⑰濡れない涙
『馬鹿ですね。たしかに効きはしましたけど、すぐにあなたの体から出れば済む話です』
朦朧とする意識の中、聞き覚えのある声がして目を覚ます。
乙裏は霊体の姿で、地面で伸びている俺を見下ろしていた。
『そもそも、ただの自爆に何の意味があるんですか?』
「勝負の是非は勝ち負けじゃない。お前が勝てるかどうかだろ」
――わたしが勝ったら、問答無用でわたしの言うことを聞いてもらう。
――じゃあそれができなかったら成仏してくれるのか?
『つまり引き分ければいいと?』
「唯一の突破口がそれしかなかったってだけだ」
吐き捨てるように呟く。
体中が自分のものじゃないかのように痛い。この後バイトに戻らなくちゃいけないのに。幸い打ち身だけで、目立つような外傷はないみたいだが。
『じゃあ、ここでトドメを刺せばあなたはおしまいですね』
「そうしたら協力者がいなくなるんだぞ」
『どの口が言いますか。これはわたしの個人的な復讐。何もしてくれなかったことに対する仕返しなので』
無機質な言葉が心を射抜いてくる。
俺はただ彼女にハンカチを渡したかっただけなのに、なんでこんなことになってしまったんだか。その代償が、バイト先の客に半殺しにされるとか、笑い話じゃ済まされない。
仕方ないな。精一杯の抵抗も無駄に終わったんだ。
あとは、このわがままなJKに従うしかない。
廃ビル内を静寂が支配する。
周囲には、彼女が攻撃に使った資材が散らばっていた。
聞こえるのは時折吹く風の音だけ。
この空間だけが、外の世界から隔離されているかのように感じられた。
今ごろ栗花落たちは俺を心配しているんだろうか。
もしくはさぼったと思って怒っているのかも。
『表野さんは、本当にわかるんですか?』
「……え?」
虚構を眺めるだけだった俺の意識は、その潤んだ声に吸い寄せられる。
乙裏の瞳には光るものが溜まっていた。
『たしかにあなたはその力を使って、様々な人たちの人生を、身を持って経験したのかもしれません。辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、あなたには理解できているのかもしれません』
「……」
『けどわたしは独りぼっちなんですよ……。大好きだった家族にはもう会えない。話すこともままならない。わたしは何もできずに、ただ揺蕩うだけ……』
独りぼっちか……。
それだって俺にはわかってるさ。
だって俺だってずっと独りだったんだから。
お母さんは訳のわからないことを言い残して家を出たきり帰ってこなかった。
お父さんは仕事が大変だとか言ってほとんど家に帰らなかった。
あるのは「これで適当に飯を食え」と書かれたメモと一万円札。
俺はずっと、大学生になるまで一人で生きて来たんだ。
だから乙裏の気持ちだって理解しているつもりだった。
兄に会いたい気持ちだってわかる。
探偵にでも頼めば案外簡単に見つかるだろう。
けどそれで会ってどうするって言うんだ。
もう自分という存在すら忘れられていて、そこに疎外感を抱いたらどうする?
そいつが別のことで幸せになっていて、自分のことなど範疇になかったらどうする?
だから俺は家を飛び出して一人暮らしを始めたんだ。
それが一番の最善解なんだ。
会えない奴のことなんか、気にするだけ損なんだよ。
『助けてよ……。表野さん……。あなたまでわたしを見捨てるの……』
母さんと父さんは俺を見捨てた。
真意は違うのかもしれないが俺にとっては揺るぎようのない事実だ。
俺はあいつらみたいにならない。
子供ながら俺はそう思うようになった。
俺はそれから一人の力で生きようと思って――。
『お願い……。助けてよ……』
乙裏は俺の腹に顔を埋めて泣いた。
幽霊が泣いたところで俺に齎されるものなんか何もない。
ただ、頭の中では新しい観念が芽を出そうとしていた。
ああ、そうか……。
俺はどんな奴の気持ちもわかっているつもりだった。
だけど、死んだ人間の気持ちまでは理解できていなかったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます