視線

◇◇◇


ぼくが初めてこの家に来たとき、麻珠まみは年老いた老女とふたり暮らしだった。


今どきの若者にしては珍しいくらい、麻珠と祖母であろう老女は仲が良かった。


老女は毎朝、日の出前から起き出す。

愛用の糠床ぬかどこを手入れするためだ。


糠に漬け込んだ自家栽培の野菜を、朝の食卓に並べるのが老女の日課だった。

薄明るい台所に、ぬかの独特な匂いが広がっていく。


天井裏で眠ることが多いぼくにとって、この匂いが夜明けの合図になっていた。


この家の中は大昔のままのような、とてもゆっくりとした時間が流れている。


麻珠に対する恋慕の気持ちはあるが、二人の暮らしを眺めているだけで、ぼくの心は満たされていった。




しかし、ある日老女は突然亡くなってしまった。



事故でも重い病でもなく、天寿を全うして眠りについた。

とても穏やかな旅立ちだった。



老女は麻珠以外の身寄りがいなかったらしい。

近所の人が数人出席しただけの葬儀や、諸々の後片付けが済んでしまうと、途端に家の中は静かになった。


大切な人と別れ一人残された彼女は、目に見えて落ち込んでいた。



ぼくはただ、寂しそうにしている彼女を見守ることしかできず、日増しに彼女を思う気持ちが強くなっていった……。



いま階下で眠っている彼女の瞳に、ちいさな涙の雫が見える。



(麻珠、寂しいのかな……)



心の中で問いかける。


ぼくがもし、麻珠に触れることが出来るのなら、その滑らかな黒髪を何度も撫でて、柔らかな体を抱きしめて、彼女の抱えた寂しさを分かち合ってあげられるのに……そう夢想する。



永遠にこうして天井裏から見守るだけ。

彼女に触れるどころか、何もできないもどかしさに身震いする。



「ああ、ぼくがそばに居られたらいいのに……」



思わず感情がたかぶって声が出てしまった。



「!」



しまった。と思ったときにはもう遅かった。




天井板越しに、こちらを見つめる麻珠と目が合った。

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