恥ずかしい勘違い

天橋文緒

恥ずかしい勘違い

 私は生後三か月になった娘の沙織を連れて、家からほど近い公園に散歩に来た。公園の中央に立っている時計を見ると、二時半を過ぎていた。

 ちょっと休みたいな、と思ってあたりを見回す。広場を眺める位置にある二人掛けのベンチが私の目に留まった。

 ベンチは木陰に面しており、そこに私はゆったりと腰を下ろすことができた。

「ふう」

 五月も中旬に入り、意外と暑さを感じるようになってきた。

 母となって、はや三か月。私は生来のおっちょこちょいで、それもあって子育ては本当に大変だ。

 この間は洗濯した洋服を洗濯機の中に放置してしまった。また別の日には買い物に行ったのに、お店に着いたとたん何を買いに行ったのかを忘れる。例をあげたら限りがない。

 でも生まれたばかりの沙織は可愛いし、夫との関係も良好で、幸せな毎日を過ごしている。

 私はベビーカーのバスケットから娘用の水筒を取り出し、ゆっくりと水を飲ませた。飲み終わると水筒をしまい、日に焼けないようにベビーカーの幌を下げる。それから、自分の水筒を取り出し、氷でキンキンに冷やしたアイスコーヒーを飲んだ。

 ベンチに背中を預けて目をつむる。芝生の匂いをいっぱいに含んだ風が吹き抜けるのを感じた。ゆっくりと空を仰ぎ見る。

「隣、いいですか?」

 突然、横からお婆さんの声が聞こえた。

 いつの間にかぼんやりしていたようだ。慌てて応える。

「どうぞどうぞ」

 私はベビーカーを身体の左側に引き寄せた。

 お婆さんは私の右隣に座った。お婆さんもベビーカーを持っていて、右手で支えている。。

 お婆さんのベビーカーは幌で覆われており、赤ちゃんの顔は見えない。

 温和な表情でお婆さんが、話しかけてくる。

「もしかして、この公園に来るのは初めてかしら? まあ初めて見かけたから話かけてるのよね」

 お婆さんが可愛いらしく、うふふと笑う。それを見て、私もつられて笑う。

「今日初めて来たんです。娘の沙織がもう三か月経って、お散歩もできるようになったので。」

 お婆さんが、手で支えているベビーカーにしみじみと目を向ける。

「私はこのムギちゃんのために毎日来てるのよ。とっても大人しい子でね。この子は高齢出産に加えて難産だったから、本当に可愛くてね」

 このお婆さんは、六十歳くらいに見えた。高齢出産は、大変だったろう。

 お婆さんが私を見て明るく微笑む。

 その時、ベンチの前の芝生の広場で犬と遊んでいた小学生くらいの子供が大声をあげた。それからこっちに手を振っていた。

 その隣には、お母さんらしき三十代の女性がいて、会釈をしていた。

 私も手を振り返し、お婆さんも手を振った。

「可愛いですね」

 少し先の未来、自分の子供がああなるかと思うと、幸せに感じる。

 お婆さんも、そう思っているのだろうと思う。でも、もしかしたら反対に子育てへの不安を感じているのかもしれない。

 お婆さんが、ベビーカーのバスケットから水筒を取り出して飲み物を飲んだ。

 お婆さんがバスケットを開ける時に、思いがけず中が見えた。

 中には、水筒の他にシャベルとビニール袋、犬用のおやつが入っていた。

 私は不思議に思って、お婆さんのベビーカーを見ていた。

 よくよく見て見るとベビーカーはかなり使いこまれている。

 お婆さんが私の視線に気づいた。

「昔、娘が買ったものを借りて使っているのよ。」

「え?」

「よっこいしょっと、それじゃあ、行くわね」

 お婆さんがゆっくりと立ち上がって、ベビーカーの幌をあげた。

 黒い尻尾が見えた途端、、くるっと回り、小さなダックスフントが私を見る。

 子犬が初めて、ワンとひと声鳴く。

 お婆さんが芝生の公園に向かっていき、三十代の女性と話をする。

「ムギー、ゆっくりできたかー?」

 小学生くらいの男の子が小さなダックスフントに声をかける。

 よく見ると男の子と遊んでいた犬もダックスフントで、子犬に向かって尻尾を振っている。

 私は、恥ずかしい勘違いをしていたことに気づいて赤面してしまった。

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恥ずかしい勘違い 天橋文緒 @amhshmo1995

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