埋めますよ!」

「わ、分かったよ」


 何だかよく分からないうちに押し切られてしまった。

 リシュアの提案どおり横になりたかったが、それも無理なようだ。ならばと再び地図に目を落として、何個かの駒を配置した。

 以降は前後左右に動かしたり、他の駒と入れ替えたりする。

 そして月が昇る頃に、ユーグリア伯爵の思案は完成した。


「ふぅ。リシュアのおかげで助かったよ」


 これで、ユーグリア伯爵の仕事の半分は終わった。

 後は実際に行動を開始して、突発的な出来事に対応するだけだ。何も無ければほぼ犠牲を出さずに、開戦となるだろう。

 伯爵は椅子に座り直し、冷たくなった茶を飲む。

 リシュアはというと、自分だけ温かい茶を入れていた。ならばとすぐ飲み干して、彼女の前にコップを置く。

 入れ直してくれても良いと思いながら……。


「そんなに飲まれますと、お腹を壊します」

「まぁ一杯ぐらい平気だと思うよ?」

「看病する身にもなってください!」

「おや? リシュアが看病してくれるのかい?」

「っ! 知りません!」


 リシュアは茶を注がずに、書類をまとめて天幕から出ていってしまった。

 ユーグリア伯爵はキョトンとして、天幕の入口を眺める。続けて、「何か拙いことでも言ったか?」と首を傾げた。

 その後は椅子に深く座り直し、天を仰ぎながら目を閉じる。すると彼女の残り香が漂ってきて、ひくひくと鼻を動かしてしまう。


(そう言えば私は、女っ気が無いな。忙しさにかまけて五十歳に近い。もう結婚などできないのか? 一応は伯爵家なのだが、な)


 ファーレン・ユーグリア伯爵、四十歳も後半。

 いまだ独身で跡取りさえいない。勇間戦争以降は英雄として祭り上げられたが、生活感の無さから婚姻の話も上がってこない。

 一番身近な女性は、副官のリシュアである。

 そう思い至ったとき、机に突っ伏してしまった。


「ヤバいですね。というか手遅れですね。リシュアは若いし私なんか……」


 リシュアは独身でも二十四歳。

 色恋沙汰の会話などしたことはなく、ユーグリア伯爵には厳しく接している。どう考えても眼中に無いはずで、今も怒らせてしまった。

 これはもう、他で見繕うしかないだろう。

 今まで世話をした貴族家に声をかけてみるか。だが伯爵家として嫁をくれなど、さすがに恥ずかしすぎる。

 そしてふと、フォルト・ローゼンクロイツを思い出す。


(恐い御仁だったが……)


 会談の場で一緒にいたレイナス嬢。

 同席はしていないが、悪名高いローゼンクロイツ家の姉妹。どちらも眉目麗しい女性で、同世代らしいフォルトの身内である。

 他にも容姿端麗なエルフ族もいて、ユーグリア伯爵にとっては羨ましかぎりだ。と考えているうちに、まぶたが重くなってきた。

 以降は眠気に逆らえず、夢の中に落ちるのであった。



――――――――――

Copyright©2021-特攻君

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