愛の雨に差す傘は

有理

「愛の雨に差す傘は」


白石 礼(しらいし あや)

白石 恭平(しらいし きょうへい)

美浜 まゆみ(みはま まゆみ)

美浜 竜二(みはま りゅうじ)



※途中登場します看護師は、礼役と竜二役が兼役して下さい


……………………………………………


恭平 N「じめじめした梅雨の季節だった。礼ちゃんが身支度をしながらスピーカーフォンで話す姿を僕は窓越しに眺めていた。どんよりした雲に白い煙が吸い込まれていく。吸い慣れたはずの煙草の味が最近少し変わったような気がしていた。」


礼「もー。お母さん分かってるってば。うんうん。え?来週からだよ。えー!伝えてたって!メッセージ送ってたでしょ?うん、うん。ああ、明日行こうかと思って。うん。まあ、電話で済ますのも呆気ないかなって。それでね、鈴を預かって欲しくてね。うん。恭平さんが一緒に。そう。いいよ、ついでに旅行なんて。どうせホテルから出ないんだろうし。え?もー。お母さんだけだよ?未だにそれ言ってるの。冗談じゃないってば!そう。うん。ふふ、そうだよ、お母さん。私死ぬの。うん。あーもう、ごめんって!泣かないでよ。何回やるの?このくだり!うん。じゃあ、お願いします。うん。じゃあね。」


恭平「終わった?」

礼「うんー。待たせちゃった?ごめんね」

恭平「ううん。ちょうど吸い終わったとこ。」

礼「じゃあよかった。あ、やっぱり車で行く?飛行機じゃ好きな時に煙草吸えないでしょ?」

恭平「いいよ。大丈夫。」

礼「運転平気だよ?体調も別にいいし、」

恭平「いいよ。たまには手繋いで出掛けたいし。」

礼「…。」

恭平「…。照れたの?」

礼「照れるよそりゃあ!」

恭平「準備終わった?忘れ物取りに帰れないよ?」

礼「大丈夫!恭くんこそ大丈夫ー?」

恭平「僕別にないから、荷物。」

礼「じゃあ、そろそろ行こっか。」

恭平「うん。」


恭平N 「僕の知らない彼女の思い出へ、踏み出した。」


礼(たいとるこーる)「愛の雨に差す傘は」


………………………………………………


まゆみ「竜ちゃん。8時だよ!竜ちゃんってば!」

竜二「何だよ。まだ8時だろ?休みの日は寝たいんだよ俺。」

まゆみ「今日病院付き合ってくれるって言ってたでしょ?てか、明日も休みじゃない!早起きしてカフェでも行こうよー!」

竜二「診察前に甘いもの食べたらまた血糖引っかかるぞ」

まゆみ「だから早く行くんじゃん!」

竜二「あと五分。」

まゆみ「明日寝ればいいでしょ!」

竜二「明日は用事があるんだよー。今日しか朝ゆっくりできないのー。」

まゆみ「日曜に私の知らない用事って…竜ちゃんもしかして、浮気?」

竜二「は?」

まゆみ「妊娠7ヶ月の妻を差し置いて浮気?!」

竜二「…違うよ。なに言ってんだよ。」

まゆみ「じゃあ誰とどんな用事なの?女の人?」

竜二「…まあ、女の人といえば女の人…」

まゆみ「…ほら。やっぱり。」

竜二「…めだよ。」

まゆみ「え?!なによ!!!はっきり言いなさいよダメ亭主!」

竜二「元嫁だよ!!!会うの!!」

まゆみ「え。本当にガチのやつじゃん。」

竜二「違うよ。そういうのじゃない。そもそも連絡きたのだって離婚して初めてなんだから。」

まゆみ「…。より、戻したいとか?」

竜二「なわけないだろ。俺にはもう家庭があるんだし。そもそも、あいつが出てったんだよ。」

まゆみ「でも。でもさ、」

竜二「なに…。」

まゆみ「竜ちゃんの、元奥さん。とっても綺麗な人だったんでしょう?お義母さんも言ってた。本当に靡いたりしない?」

竜二「しないよ。だってあいつ。」

まゆみ「?」

竜二「俺のこと大嫌いだからな。」


まゆみN 「窓にあたる雨音が、今日はやけに静かだった。明日、彼女がくる。私の前に竜ちゃんの奥さんだった人。私の前に竜ちゃんの子供を産んだ人。何もかも、私が得るはずだった1番を盗っていった。私の知らない、私の知りたい、竜ちゃんの1番。」


…………………………………


礼N 「前日泊するために少し多めに詰めた荷物をキャリーバックで転がす。前もって買っておいた飛行機のチケットを片手に待合ロビーに座らされた。忙しない飛行場、絶え間ない話し声。ふと、喫煙所の彼に目をやると物思いにふけっている姿が見えた。今、何を考えているんだろう。元旦那に会いに行く私をどんな気持ちで送り出すんだろう。絶対に聞けないし聞いたところできっと答えないだろう問を大きなため息にして吐き出した。」


恭平「お待たせ。」

礼「ううん。しばらく吸えないからね。」

恭平「うん。あ。煙草臭くないかな…飛行機乗るのに」

礼「そりゃあ臭いするよ。」

恭平「え。どうしよう…着替えた方がいい?あ。着替えそんなに持ってきてない。」

礼「ふふ。後ろ向いて?」

恭平「何?」

礼「消臭スプレー。」

恭平「そんなの持ってきてたんだ。」

礼「そこで売ってた。」

恭平「準備いいね。」

礼「うん。できる妻って感じだった?」

恭平「うん。できる妻って感じだった。」


礼N 「離陸までの30分。それ以降の会話は覚えていない。」


…………………………………………



竜二「どうだった?」

まゆみ「…。」

竜二「まゆみ?」

まゆみ「え、あ。ごめん。」

竜二「どうだった?お腹の子。」

まゆみ「うん、男の子だろうーって。先生が。」

竜二「うそ!俺男の子が欲しかったんだ!」

まゆみ「そうなんだ!知らなかった!(お腹の子に向けて)よかったねー」

竜二「あー。楽しみだなあ。俺さ、息子とキャッチボールするの夢だったんだよね!」

まゆみ「そんな話今までしなかったじゃん。なんか意外。」

竜二「あー。まあね。元気な子なら性別なんてーって。ナーバスだろ?そういうとこ。妊娠中って。」

まゆみ「そう?」

竜二「うん。そういうもんだと、思ってたから。」

まゆみ「この子ができたって言った時も、反応薄かったからさー。興味ないのかと思ってた。」

竜二「…。」

まゆみ「(お腹の子に向けて)よかったねー!パパは意外と家庭的な夢があったんだってよー!」

竜二「…。でも、まあ、その。あんまり無理するなよ。身重なんだし。」

まゆみ「なあに?妙に優しいのは、明日のことが後ろめたいから?」

竜二「違うよ。そういうんじゃない。」

まゆみ「私もついていこうかな…。」

竜二「待ち合わせ場所遠いしさ。やめとけよ。」

まゆみ「ふーん。」

竜二「まゆみが思ってるようなことはないんだ、絶対。な?信じてくれよ。」

まゆみ「どうだかー。」


竜二N「あいつが連絡をしてきたのは1ヶ月前だった。着信拒否されていなかったことに正直驚いた。電話越しのあいつの声は相変わらず透き通っていて耳障りのいい声に少しだけ浮かれていた。あいつと俺が別れたのは7年前。娘の鈴音が2歳になってすぐのことだ。それから一切、連絡をとったことはない。娘に会いたくなかったわけではないが、何て連絡をしたらいいか分からなかった。明日だってそうだ。どんな顔をして会いに行けばいいのかまだわからない。拗ねたまゆみの顔と大きくなったお腹が目に焼き付いた。」


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喫茶 “shien”


恭平「テラス席で待ってるね。」

礼「うん。ここ、テラス以外禁煙だしね。でもよかった、煙草吸えるとこで。」

恭平「煙草、煙草って。大丈夫だよ。」

礼「待っててもらうのに、申し訳ないじゃない。」

恭平「別にいいのに。すみません。カフェオレ1杯お願いします。」

礼「寒かったら入りなよ、店内。」

恭平「大丈夫。ほら、礼ちゃんこそ。座って。」

礼「う、うん。すみません、コーヒー1つ。あ、ホットでお願いします。」

恭平「じゃあ。あとでね。」

礼「恭くん。ありがとう。」

恭平「ううん。」


恭平が出て行くと同時に竜二が入店する


礼「あ、こっち。」

竜二「あぁ。」

礼「久しぶり。」

竜二「そう、だな。」

礼「あー。とりあえず、コーヒーでいい?」

竜二「あぁ。」

礼「すみません、コーヒー1つお願いします。」

竜二「あ、アイスで。」

礼「…。あの、ごめんね、せっかくの休みに。時間作ってもらっちゃって。」

竜二「いや。…その。大変、だな。あの、」

礼「ふふ、何?気、遣わなくていいよ。」

竜二「じゃあ、聞くけどさ。何の病気なの。実際。あんまり実感湧かないっていうかさ。」

礼「病名は、言いたくない。必要かな?それ。」

竜二「わざわざ呼び出しといて、聞く権利くらいあるだろ。」

礼「黙秘権だってあるでしょう。」

竜二「なんなんだ?俺に言えないって。まさか嘘ついてんじゃないだろうな。お前よく言ってたもんな。死にたいってさ、」

礼「…。」

竜二「あ…。」

礼「…7年経ったって、私達何にも変わんないね。」

竜二「だから別れたんだろ。」

礼「そうだったね。」

竜二「その、」

礼「あ。指輪。」

竜二「(思わず隠す)」

礼「ふふ。隠さなくったっていいじゃない。再婚したのね。おめでとう。」

竜二「あ、いや。その、」

礼「いいじゃない。おめでとう。」

竜二「…。鈴音は…?」

礼「やっと聞くんだ。それ。」

竜二「いや、だって、」

礼「元気よ。もう小学生。」

竜二「…そうか。」

礼「私、余命宣告されたって電話で言ったじゃない?今日は親権の話をしにきたの。鈴音の。」

竜二「あぁ。」

礼「私が死んだ後、困らないように養子縁組をしておきたいの。」

竜二「誰と?」

礼「私も今、一緒にいてくれる人がいるから。事実婚だから籍は入れてなかったんだけど、そうは言ってられなくなっちゃったし。」

竜二「他人が育てるのか。鈴音を。」

礼「他人って。そっちだってもう家庭があるんじゃないの?私が死んじゃった後にあなたが引き取りたいだなんて言い出して揉めてほしくないの。」

竜二「まぁ。」

礼「だからこうやって先に話にきたの。どうしたい?私はこのまま鈴音を私たち家族で育てていきたいと思ってる。」

竜二「…。」

礼「今すぐこの場で決めろ、だなんてことは言わない。ただ、そう何回も会いに来られるわけじゃないから早めに決めて欲しいの。来週から私入院するんだけど、あ、病院名と住所、メッセージで送っておくからそっちに連絡してくれてもいいし、」

竜二「あのさ。」

礼「なに?」

竜二「鈴音はさ、俺のこと覚えてんの?」

礼「…。覚えてるわけないでしょ。」

竜二「…じゃあ、今更だよ。言わないよ、引き取りたいだなんて。」

礼「…。」

竜二「うん。言わないと思う。これからも、今まで通りでいい。」

礼「そう。分かった。」

竜二「なに。不服なわけ?」

礼「ううん。わざわざありがとう。」

竜二「いや。お前も大変だな。」

礼「竜二。」

竜二「ん?」

礼「今度は、幸せになってね。」

竜二「…あぁ。お前もな…あ。」

礼「ふふ。いいよ別に。幸せになるね。」

竜二「…。じゃ。また、」

礼「または、ないよ。さようなら。」

竜二「…あぁ。」

〈伝票を手に立ち上がる竜二〉

礼「いいよ。来てもらったんだし、私が出す。あと、これ。ガソリン代。」

竜二「あぁ。」

礼「奥さんと何か食べて。」

〈礼、封筒を差し出し受け取る竜二〉

竜二「うん。じゃあ、な。」

礼「うん。」

〈店を出る竜二〉

礼「変わらないな…。散らかす癖。」

恭平「終わった?」

礼「あ、お待たせ。」

恭平「何してるの?それ。」

礼「あの人、癖なの。ストローのゴミ千切って遊ぶの。」

恭平「…礼ちゃんが片付けなくても。」

礼「…。そう、だね。」

恭平「俺がやるよ。」


礼N「彼の華奢な手が、テーブルに散らばる紙くずを集めた。いつもは優しいその手が妙に筋張って見えたのはきっと見間違いじゃなかったと思う。」


恭平「行こう?」

礼「…うん。」

恭平「何食べる?中華食べてみたいけど、礼ちゃん食べられるのあるかな…」


礼N「灰色の重たい雲は今にも泣き出しそうで。私が出かける日はいつもそうだった。」


……………………………………………


まゆみ「どうだった?!」

竜二「…。ただいま。」

まゆみ「どうだったの?!奥さん!」

竜二「奥さんじゃないだろ。」

まゆみ「礼さん!何話したの?」

竜二「結婚、するんだってさ。」

まゆみ「え…、その挨拶をわざわざ?」

竜二「いや、鈴音の養子縁組の話と。あと、」

まゆみ「あと、何?」

竜二「その、なんていうか…」

まゆみ「はぐらかさないで言ってよ!!」

竜二「…あいつ、病気なんだってさ。」

まゆみ「え…」

竜二「余命宣告されたんだって。それで、急いで結婚ってわけ。」

まゆみ「そ、そう。」

竜二「そう。その話しただけだよ。」

まゆみ「そっか…それで、どうするの?」

竜二「どうするって何?引き取らないよ。もう伝えた。」

まゆみ「え。」

竜二「何?」

まゆみ「なんで、勝手に決めるの?」

竜二「勝手にって、俺らの問題じゃん。それに鈴音、俺のこと覚えてないし、」

まゆみ「俺らって私は?私だって関係あるじゃん。」

竜二「拗らせたくないんだよ。」

まゆみ「そういうの!…そういうのさ。勝手に決めないでよ。」

竜二「…。」

まゆみ「だって、礼さん亡くなったら、鈴音ちゃん他人が育てることになるんだよ?かわいそうだよ。」

竜二「…。」

まゆみ「ねえ竜ちゃん!引き取ろうよ。たった7年でしょ?埋められるよ。この子が産まれて4人でさ!きっと上手くやれるよ。ね?もう一回礼さんに連絡して、」

竜二「勝手言うなよ!!」

まゆみ「あ…」

竜二「これからのことだって!分かんねえだろ!」

まゆみ「竜ちゃ」

竜二「たった7年とか…。簡単に言うなよ。」

まゆみ「…。」

竜二「俺は。壊したくないんだよ。これからの俺たちを。」

まゆみ「竜ちゃん…。」

竜二「まゆみ、ごめん。俺、勝手に決めたのかもしれないけどさ。わかって。」

まゆみ「…。はじめて竜ちゃんのそんな顔見た。」

竜二「え…。」

まゆみ「そんな顔、するんだね。」

竜二「…ごめん。もうやめよう。お腹の子に聞こえる。」


まゆみN「許せなかった。ただ許せなかった。勝手に決めた竜ちゃんも、勝手に死んでく礼さんも。」


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礼「投与は13時からだから、ゆっくりでいいよ。気をつけてね。」


礼N「大きな窓と、病院らしくないベット。小さなキッチンと冷蔵庫。浴室とトイレ。なんて贅沢な個室だろう。腕に刺さるチューブだけが不釣り合いだった。」


看護師(男)「白石さん、すみません、面会来られてますけど、知り合いですか?」

礼「え?あ、母ですか?来るって聞いてないけど。」

看護師「えっと、ミハマさんって方。」

礼「え。」

看護師「ミハマ マユミさん。」

礼「ミハマ…」


礼N「ミハマなんて知り合いは、元旦那しかいなかった。彼に姉妹はいない。彼の母親の名前とも違う。」


看護師「面会、断りましょうか?」


礼「あ、いえ。通してください。」

看護師「いいんですか?」

礼「…はい。もうすぐ旦那が来ると思うので、談話室で面会します。お借りできますか?」

看護師「空いてますよ。13時から、お薬入れるのでそれまでに。」

礼「はい。」

看護師「車椅子お持ちしますよ。」

礼「いえ、歩けます」

看護師「朝、軽い睡眠薬飲んだでしょ?危ないので、使ってください。白石さんが転んだりしたら僕旦那さんに怒られます」

礼「ふふ。怒らないでしょうに。」

看護師「担当看護師命令です!」

礼「はいはい。」


礼N「美浜さん。そう呼ばれると、今でも背筋が冷たくなる。誰が会いに来たのか何となくわかった。」


………………………………………



看護師「こちらへどうぞ。あ、そこ、消毒してから。」

まゆみ「は、はい!」


まゆみ「失礼します、」

礼「初めまして。」

まゆみ「は、はじめまして。」

礼「白石 礼です。」

まゆみ「あ、美浜 まゆみです。すいません、突然」

礼「いえ。あ。赤ちゃん?」

まゆみ「え。」

礼「何ヶ月?8ヶ月くらい?」

まゆみ「今7ヶ月です…」

礼「そう!突然来るのは構わないけど、妊娠してるのに病院へ来るのはよくないわ。風邪でももらったら大変だもの。」

まゆみ「あ、えっと、ごめんなさい」

礼「怒ってるわけじゃないんだけど…」

まゆみ「…」

礼「…私、結婚してる時もこうだったのよね。」

まゆみ「え?」

礼「いつも怒ってるって言われててさ。怒ってなくてもそう言うから、尚更イライラして。妊娠中も何度も泣いて怒鳴って。」

まゆみ「…。」

礼「聞いてるでしょ?美浜の実家から。鬼嫁だったって。」

まゆみ「い、いえ…。」

礼「そう?」

まゆみ「少しだけ、しか。」

礼「ふふ。言ってるんだ。」

まゆみ「ただ、お母さんもお父さんも顔は綺麗な人だったって、よく話してました。」

礼「”顔は”ね。お褒めに預かり何よりです。」

まゆみ「あ、いえ、あの」

礼「それで?何の御用で?」

まゆみ「あ、」

礼「わざわざそんな大変な時期に。どうしたの?」

まゆみ「…、あの。あの!鈴音ちゃんを、引き取らせてください。」


礼「鈴音を?」

まゆみ「はい!」

礼「あの人は知ってるの?」

まゆみ「知りません!竜ちゃん、勝手に決めちゃって。私、引き取りたいんです。この子と鈴音ちゃんと4人で暮らしたいんです。」

礼「…そう。」

まゆみ「白石さんも、大変でしょうし…」

礼「私のことは関係ないわ。」

まゆみ「でも、体もお辛いだろうし、それに加えて他人に育児任せるなんて…」

礼「美浜さ」

恭平「どなたですか。」

まゆみ「え、」

礼「あ、恭くん。」


恭平「どなたですか。」

まゆみ「あ、あの、わた、私」

礼「美浜 まゆみさん。」

恭平「美浜…」

礼「そう。美浜まゆみさん。わざわざお見舞いにきてくれたの。」

恭平「そう。」

礼「早かったね。急いだんじゃない?」

恭平「布団干すの手こずった。投薬までには来たかったし。」

礼「お昼ごはんは?食べてきた?」

恭平「ううん。まだ。」

礼「まゆみさんは?」

まゆみ「え、わ、私もまだ、」

礼「そう。恭くん、何か注文しようか。まゆみさんも、何が食べたい?」

恭平「でも、ここで食べるのは…」

礼「大丈夫よ。気にしないで。」


看護師「ダメですよー。白石さん。」

礼「え?」

看護師「今日は特にダメですよ。万が一吐いちゃったら投薬ズレちゃいますから!」

礼「吐かない吐かない。大丈夫よ!」

看護師「ダメです。ダメですよね!旦那さん!」

恭平「うん。看護師さんが言うんだから。ダメだよ礼ちゃん。」


まゆみ「えっと、」

恭平「今妻は食事制限がかかってるんです。他の食べ物の匂いで気分が悪くなってしまう可能性があるので、僕と2人でもいいですか。」

まゆみ「え、あの、」

礼「気まずいわよね。ごめんなさい、なにか軽食だったらここでも…」

看護師「白石さん!」

恭平「美浜さんも今はファーストフードは食べない方がいいんじゃない?」

礼「う…。そうね。たしかに、赤ちゃんいるものね。」

まゆみ「あ、いえ、私は」

恭平「食べに行ってくるよ。」

礼「牛丼屋さんとかダメよ!ちゃんとオーガニックで美味しいところに行ってよ!」

恭平「わかってるよ。」

まゆみ「あ…」

恭平「行きましょうか。美浜さん。」

まゆみ「は、はい…。」


看護師「…白石さん、お部屋戻りましょうか?」

礼「…そうね。」


………………………………………………


まゆみN「連れられた先は海の見える綺麗なカフェだった。病院から歩いても5分くらいの場所なのにわざわざタクシーで向かった。寝癖のついた長髪の男性は、私を後部座席へ座らせると自分は助手席へ座った。」


恭平「車酔い、大丈夫ですか?」

まゆみ「あ、はい!何ともないです。」

恭平「足元、気をつけてください。」


まゆみN「車を降りる際差し出された手を掴むと、冷たくて驚いた。竜ちゃんの手はいつも温かいから、男性なのに冷え性なのかもしれない。」


恭平「この店なら魚も肉も美味しいと思うので。」

まゆみ「ありがとうございます。」

恭平「決まったら言ってください。」

まゆみ「はい…」


まゆみN「沈黙が痛い。何か話そうにも話題がない。」


まゆみ「…どれにするんですか?」

恭平「え?」

まゆみ「あなたは、どれにするんですか?」

恭平「ああ、僕はカフェオレと、これ、」

まゆみ「サンドイッチ?」

恭平「はい。」

まゆみ「足りますか?」

恭平「え?」

まゆみ「男性なのにそれだけで足りるんですか?」

恭平「足りますよ。僕は。」

まゆみ「そう、ですか。」


まゆみ「…決まりました。」

恭平「店員さん呼びますね。お願いします。」


まゆみN「無表情。その一言に尽きた。竜ちゃんとは大違いだった。指も華奢で背もそんなに高くない。何もかもが違っていた。」


恭平「お口にあいますか?」

まゆみ「は、はい。美味しいです。」

恭平「よかった。」

まゆみ「…あの、お名前は」

恭平「ああ、申し遅れました。白石恭平です。」

まゆみ「白石さん。」

恭平「はい。」

まゆみ「礼さんの旧姓ですよね。白石さん。」

恭平「はい。僕が戸籍に入りましたから。」

まゆみ「そうなんですね。」

恭平「はい。」


まゆみ「あの、礼さんは何のご病気なんですか?」

恭平「旦那さんから聞きませんでしたか?」

まゆみ「教えてくれなかったって、そう聞きました。」

恭平「じゃあ、それが妻の意思です。僕からは。」

まゆみ「あの、今、鈴音ちゃんとお2人で暮らしてるんですか?」

恭平「…。はい。」

まゆみ「鈴音ちゃんを引き取りたくて来たんです。私」

恭平「旦那さんがそう言ったんですか?」

まゆみ「いえ、竜ちゃんは何も。勝手に決めてきちゃったから。」

恭平「…。」

まゆみ「親と一緒に暮らした方がいいと思うんです」

恭平「僕も、親です。」

まゆみ「でも、」

恭平「美浜さん。僕だってそれなりの覚悟を決めて選んだんです。」

まゆみ「…でも、幸せですか?それって。」

恭平「美浜さんがいう幸せは、血が繋がった親といないと叶わないものなんですか。」

まゆみ「そっちの方がいいと思って。」

恭平「鈴ちゃんがそう言うならそちらが幸せなのかもしれません。でも、鈴ちゃんも僕と暮らしていくことを許してくれました。」

まゆみ「でも、」

恭平「未来は分かりません。僕はできる限り鈴ちゃんの親であるつもりです。」

まゆみ「…」

恭平「足りませんか。」

まゆみ「でもやっぱり、鈴音ちゃんは他人のあなたと暮らすより竜ちゃんと私たちといた方がいいと思います。」

恭平「他人ですよ。美浜さんも。」

まゆみ「あ、」

恭平「娘と血の繋がった旦那さんが決めたことなんでしょう?それ。」

まゆみ「…」

恭平「…すみません。意地悪を言いました。」

まゆみ「…いえ。」

恭平「…もし。将来娘が、美浜家へ戻りたいと言いましたら、その時はまた考えてやってください。」

まゆみ「…」

恭平「…僕の親も僕と血は繋がっていません。」

まゆみ「え、」

恭平「それでも僕は幸せだったと思います。もう他界しているので言いそびれてしまいましたが。」

まゆみ「あ、その、すみません。」

恭平「いえ。…冷めてしまいますから、食べましょう。」

まゆみN「コーヒーカップを掴む白くて女の人みたいな手が、筋張って見えた。」


………………………………………


看護師「あ、お戻りですか。」

恭平「はい。妻は、」

看護師「部屋で休まれてます。今声かけてきますね。」

恭平「すみません、」

まゆみ「あの、私が、」

看護師「僕も仕事ですから、お気になさらず」


恭平「…。」

まゆみ「…」

恭平「そういえばどうやって来られたんですか?」

まゆみ「あ、高速バスです。」

恭平「え。旦那さんには、」

まゆみ「黙ってきました。今日当直で、明日まで帰らないので。」

恭平「ああ、消防士さんでしたね。」

まゆみ「はい。」

恭平「…どんな、」

まゆみ「え?」

恭平「どんな、方なんですか?旦那さん。」

まゆみ「え、どんなって。」

恭平「何も知らないんです。僕。」

まゆみ「…人当たりが良くって、責任感が強いかっこいい人です。たまに頑固で強情だけど、頼りになるんです竜ちゃんは。」

恭平「…似てますね。」

まゆみ「え?」

恭平「礼ちゃんと。よく似てる。」

まゆみ「え、」


礼「ごめんなさい、お待たせしちゃって。」

恭平「いや。それより大丈夫?」

礼「ああ、私は全然。まゆみさんは、美味しいところちゃんと連れて行ってもらった?」

まゆみ「あ、は、はい!ご馳走になってしまって…」

礼「そう。よかった。…ねえ、恭くんお茶買ってきてくれない?下の売店で。」

恭平「…。わかった。」

礼「ありがとう」


礼「気まずかったでしょう。ごめんなさいね。」

まゆみ「いえ、」

礼「私もついていければよかったんだけど。」

まゆみ「…お体大丈夫ですか?」

礼「大丈夫っていいたいところだけど、そんな人この施設にはいないわよね。」

まゆみ「あの、ここって普通の病院じゃないんですか?なんか、病院っぽくないというか…部屋の色合いとか」

礼「そうね。緩和ケアを目的とした施設だから。」

まゆみ「そうなんですか…。」


礼「私ね。情けないなーって思ってるのよ。」

まゆみ「…」

礼「鈴音が小さい頃に勝手に父親を切り離して、母親である私までこんなにはやく。情けない、本当に。」

まゆみ「…。」

礼「だから、今できること。あの子のために母親としてできることを全部してあげたいの。」

まゆみ「はい。」

礼「あなたには渡せないわ。あの家にいたって私は幸せになれなかった。」

まゆみ「それは、」

礼「私だけが上手くやれなかったのかもしれない。でも私の中ではそれが事実よ。そんなところに娘はいかせない。」

まゆみ「私は、幸せです。」

礼「そう。」

まゆみ「だから、ちゃんと、血の繋がった竜ちゃ」

礼「美浜さん。」


礼「母になるなら。わかって欲しい。今から死ぬって言うのに、後悔しかない私の気持ち。」

まゆみ「…でも、」

礼「お願い。これ以上、壊さないで。」


まゆみN「礼さんは、決して泣かなかった。涙を器用に溜めたまま、私をまっすぐに見た。“壊す”。竜ちゃんも言っていたその言葉。名残惜しくも私は引き下がるしかできなかった。」


恭平「…。ごめん、売店混んでて。」

礼「…おかえりなさい。ありがとう。」

恭平「美浜さん、どうぞ。」

まゆみ「あ、ありがとうございます。」

恭平「帰りはどうする?」

礼「タクシー呼んでもらいましょうか。バスよりいいわ。」

恭平「じゃあ、手配してくる。早い方がいい、夜は冷えるから。」

礼「ありがとう。」

まゆみ「あ、いえ、お構いなく、」

礼「いいの。」


まゆみN「彼女の手は酷く痩せていて。」


礼「元気な子、産むのよ。あなたも。元気で。」


まゆみN「泣きそうになった。」


…………………………………………………………


恭平「すみません、時間がなくて。」

まゆみ「いえ、こちらこそ急に押しかけたのに。」

恭平「…いえ。」


恭平N「彼女の大きいお腹を僕は知らない。出会った頃にはもう母親だった。妊娠や出産の大変さを僕は知らない。これから2度目の経験をするだろう男を酷く妬んだ。」


まゆみ「あの。」

恭平「はい。」

まゆみ「…何かあったら、連絡ください。」

恭平「…何か?」

まゆみ「礼さんに、」


まゆみ「私も、私達も。お別れ、させて下さい」


恭平N「素直というのは残酷だ。真っ直ぐに僕を見るこの子に沸き立つ感情を殺すのでいっぱいだった。」


恭平「…妻が、そう望むなら。」

まゆみ「これ、連絡先です。私の。」

恭平「…渡しておきますね。」

まゆみ「困ったことがあったら、いつでも言ってください」

恭平「美浜さん。」

まゆみ「!」

恭平「今は、ご自分のことに集中してください。大仕事なんでしょう?子供を授かって無事に産むっていうのは。」

まゆみ「…」

恭平「僕は、そばで立ち合ったことがないので。妻も言ってましたが、無事に産まれますように僕も祈ってます。」

まゆみ「ありがとうございます。」

恭平「では。」

まゆみ「今度は、竜ちゃんとお見舞、」

恭平「美浜さん。」

まゆみ「…ごめんなさい。」

恭平「いえ。お気をつけて。」

まゆみ「…はい。」


恭平N「きっと彼女は悪気など全くないのだろう。声を荒立ててしまったのは、僕が彼と会ってまともに話せる自信がなかったから。とぼとぼ歩く小さな背中を見送った。」


……………………………………………


竜二「ただいま。」

まゆみ「おかえり、竜ちゃん。」

竜二「?どうした?なんか暗いな。」

まゆみ「ううん。」

竜二「もしかして後期づわりってやつ?大丈夫か?」

まゆみ「大丈夫だよ。なんともない。」

竜二「そっか。よかった。」

まゆみ「ねえ、竜ちゃん?」

竜二「ん?」

まゆみ「礼さんってどんな人だったの?」

竜二「…え?」


竜二N「まゆみは子供っぽくて誰とでもすぐに仲良くなる明るい子だった。もう結婚なんてと、投げやりになっていた俺に私なら後悔させない!と強引に迫ってきた。礼と比べたことはないが、なんでも正直に言ってくれる分過ごしやすい。俺の両親ともすぐに打ち解けた。」


まゆみ「どんなひとだったの?」


竜二N「だからこそ笑顔のないまゆみは苦手だった。」


竜二「どんな人って、聞いてどうするんだよ」

まゆみ「知りたくて。好きだったんでしょ?一度は結婚した相手だし」

竜二「まあ。」

まゆみ「嫉妬とかそういうんじゃないよ。」

竜二「終わったことだよ。母さんがよく言ってるから分かるだろ。」

まゆみ「お義母さんの知ってる礼さんじゃなくて。竜ちゃんの知ってる礼さんを教えてよ。」

竜二「なに、急に。俺帰ってきたばっかりで疲れてるんだけど」

まゆみ「それに、終わってないよ。」

竜二「は?」

まゆみ「礼さん、まだ終わってない。」


竜二N「泣きそうなまゆみは、いつもと違う目をしていた。強くて、見覚えのある。礼と同じ目だった。」


まゆみ「会いに行った。」

竜二「…え?」

まゆみ「昨日。礼さんに会いに行った。」

竜二「な、」

まゆみ「鈴音ちゃん。引き取りたいって。」

竜二「何勝手なこと、」

まゆみ「竜ちゃんが勝手に決めちゃうからでしょ」

竜二「…。」

まゆみ「私ももう美浜の家族だよ。ちゃんと、大事なことは話してよ。」

竜二「あいつ、何て?」

まゆみ「…渡さないって、言われた。」

竜二「…。」

まゆみ「これ以上壊さないでって。竜ちゃんとおんなじこと言ってた。」

竜二「そっか。」

まゆみ「…なんで礼さん死んじゃうのかな。」

竜二「…。」

まゆみ「可哀想だった。なんで、なんで若いのに。なんで、」

竜二「まゆみ、」

まゆみ「そんなに、悪いお嫁さんだったの?お義母さんが言うような。だからバチが当たったの?」


竜二N「泣き喚くまゆみは、まるで子供のようだった。」


まゆみ「竜ちゃん、教えてよ。礼さん、本当はどんな人だったの?」


竜二「…強い女だったよ。死ぬなんて考えらんないような、強くて美人で、でも実は脆くて。」

まゆみ「…」

竜二「人の目ばっかり気にしててさ。嫌われないように気ばっか遣って。俺が気づいた時にはぶっ壊れてた。出会った頃の強さも、凛とした姿もなんもなくなってた。夜、料理しながら泣くんだよ。声だけ聞いてれば普通の会話してんのにさ。それでもあいつ、頑張ってたよ。」

まゆみ「離婚するまで?」

竜二「離婚の話、俺の両親にしてたのをよく覚えてる。1人でさ、母さんと父さんの前に座って頭下げてさ。謝ってたよ。これ以上傷つけたくないってさ。鈴音の件で親権揉めてたんだけど、俺そんな姿見てたらさ、こいつ1人にしたら簡単に死んじゃうんじゃないかって。両親に言って、鈴音、引き渡したんだ。」

まゆみ「明るい人に、思えたけど。」

竜二「じゃあ、だいぶ元に戻ったんだな。鈴音がお腹にいる頃にはもうほとんど関係も破綻してたから、毎日怒鳴り合ってたよ。」

まゆみ「竜ちゃんが?」

竜二「そ。俺も壊れかけてたんだろうな。あいつの一言一言が気に障って、言い返して怒鳴りあってって。でもまだあの頃はどこかで信じてた。表面上、俺の親とも上手くやってたしさ。いつか分かり合えるって。」

まゆみ「分かり合えなかったから、離婚したの?」

竜二「そうだよ。鈴音が生まれてからはもっと酷かった。本当にずっと泣いてんだよあいつ。俺と一緒に飯食うと吐くし眠れなかったみたいだし、どんどん痩せてった。授乳が終わった頃から精神科通い出してさ。俺それ気に食わなくて。一銭も金出さなかった。俺のせいで、みたいなの、嫌でさ。大人気なかったと思うよ。あいつなりに何とか耐えようとしてたんだろうけど。」

まゆみ「礼さんの手、痩せてた。」

竜二「俺もみた。あの頃とおんなじなのに、別人みたいな顔だった。」

まゆみ「そっか。」

竜二「うん。俺たちの結婚生活はさ、あいつもだけど、俺も限界だった。手出しそうで。これ以上一緒にいたら、もっと酷いことになりそうで。」

まゆみ「大変だったんだね。今まで聞いちゃいけないのかと思って聞けなかった。」

竜二「聞かない方がいいだろ、こんな話。結婚前に。」

まゆみ「私は、幸せだよ。」

竜二「そっか。」

まゆみ「うん。今1番幸せ。竜ちゃんとこの子と。」

竜二「それは、よかったよ。」

まゆみ「鈴音ちゃん。本当にいいの?」

竜二「もう壊したくないんだ。俺の家庭も。あいつも」

まゆみ「…そっか。」

竜二「ごめん、勝手に決めて。」

まゆみ「ううん。私も勝手に、ごめんね。」


竜二N「抱き寄せたまゆみの肩は、あたたかくて。礼とは違うぬくもりがあった。」


竜二「今でも母さんがよく言うだろ。あいつの悪口。」

まゆみ「うん。」

竜二「父さんと母さんを前に言った、あいつの言葉、今も鮮明に覚えてて」

まゆみ「うん。」

竜二「私はお義父さんたちが言うような冷たい人間になってもいい。これ以上壊させないで下さいってさ、俺、その時あいつの後ろにいたから顔は見えなかったけど。父さんが何にも言い返せなかったんだ。きっと必死な顔してたんだろうな。」

まゆみ「強い人だね。礼さん。」

竜二「そうだろ。あいつは強いよ。」

まゆみ「なのに、なんでなんだろうね。」

竜二「…。」

まゆみ「まだ若いのに。」

竜二「うん。」


竜二N「静かに泣くまゆみの横で、俺はまだどこかで信じていた。礼は。あんなに死にたがってた礼は、泣き顔しか思い出せない礼は、死んだりしないって。9時のチャイムが鳴る。いつも通りの日常が霞んだ気がした。」


………………………………………………………………


恭平「礼ちゃん?」


礼「あ、…今何時?」


恭平「19時。気分は?」


恭平N「2度目の投薬が終わった。まだ虚ろな目で何かを探す彼女。きっと次の言葉は」


礼「鈴音は?」

恭平「18時ごろまでは居たんだけど、さっきお母さんと帰ったよ。」

礼「…そう。」

恭平「うん。安心して。明日休みだからお母さんのとこ泊まるって。」

礼「…そう。」

恭平「だから、今日は僕ここで寝るよ。」

礼「お家でゆっくりしたら?今日色々疲れたでしょ?」

恭平「疲れてないよ。大丈夫。」

礼「ふふ、嘘つき。」


恭平N「太い管の入った細い手を握る。穏やかな彼女の顔を見てようやく安堵した。」


礼「待ちくたびれた?」

恭平「ううん。」

礼「ご飯は?」

恭平「鈴ちゃんとお寿司食べたよ。」

礼「くるくる寿司?」

恭平「そう。お母さんに交代してもらって食べてきた」

礼「いいなあ。行きたい。」

恭平「外出許可もらって行こう。」

礼「そうね。」

恭平「寒くない?」

礼「大丈夫。」


恭平N「彼女と出会ったのは、鈴ちゃんがまだ小学生に上がる前だった。行きつけの喫茶店。筆が進まない日に澄んだ声が聞こえた。」


礼「落としましたよ。これ。」


恭平N「差し出されたのはストローのゴミだった。」


恭平「あ、すみません」

礼「いえ。…具合悪いですか?」

恭平「へ?」

礼「顔色、悪いみたいなので。」

恭平「あ、いや、別に。」

礼「これ、よかったら。」

恭平「…チョコレート?」

礼「さっきコンビニで買ったので、まだ開けてないですよ!」

恭平「あ、その、」

礼「あ、お嫌いでした?」

恭平「いえ、あの」

礼「カフェラテ、飲まれてるから。」

恭平「好きです、甘いものは」

礼「よかった。じゃあ、」


恭平N「咄嗟に掴んだ右手から」


礼「え。」

恭平「あの、」

礼「…はい。」

恭平「今、暇ですか…?」

礼「あ、あと15分くらいなら、」

恭平「す、座りませんか?」

礼「…ふふ。」

恭平「え?」

礼「落としましたよ。また。」


恭平N「何かが落ちる音がした。」


礼「何笑ってるの?」

恭平「思い出してた。礼ちゃんと出会った時のこと。」

礼「あの時、恭くんすごい顔してたよ?」

恭平「そう?」

礼「何でか泣きそうな顔してて思わず笑っちゃったもん。よく覚えてる。」

恭平「そうだっけ。」

礼「ねえ、」

恭平「ん?」

礼「がっかりした?」

恭平「何に?」

礼「私に子供いたこと。」

恭平「ううん。」

礼「じゃあ後悔した?」

恭平「何が?」

礼「あの日出会ったこと。」

恭平「ううん。してないよ。」

礼「私は、後悔してるよ。」

恭平「…そう」

礼「ごめんねって気持ちでいっぱいだよ。」

恭平「…」

礼「ねえ。言わないって決めてたこと、言ってもいい?」

恭平「…うん。」

礼「寝言だって思ってね。」

恭平「…うん。」

礼「…もっと、いろんなとこ行きたかった。」

恭平「うん。僕も。」

礼「もっと恭くんの小説読みたかった。」

恭平「書くよ。」

礼「鈴音の制服姿、一緒にみたかった。」

恭平「見ようよ。」

礼「もっと、一緒にいたい。」

恭平「…うん。いようよ。」

礼「…っ、死にたくないなあ。」

恭平「…。礼ちゃん。」

礼「寝言。寝言だよ。ただの。」

恭平「うん。」

礼「怖い。2人に会えなくなるの。」

恭平「うん。」

礼「…ごめんね。私母親なのに。」

恭平「ううん。」

礼「…ごめん。」

恭平「ううん。僕、礼ちゃんに出会えて幸せだよ。鈴ちゃんの父親にさせてくれてありがとう。」

礼「…っ、」

恭平「僕、父親いなかったからさ。ちゃんとお父さんやれるか分かんなかったけど、今すごく幸せだよ。礼ちゃんのおかげ。」

礼「うん、」

恭平「僕も、寝言、言ってもいい?」

礼「うん。」

恭平「いかないで、礼ちゃん。」

礼「っ」

恭平「おいていかないで、俺、まだ一緒にいたい」

礼「ごめんね、」

恭平「すきだよ。」

礼「私も、だいすき。」

恭平「…あーあ。よく寝た。寝過ぎちゃった。」

礼「…、私も。おはよう、恭くん。」

恭平「鈴ちゃんグレる夢見ちゃったどうしよう」

礼「ふふ、何それ。どうしようね。」


恭平N「時間が止まってくれればいいのに。そんな願いは虚しく、容赦なく月日は流れていった。」


………………………………………………………


看護師(女)「退院、おめでとうございます。」


まゆみ「お世話になりました。」

看護師「何かあったらいつでもいらしてくださいね。」

まゆみ「はい!」


まゆみN「9月10日。元気な男の子を産んだ。お義父さんもお義母さんも竜ちゃんも、とっても喜んでくれた。ただ、お義父さんが呟いた“やっぱり男の子のほうがいい。”その一言がなぜか胸に刺さって悲しくなった。退院してすぐ、電話が鳴った。」


まゆみ「もしもし、」

恭平「もしもし。白石です。ご無沙汰してます。」

まゆみ「あ、お久しぶりです、」

恭平「お子さんは生まれましたか?」

まゆみ「はい!先日無事に」

恭平「よかったです。」

まゆみ「…どう、しましたか?」

恭平「9月末に妻の四十九日を行います。」

まゆみ「…へ」

恭平「まだお子さん生まれたばかりで大変でしょうし、ご連絡差し上げるか迷ったんですが、一応。」

まゆみ「や、あの、え」

恭平「旦那さんにお伝えください。」

まゆみ「あの、礼さんは」

恭平「8月に。他界しました。」


まゆみN「淡々と。そう投げられた言葉を電話を切るまで理解できなかった。」


まゆみN「まだ暑いはずの季節、私は眠る我が子を前に愕然と膝をついた。」


…………………………………………………………


竜二N「礼さんが亡くなった、とまゆみから告げられた。四十九日、俺だけでも行ってくれと泣きつかれた。でも結局俺は行けなかった。そしてあっという間に半年が経った。」


まゆみ「風太ー。ほら、お出かけするんだよー。」


竜二N「礼のお墓にどうしても行きたいというまゆみは、息子の風太が6ヶ月になった次の日支度を始めた。」


まゆみ「どうするの?竜ちゃん。私、風太と2人でも行くよ。」

竜二「…まだ、遠出は早いんじゃないか?」

まゆみ「病院の先生にも聞いたけど問題ないって言われたよ。」

竜二「でも、」

まゆみ「じゃあ、ここで待ってて。」

竜二「…」

まゆみ「私、ちゃんとお別れ言いたい。」


竜二N「まゆみの強い眼差しは、何処となく彼女と似ていた。黒いスーツをクローゼットから引っ張り出して、両親に嘘をついて、土砂降りの中礼の眠る街へ車を走らせた。」


…………………………………………………………


まゆみ「もしもし、白石さん。はい。もう着きます。」

竜二「気まずいな。会うの。」

まゆみ「いい人だよ。一回しか会ったことないけど。」

竜二「一回じゃよくわかんないだろ。」

まゆみ「落ち着いてて、優しくて。」

竜二「ふーん。」


恭平「こんにちは。お久しぶりです。」


まゆみ「ご挨拶遅くなって、ごめんなさい。この度は、」

恭平「いえ。そういうのは、大丈夫です。」

まゆみ「…鈴音ちゃんは?」

恭平「今、少し出てて。…どうぞ、」

まゆみ「あ、お構いなく、お墓に参らせていただければ、」

恭平「長距離運転されたんでしょう?どうぞ休まれてください。お子さんも、疲れたでしょうし。」

まゆみ「あ、じゃあ少しだけ…」

竜二「…」

まゆみ「もう、竜ちゃん!」

竜二「あ、」

恭平「はじめまして。」

竜二「は、じめまして。」

恭平「白石 恭平です。」

竜二「美浜です…」

恭平「どうぞ。」


まゆみ「書斎、広いんですね。」

恭平「仕事柄、まあ。」

まゆみ「そういえば、お仕事何されてるんですか?」

恭平「物書きです。」

まゆみ「物書き?」

竜二「小説家だよ。」

まゆみ「あ、そうだったんですね!」

恭平「はい。一応。」

竜二「それだけで食べていけるんすか」

恭平「はい。そこそこに。」

竜二「女の子なのに男親だけっていうのも、」

恭平「僕は両親が既にいないので、礼のお母さんに助けてもらってますよ。」

竜二「へー。」

恭平「…なにか。」

竜二「いや、別に。」

まゆみ「ほら、ツンケンしないで。」

竜二「あ、」

まゆみ「…礼さんの仏壇ですか?」

恭平「はい。」

まゆみ「ご挨拶しても、いいですか?」

恭平「どうぞ。」

まゆみ「ほら、竜ちゃんも。」

竜二「…、」


まゆみ「…私、礼さんが祈ってくれてたから安産だったのかな。」

竜二「…。」

まゆみ「ありがとうございました。」

竜二「…あいつは祈ったりしないよ。」

まゆみ「祈ってくれたよ?」

竜二「上辺はそう言うよ。そういう女だよ。」

まゆみ「…どうしたの?竜ちゃん。なんか、」

竜二「あーあ。どんな顔して俺たち見てんだろうな。」

恭平「…。」

竜二「バカにしてんのかな。のこのこ会いに来てって。お前のせいで不幸だったって。」

まゆみ「竜ちゃ、」

竜二「せいせいしてるよ。俺。お前ずっと死にたいって言ってたもんな。だからこんなに早く死んじゃったんだよ。」

恭平「っ!」

竜二「な、」

恭平「訂正しろ。」

竜二「はな、離せよ」

恭平「お前が、そうさせたんだろうが」

竜二「何」

恭平「お前のせいで死にたくなったんだろうが!」

竜二「知らねえくせに、なんだよ。」

恭平「知らないよ。礼ちゃんはお前の愚痴ひとつ俺に聞かせなかったよ。」

竜二「…」

恭平「私が悪かったんだって、それしか言わなかったよ。死ぬまで!一回も!」

竜二「…」

恭平「なのに、なんなんだよお前は。まだ、足りないのか?こんなになった姿見ても、まだ足りないのか?」


恭平「なあ、お前の前で泣いてた礼ちゃんの時間を、俺にくれよ。」


竜二「…、」


恭平「1分でも、1秒でも長く、一緒にいたかったのに、」


恭平「死んだんだよ!俺の、礼は!お前が壊した礼は!」


竜二「っ、」


まゆみ「やめてよ!!」


まゆみ「やめてよ…、礼さん、見てるよ。」


竜二「…っ、分かってるよ。俺が悪かったんだ。守れなかった俺が悪かったんだ。」

恭平「…」

竜二「なんで、なんでだよ、あや…」


竜二「なんで、本当に死んじまったんだよぉ、あや」


まゆみ「竜ちゃん、」

竜二「俺、謝るからさ、俺のことが嫌いなままでいいから、俺の父さんや母さんのこと嫌いなままでいいからさ、」

恭平「…」

竜二「死ぬなよ、あや」


竜二「どっかで、生きて、勝手に幸せになってくれよ。俺、今度はちゃんと謝るから。あや、あや。」

まゆみ「竜ちゃん…」


恭平「…今度なんて、遅いんだよ。」

竜二「く、ぁ。」

恭平「…もう、いないんだよ。」

竜二「っ、ごめん、ごめん。あや、ごめん、」

恭平「…俺は、あんたのこと知らないけど、あんたがずっと嫌いだった。」

竜二「ごめん、ごめん、」

恭平「でも、礼ちゃんは、あんたにも幸せになってほしいって言ってた。」

まゆみ「…っ、」

恭平「だから、次は次こそは、間違うなよ。」

竜二「…鈴音を、」


竜二「鈴音を、よろしくお願いします…。」


まゆみN「朝から降り続けた大雨は、嘘のように晴れていた。」


……………………………………………………………


礼「鈴音へ。」


礼「鈴、許してくれる?ママ、最後までダメなママだったね。鈴にこんなに早くお別れ言う日が来るなんて思ってなかった。もっといっぱいお話ししたかったし、いろんなとこ連れて行ってあげたかった。」


礼「ママね。たくさん失敗しちゃったけど、そのおかげで鈴に出会えたなら失敗なんかじゃなかったなって思う。ママを選んでくれてありがとう。おかげでとっても幸せだった。でも、やっぱり寂しいな。悔しいな。ママ泣き虫だからさ、お手紙がびしょ濡れだよ。ちゃんと滲まず読めるかな。」


礼「最後に鈴にお願いしたいことがあるの。恭くんのこと。恭くんね、あんまり笑ったり泣いたり怒ったりしないけど、実は人一倍寂しがりやさんなんだよ。心配性だし過保護だし、でもいつも鈴の味方でいてくれると思う。だから、ママの代わりに、たくさんお話ししてあげてね。書斎に閉じこもってばっかりだから、いろんなところに鈴が連れて行ってあげてね。もし、ずっとめそめそしてたら、鈴が背中叩いてあげて。負けるなって。ママの方がずーっと寂しいんだって。お願い。たすけてあげてほしい。」


礼「ごめんね、本当にごめん。ごめんね。ごめんね。」


礼「愛してる。 礼より」


………………………………………………………


恭平「うん、行こうか。」


恭平N「小さな手。彼女の形見は今年も僕の背を押してくれる。」


恭平「ああ。今年も晴れたね。」


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