021「社長・曲淵由吉」
「……大分お疲れのようだね」
近くで声がして、はっと目が覚めた。どうやら座ったまま眠ってしまっていたらしい。すでに日は完全に落ちきって、事務所の窓の外は真っ暗になっていた。
目の前にはいつのまにか初老の男性が立っていた。灰色に染まった髪に、同じく灰色のジャケットを着こなす細身の体躯。丸めがねの奥には、見るものを安心させる優しげな瞳があった。
「……社長」
この人が、
「いつからいたんですか?」
「ん? 君が椅子に崩れるように座り込んで、泥のように眠り始めたころから、かな」
低く広がるような暖かい声で社長はそう言った。手近な椅子に腰を下ろし、長い脚を組む。たったそれだけの事だが、行動の一ひとつひとつにどこか品があった。
「つまり、最初からいたんですね」
無防備な姿を見られた恥ずかしさからか、ついとげとげしい声が出てしまった。社長は気にすることもなく静かな笑顔を浮かべている。
「疲労が溜まっているみたいだったからね。そのままにさせてもらったよ」
「起こしてくださいよ……」
「それに、随分うなされていたからね。せっかくの悪夢、邪魔しちゃ悪いじゃないか」
「起こしてくださいよ!」
なんだよ。「せっかく」の「悪夢」って。絶対組み合わされない単語だろ。
僕が声を張ると、社長はクツクツと楽しそうに笑った。笑って皺の寄った顔は、どこか可愛いらしさすらある。
社長には、その人を安心させるような柔らかい声で人を不安にさせるようなことを言う、というとてもステキ(もちろん皮肉だ。もしくは忖度だ)な趣味があった。今となってはもう慣れたが、最初はそのギャップに、随分面食らった記憶がある。
結構な食わせ物ではあるが、僕はこの人に頭が上がらない。右目を失って錯乱していた僕の治療を行い、死にかけた僕を助けてくれ、【黄昏】という場所の事を教えてくれた。そして、どこにも行き場のなくなった僕をこの黄昏運送で雇ってくれている。
社長がいなければ、今頃どうなっていたか、見当も付かない。
そんな彼に対して、僕は恩義を感じている。多少悪く言われたところでその気持ちが揺らぐことはない。
「ごめんなさい。お見苦しいところを見せてしまって……」
「ん? 君の顔が見苦しいのは今に始まったことじゃないから大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃない!」
前言撤回だ。
普段からそんなこと思ってたのかこの狸ジジイ……。
僕の反応を見て、社長はまた笑った。口元を手で隠しながらこらえるように笑う姿やはり様になっている。人を馬鹿にして笑っているのに品が良く見えるのは普通に卑怯だった。
ひとしきり笑った後、社長は笑顔のまま、それでも少しだけ真面目な顔になった。
「……彼女の夢、かな?」
「……そうです。一時期よりはマシになりましたけど」
そっと右目の眼帯に触れる。その奥に眼球はすでにない。【黄昏】の中で願望を持った報いとして、僕は右目を失った。その一部始終を、四年近く経った今でも、時々僕は夢に見る。
「彼女の顔は思い出せたかい?」
「まだダメみたいです。他の部分は随分細かいところまで覚えているんですが……彼女の顔だけはモザイクがかかったみたいで……」
おかしなことに、夢の中の彼女の顔には靄がかかり続けている。周囲ははっきりしているのに中心だけが思い出せない、いわゆるベイカーベイカーパラドクスというやつなのだろうか。
ネットや雑誌を見れば一応「
「……前にも言ったけれど、多分、【黄昏】の中の彼女の姿が強いトラウマになっているんだろう」
「……トラウマ、ですか」
「簡単に言えば、君は彼女を恐れているんだ。あんな怪物のような姿になってしまった彼女を怖がって、記憶を封じ込めてしまっているんだろう」
推測にすぎないけどね。と、社長は優しく付け加える。僕に気をつかってくれたんだろう。でも、多分社長の言う事は正しい。
僕は彼女が怖かった。
【黄昏】の中で徘徊する化物、その姿だけは鮮明に覚えている。
あのおぞましい姿が、幸せな彼女との記憶と結びつく事を、僕は無意識に拒んでいる。そんな確信めいた予感がある。
「……ま、怖いのは、理解出来ないからだよ。彼女が何を求めていたか。どうしてあんな姿になったか。それが分かれば、きっと大丈夫さ」
まとめるように、切り上げるように社長は言い切った。この人に断言されると、理屈とかそういうものを超えて安心できるから不思議だ。僕はゆっくりと頷いた。
「そんなことより……依頼、難航しているみたいだね」
「……! そうだ。依頼!!」
一気に感覚が現実に引き戻される。そうだ、今、僕らは依頼の依頼のまっただ中にいる。桂木さん、大貫さん、そして大曲……色んな事が一度に起こりすぎて、事態は混迷を極めている。
「
「ええと……なんと説明したらいいのか……」
説明しなければならないとは分かっているが、考えがまとまらず、うまく言葉にならない。頭の中で言葉がつながるそばからほどけていくみたいだ。
「……ゆっくりでいいから、最初から話してごらん。ちゃんと聞いてるから」
社長は優しくそう言った。やはり表情は自然な笑顔のままだ。
別に男前というわけではないが、その顔を見ているとなぜか安心してしまう。
僕は一つ息を吐き、今までのあらましを頭から説明した。
依頼人、桂木芽衣子のこと。
彼女と受取人大貫彩乃の関係生。
依頼の内容。
【黄昏】での大貫さんの様子。大貫さんの豹変。
「配達依頼書」。大曲の押した受領印。
そして、荷物の中身……。
たどたどしく、時に順番が前後しながらも、取りあえず僕は一連の出来事を余す事無く話した。社長は黙って、ふんふんと相づちを打った。
僕が一通り話し終わると、室内は少しの間しんとなった。
「……
しばらくしてから、考えをまとめるように社長が口を開いた。
「社会人の基本、ホウレンソウは知ってるね?」
「え、ええ。報告・連絡・相談ですよね」
「そうそう。じゃあ、コマツナは知ってる?」
「いえ、初耳です」
「コマったら、ツかえる人に、ナげろ。だよ」
じゃあ、後よろしく。
そう言い残し、社長は足早に事務所を立ち去ろうとする。
「逃がすか!!」
その瞬間、僕は飛び込むように社長の前に立ちはだかった。
このジジイ……油断も隙もない……。
「どうしたんだい。そんなにいきり立って……」
「どうしてもこうしてもないです。訳の分からん標語で煙に巻こうとしないで下さい」
なんだコマツナって。なんで緑色の野菜縛りなんだ。
「相談にのってください。この後、僕はどうしたらいいですか?」
「知らないよ。こんなに面倒なこと、自分でどうにかしなさい」
「いや、あなた社長でしょ? 部下が困ってるんだから助けてくださいよ!」
僕の叫びに、社長は肩をすくめる。
「あのねぇ
……くそっ。ちょっとだけまともな事言いやがって……。
「それはそうかも知れないですけど……。でも、正直この先どうすればいいのか、見当も付かなくて……」
そう言うと、社長は人差し指をふりながら、「ちっちっち」と舌をならした。
あ、現実でそれやる人初めて見た……。
「
「『できるモノ』……」
「
その三人の中だったら……。
さすがに一番情報が多いのは大曲だ。曲がりなりにも半年間一緒に仕事をしてきた仲だし……。
「そう。大曲ちゃんについて、君はもう充分に核心に迫れるだけの情報を持っているはずだよ」
「……まるで正解を知っているかのような口ぶりですね」
「もちろん。彼女を雇ったのは私だからね。多分、君よりは大曲ちゃんについては詳しいよ」
「じゃあ教えてくださいよ!」
僕が叫ぶと、また社長は人差し指をふりながら「ちっちっち」とやった。
ひどく芝居がかっているが、それなりに様になっているのが腹立たしい。
「いくら同僚だからって、私の口から彼女の個人情報をペラペラしゃべるわけにはいかないね。君だって君の過去を大曲ちゃんに言いふらされたくはないだろう? 『自分で気づいた』という事実が必要なのさ」
社長は飄々としている。むかっ腹が立つが、彼が言っていることは間違っていない。むしろ個人情報保護の意味では「僕が知っていることで結論が出せる」ということ自体大ヒントだ。
僕は一度深呼吸をし、少しの間目を閉じた。これまでの大曲との会話や言動、依頼中のことを思い返してみる。
経歴が良く分からないこと。
言動が異様にテキトーなこと。
僕の事を小馬鹿にしていること。
僕の事を先輩として扱っていないこと。
僕よりも10センチ近く背が高いこと……。
ろくな事がないな……。
いや、そんなこと、今はどうでもいい。
異常とも言えるほど物覚えが悪いこと。
全く後先を考えない行動すること。
全てを台無しにしてしまうような選択を平然とすること。
まるで、常に生きることに執着がないような……。
「……ん?」
なにかが引っかかる。
生きる事に執着がない? つまり、生死の境目が曖昧ってことか?
それって、まるで……。
一つ気がつくと、色んな場面が次々と頭の中に浮かんでくる。
驚くほどすんなりと【黄昏】へと入り込んだこと。
【黄昏】の住人の「救い」に妙に切実だったこと。
そして【黄昏】の住人しか触れられない「配達依頼書」に印が押せたこと……。
「まさか……」
「……うん。その結論でほとんどあってるよ」
僕の驚きの表情をみて、社長は少し悲しげな顔で頷いた。
「まさか……大曲は……【黄昏】の住人、なのか?」
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