⑮得意気な交渉
男性の体は非常に身軽だった。
俺が想定していたよりも遥かに機動力が高く、俺の意思とは別で肉体が勝手に動いているのではないかと錯覚しそうなくらいだ。
手を振った分だけ体が躍動し、足を回転した分だけ体が飛躍する。
風と一体となるとはこういうことを指すんだろう。
いや、むしろこれは普通で、単に普段の生活が酷いだけに違いない。
いける。これなら追い付ける。
「俺」の体は視界の中にしっかりと収まっており、捕獲の射程圏内に入ろうとしていた。
追跡を続けていると、観念したのか「俺」の体は、解体中の廃ビルに逃げ込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
「息上がってんなぁ。ま、そりゃそーだ。今日は朝から何も食べてないんだからな。なんて言うの? 最近色んなことがあって応えたっていうか、喉を通らなかったって奴だよ」
「……くっ!」
「俺の体でそんな風に睨むなよ。いい加減返してくれないか、その体」
現在「俺」の体に入っているのが誰なのか、それについては予想がついている。
そして、どうしてこんな行動に走ったのかも。
どうせ俺の体の主導権が自分に渡ったと知って、そのまま逃げ出したんだろう。
「俺と話がしたいんだろ、乙裏」
俺が冷静に言うと相手も気持ちが幾分か落ち着いたようで、それが姿勢に現れる。
「聞くよ。ここなら俺たち以外誰もいないしな。二人きりでしっかりと話をしよう。俺もちょうどそうしたかったんだ」
「……」
「この人の体を解放しなきゃいけない。そのためには自分の体に戻りたいんだ」
恐らく乙裏は気が立っているはずだ。先日あんな風に突き飛ばしたことを根に持っているんだ。だから逆なでしないように、それでいて効果があるだろう言葉を取捨選択する。
「この人まで迷惑をかける気か」
「……だったら右手を貸して」
「右手? 手を貸すくらいならいいけど」
両腕を広げてこの肉体を大きくアピールすると、さすがにこれを言われて拒否はできなかったのだろう、観念して手を差し出してくる。
それを握り、ようやく自分の体に戻って来られる。
さっきまでの体と打って変わってなんだか重いな。これが不健康な奴の体なのか。モーニングセットさえ食べておけば健康を維持できるってデタラメだったのかよ。
そんなことをぼやきながら一息入れていると、目の前でスーツ姿の紳士があたふたしながら、俺には目もくれずビルを飛び出していった。さっきまで自分がいた場所と違うのだから、当人には瞬間移動したのか、夢遊病でも発動したのか、そんな風に感じているはずだ。
「で、これはどういうつもりだ、乙裏」
できる限り言葉に重みを持たせて顧みる。
乙裏はいつものように、霊体の姿で揺蕩っていた。
『反逆です』
「はんぎゃくぅ? 何の?」
『表野さんに対してです。こうでもしないと表野さん、わたしのことわかってくれないと思って』
「そんなことしなくてもわかってるよ。俺に協力して欲しいんだろ。でも俺が反感を示すから、体を人質にして交渉材料にしたわけだ」
沈黙する。この場合は図星と捉えて間違いない。
どうせ衝動的に逃げ出したんだろ。
『表野さんにわたしの何がわかるんですか?』
「何がわかるかって……」
おいおい、そういうパターンかよ。アニメとかドラマとかで稀に見るヒステリックの常套句だ。次の言葉が出て来ないからってそうやってすぐに逃げたがるんだ。それで相手が返答に困っているのを受けてさらにヒステリックになる。何のメリットがあるのか理解に苦しむ発言だ。
誰かを死に至らしめた経験がないと推理小説は書けないって言うのか。
だが生憎、そのパターンは俺には通用しない。それに対する最善解は心得ているつもりだ。
「わかるさ。前に言ったろ。君は辛いんだろう? 苦しいんだろう? 悲しいんだろう? それらすべての負の感情でどうしようもない状況なんだろう? だから唯一話せる俺に縋ってくるんだ。その俺がいけ好かない奴で苛立っているんだろう?」
ここは俺が理解者であるとわからせるべきだ。
そうだ。俺はコトを急ぎすぎていたんだ。理解の追い付かない事態が矢継ぎ早に起きたせいで俺も混乱していたんだ。だが今は前と比べれば、周囲に色が付いているような感触がある。この色をしっかりと視認して、その上で言霊として吐き出せばいいだけだ。
『そう、じゃない……』
なのに乙裏はまだ否定してくる。
彼女の状況を説明するのに、他に何があるというのだろうか。
もしかしたら彼女自身も、自分の気持ちに整理がついていないのかもしれない。
「逆にそれ以外に何があるんだよ。君みたいな奴、今まで何人も会ってきたよ。俺は他人の体を乗っ取る能力を持ってるんだ。女になったり老人になったり子供になったり、幸せな人間になったり不幸な人間になったり、表の世界も裏の世界も余すことなく身を持って体験してきたんだ。だから君の気持ちもわかると、はっきりと断言できる」
『そんなわけ、ない……』
頭ごなしに否定するだけ。俺にすり寄って欲しいのかこいつは。
面倒くさいが、また一つずつ説明してやるしかないのか。
「あのな、でも俺にはどうしようもないんだって――」
『そんなわけないって言ってるでしょ!』
刹那、俺の左頬を何かが掠める。
驚愕のあまり目を見開いていた俺だったが、ワンテンポ遅れて後方を確認する。
そこには、壁に突き刺さる資材があった。
彼女の霊能力を用いて射出したのだろう。
「つ、次は何を言い出すつもりだよ……」
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