第30話 人魚姫


「つれないね」


 ツレナイ女性というのは、時に狩猟本能をかき立てられるものだ。

 だが針先に餌までつけて釣り糸を垂らしているのに、誰も寄ってこないとは。百戦錬磨を誇る王子にとって屈辱である。


 この川にはオスの魚しかいないのだろうか。


「邪心を抱くと獲物が逃げるぞ」


 ハクロは泰然と構えている。

 なるほど、釣りは奥深い。


「それにしても、魚の気配がないな。もしかすると大物が潜んでいるか――」


 言い終わらないうちに水面が怪しく波立った。

 川の中ほどに暗い影がさす。


 たちまち長い髪が浮かび上がってきて、辺りにゆらゆら広がった。 


 ザザァ……。


 その中心へ、女の頭部が現れた。

 濡れ髪の奥からのぞく双眸そうぼうがギラリと光り、二人の姿をロック・オン。


 女はスーッと川を横切って岸に這い上がった。

 ゆっくりと、二人のほうへ歩を向ける。


 全身から水を滴らせ、ペタリ、ペタリと近づいてくる。


「あああぁ……あうぅ、うああああ」


 奇妙な声を発しながら。


 ペタリ、ペタリ。


「あう、ああぁ……」


 本作がホラーに転向したと思われかねないので、このへんにしておこう。


「あの痴女、おまえの知り合いか?」


 川から上がってきた女を一瞥いちべつすると、ハクロは王子にたずねた。

 彼女は一糸まとわぬ姿だったのだ。


 なお「痴女=王子の関係者」という解に至った方程式については、非常に複雑であるため説明を省略させていただく。


「いやあ、あの子、もともと半分は魚だったからさ。隠すっていうこと、知らないんだよね」


「魚?」


「うん、海の住人だったんだ。それを、私に会いたいばかりに、その……人間の足を」


「ふぅん、下を工事したのか」


 昨今、さして珍しくないらしい。


「アンタ、そんな格好でウロウロしてると捕まるぞ」


 ハクロは羽織っていた長袖を脱いで、濡れそぼつ女の肩にかけてやった。


 そう、彼女こそ、かの有名な「人魚姫」である。

 言わずと知れた名作だが、どんな話だったっけ? と思われた方は、後で解説するのでお楽しみに。


 さて悲劇のラヴ・ストーリーが完成するのはもう少し先の話として、王子にご執心の人魚姫は、わざわざ海から川をさかのぼってきたようだ。


 もしかしたら、単にお魚としての習性だったのかもしれないが、彼女はほら、しゃべれないから。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る