第31話 彼女は猫である。

 寝ていた。


 眼を開ける。

 最近酷く眠い、瞼を開けていることも億劫なくらいだ。

 春だからか、この陽射しが気持ちいいからなのか、夢と現実が曖昧になる。

 いつから寝ていたのか、いつの夢を見ていたのか、途切れ途切れになる夢と微睡まどろみとの行き来――いつまで寝ているのか、いつまで起きていたのかそれすら曖昧で。

 一体いつの間にこんな暖かくなったのか、瞼も融けるような春の風と陽射しのぬかるみが、体中を軽く怠くしている。

 まるで目眩めまいのよう――フワリ、くらりと、眠りに落ちる瞬間――

 暗闇が瞼の裏を満たし、何も無い海の中のようで、水の中に居るようで、全く苦しくない。

 本当に心地良い陽射し――

 いつの頃からか、私は何の用も無く庭を歩くようになっていた。庭木の手入れをするでもなく、草を毟るでもなく、その景観に目を休ませるでもなく。

 何か、理由のようなものを探して。特に理由も無く、母屋と植木場との間を、あるいはその中を、行ったり来たり。

 そんな中、彼女に出会った。

「……お嬢さん?」

「すぅー、……、すぅ……」

 陽だまりの縁台の上――座布団を枕に、体を横に、気持ち良さげに瞼を閉じている。なぜこんなところにお嬢さんが居るのか、それもこんな綺麗な――とても見事なお嬢さんが。

 それからゆっくり私は硬直していた。

お嬢さんが居る、うん、お嬢さんだ。

 ――とても綺麗なお嬢さんだ。

 ただし人間の――とつく。

 そう、ごくごく標準的な人間のお嬢さんだ……全く縁もゆかりもない他人である。

 その顔に全く見覚えはない――宝くじと葬式の時見たことも聞いたことも無い親戚が現れると言うが、生憎、私は宝くじは買わない主義だ。

 猫ではないそれが、何故ここに? そこは猫の寝床だぞ?

 気を遣ってしまう、起こしていいのか指で突いていいのか。はて、どうしてものか。

 着物に包まれた胸とお腹を上下させている。他人の家の軒下で堂々と寝ている。一体どうすればいいのか、見事な寝息で――ここまで綺麗なそれを聞かせられたら、容易には起こせない。

 ううーん……うん、うん……ううん?

 頭の中で首をひねり心の中で唸り声を上げるのだが、全くと言って原因が分からない。

 人間のお嬢さんがそこに寝ている。猫もかくや堂々たる寝相で――いつものお嬢さんが寝ている場所でお嬢さんが寝ている――

 つまりはお嬢さんだ。

 いや、私も大分混乱している。自分の家の前どころか敷地を跨いで庭の中――母屋の軒下、グイと突き出たひさしの下に全く見ず知らずの他人の女性が寝ているのだ。

 まず事件を疑うだろう――いや、疑われるだろう? 私が犯人で、この寝扱けているお嬢さんが被害者だ。――由々しき事態である。

「……とりあえず……起こした方がいいのかな?」

 身の安全の為に。私は遠巻きで首を傾げる。 

 だが、一体どうしてこんなところで寝ているのか。


 もしかして、私の家に何か用があったのだろうか?

 それならそれで、玄関で立っていればよかろう、屋外とはいえ、少なくとも自分の敷地にむやみに立ち入られていい気分はしないのだが。

 それをじっと見て、

「ううーん……」

 声に出して呻ってみた。お嬢さんの寝言ではない。

 少しでも心当たりはないのかと、私は縁台で寝扱けている人のお嬢さんの姿を見回してみる。

 まず不審者――というには少々勿体ない位の、見目麗しさに見える。

 綺麗な黒髪を結い上げた横顔に、煌びやかな上睫毛、瞼を閉じながらも高い品性が滲み出るような目尻はツンと上を向き、その渕には薄く化粧が引かれていた。はんなり春色の、桜の香りが立ち込めたような薄紅の着物も魅惑の、まるで絵に描いたような和服の淑女だ。

 上から下に――いや、右から左に、それを眺めるに。いや、人様の寝顔をこれ以上みてはいけないと視線を逸らすが――どうしてもチラチラと目を奪われてしまうそれくらい整った顔立ちは美人に類し、物言う花というそれであろうか? 大人の様に見えるのに反面、無垢な子供にも見え、そのどちらでもない時期のそれとも判別がつかなかった。

 なんとも不可思議な輪郭をした印象――

 綺麗過ぎる見た目は年齢を窺わせないことは往々にしてあるものだが、きっとその類なのだろう。別の人種や動物になると顔の判別が難しいとは聞くが、美醜もある意味でこれも同じか。

 それだけに――そんな美人が軒下の縁台で寝扱けているのは、酷く違和感がある。

 それとも絵になるのだろうか? それが猫専用の座布団を枕にして、なんともすやすやと目蓋と口元を結んでいる。

 その小さな背を微かに丸めて、縁台には余りある足をしなりと地に降ろしていた。

当然、そんな風にしていれば着物の裾の合わせ目も綻び――その中にあった生っ白い御御脚おみあしも艶めかしく、ふっとその先をまろび出て――

 いやいやいや、何を見ているのか私は、寝ている女性の乱れた足を眺めるだなんてそんな不謹慎にもほどがある。

 目頭を指で揉み、押さえて、抑えて気を取り直し。

 ――なんとも勿体ない、生暖かく、柔らかげな白い足が――

 白足袋も履き、はらりと、着物の隙間からその奥を覗かせ――

 視線を横にずらし、そっと背中を向け大きく深呼吸し脳裏をリセットした。

 これでよし――

 ……で、これは不法侵入なのだろうか?

 庭先とはいえ他人の敷地、そこに許可なく立ち入って昼寝をすることを良いのか悪いのかと問えば間違いなく悪いだろう。正味徹頭徹尾不審者である。飛び抜けた美人の所為で犯罪臭は薄まりそれどころか春が輝いて見えるのだが。猫と同レベルと見ると途端に消え失せて見えるのが残念な所だ。しかし敷地は施錠が出来る門や塀で囲っていない、庭も同上だ。それで郵便物の配送も母屋玄関のポストに投函するそれとて堂々と敷地を跨いでいる。これで明確な罪には問い辛いだろう――

 だが、先程の私の不躾な視線と過失の相殺としては十分だろうか? いやこちらが重いか。これから寝ている女性に声をかける勇気としては十分であろう。

 そう理論武装し、

「……お嬢さ~ん?」

 ……すぅ、すぅ。と。

 私は寝ているそれに遠慮した小声であったが、お嬢さんもまた慎み深い堂々とした寝息で答えて来る。

 ……それが返答か……。

 いや、そうではないと分っているが。ここまで昼寝も堂々とされるとどことなくイラッとする。陽射しを吸い込んでいるのかと思う程、見事な寝息――その姿はあながち人の形をした猫と言っても差し支えないだろう。

 猫が相手であるならば……このまま起きるまで放っておいても仕方なかろう。

 何せ猫なのだ、こんな見事な寝姿を見せられてはそうなってしまっても仕方あるまい、猫が寝ていたらそっとしておいてあげるのが鉄則だ。私は何も見なかった。

 何もせず、何にも気付かず、今日は帰って来てからずっと家の中に居た――そういうことだ。これで彼女が起きればまず玄関の呼び鈴で中の私を呼び出すだろう、もしそうではなく何かの間違いでそこで寝ているなら、お嬢さんも何も言わずにこの敷地から出て行く筈だ。

 それでいい――見ず知らずの猫とは通り過ぎるに限る。

 そーっと踵を返し、またゆっくり背中を見せ、抜き足差し足でそこから去ろうとした。

 一歩、二歩。回れ右して。

 背中を向けた直後――


 ――リン。


 幽かな鈴音に、私は周囲を見渡した。

 右に、左に、首を回し――雉柄の毛並みを探す。

 久方ぶりの来訪に、私はつい先程まで考えていたことを丸ごと放棄した。

 見える範囲には居ない、ならまだ塀の向こうか、庭木か母屋の影だろうかと、私はその場で入念に周囲を捜索した。

 お嬢さんの姿はどこか――

 ――チリンリンリン。

 割とすぐそこから澄んだ音がした。だがどこか、すぐ近く、既に敷地の中に居るはずだがと私が探している内に、何かが身動ぎする音がし私はすぐそちらを向いた。

 そこに、

「……」

 お嬢さんが居た。ただしそれは相変わらず人間のお嬢さんだが。

 猫はどこ行った。私がそれを探す内、縁台に横になっていた着物のお嬢さんは体を起こし、背を反らし、あごを上に向け、それから手の平の付け根で瞼をゴシゴシ擦っている。

 起きた――それを確認し、私は一先ず猫探しを止め、立ち尽くしてその人間の目が私に向くのを待った。

 やはり、とてもお美しいお嬢さんである。寝てもほつれない御髪おぐしもどうやって纏めているのか。寝惚け眼の半眼で左右に視線を回している。

 その睫毛の先端を煌めかせ、それから自分の着物の裾を妙にしげしげと気にし、やけに入念に、そして疑問げに、着物の着付けをまだ眠たげにして確かめている。

 私が居ることに気づいているのかいないのか、否、気付いていないからこそ遠慮なく。まるで今日着ていた服に見覚えが無いかのようである。私も身に覚えがある、疲れ切って帰り横着にそのまま寝床にドボンとした朝の事だ、着た覚えのない真新しいまるで卸し立てのシャツと下着を身に着けていた、それが逆に怖かった。

 その間、待ち時間を利用し私は相変わらずお嬢さんを探すのだが、そのときまた鈴の音がした。

 ――チリンリンリン。

 今度こそ私はその音をこの眼で見た。

 その出所は、意外にもまだ寝惚けて陽射しに顔を当て縁台に座って佇んでいる着物の女性の袖の下――

 そこから間違いなくした。もはや細かな線の乱れを直すことを諦めたのか――その必要が無かったのか。もうまるで着崩れておらずピン、シャンとした春が満ちる和服――

 小袖の、振袖と比べれば短かな袖の中――

私は、首の動きを止め、やや前屈みにのめり込み気味に視線を突き刺しその手首を見た。

 その熱視線に――女性は私に釣られる様、ふと自身の袖を見そして上に揚げる。 

 肘を畳んで脇を空けず、小さく上げた前腕の先から軽く捲れた小袖の中――その手首に、花のつまみ細工が散りばめられた赤の組紐と――そして小さな鈴が現れた。

 姿の見えないお嬢さん――その原因はそこにあった。それを私は確認する。

 私は納得した。どうりでこんな近くから聞こえるのにその姿が全く見えないのかと。

しかし反面、何故? それはお嬢さんに上げたものだと疑問に彼女を見る。

 どう見ても人間、それである彼女が何故、猫の首輪を?

 手首に――猫の首輪がどうして人の腕輪に?それもこんな美人・・の――


『――こちら、綺麗なお嬢さんへプレゼントです』


 ――それか!


 私は、かつて送った手紙の一文を思い出した。

 ああ、そうか。そういうことか。

 と。得心し。

 もしかしなくとも、このお嬢さんは猫のお嬢さんの飼い主なのか。と納得した。

 猫へのプレゼントを、自身のそれと取り違えて――

 ……いや、そんなことあるのか? ちょいと前向きというか図々しすぎやしないか?

 半信半疑。

 だがそれも仕方ない――それくらいに綺麗なお嬢さんであると思う。

 見目麗しい物言わぬ花、年齢不詳の謎めいたそれであるが。ならきっとこのお嬢さんこそが手紙の受け取り主――お嬢さんの飼い主さんで仕方ないのだ。

 私は鑑みる。ということは、随分遅れたが私に手紙の返事を直接受渡しに来たのか?

 住所、氏名、年齢不明で、それを調べるに時間が掛り――どうやって? 猫の歩き回る近所を、おそらく自分も猫を追い掛け――この家に辿り着き? 手紙の主かどうかを確認しようとしてだが私が留守で……途方に暮れつつ、待とうと、自分の猫の先導で一緒に縁台に座り込んで……陽射しがよくてそのままつい―― 

 居眠りしてしまった?

 少々無理のある推理の気はする。が、実際そこで寝ていたのだから仕方あるまい。

 それも、よほど良い夢を見ていたのだろう、目覚めたとき現実の自分の服を忘れているくらいだ。今日はそれ位にいい陽射しで、気持ちの良い風が吹く場所なのだ。 私はそこで人知れず微笑を零した。もしかしたらそれが声に漏れていたのか、飼い主さんが私にじっと焦点を合わせてくる。

 何笑っているの? というその視線に、私はますます笑いを堪えることになる。

 それから、飼い主さんはハッと、自分が今まで何をしていたのかを思い返すよう、もう一度、自分の着物の着付けを確かめるようそこそこを手でワタワタと触れ回る。

 確かに、人前で先程君がしたそれはちょっと淑女にあるまじき醜態なのだが、そうではない。私はただ、寝るところから何まで――先程の視線の仕草まで――猫のお嬢さんに似ていると思っただけだ。

 飼う動物は飼い主に似ると言うが、昼寝の趣味まで、その逆もよくあるというそれが確認できたお陰だ。

 間違いなくこの着物の女性は、お嬢さんの飼い主なのである――それが確かめられた。

 奇異なお嬢さんとの出会いも含め、飼い主さんとの出会いも奇異とは、なんとも乙なものである。

 飼い主さんは、オタオタと握った手を緩く開き、どこを見ているのか穴があったら入りたいと目をあちこちに泳がせ、焦りながら何を言えばいいのかと口を開いては閉じている。

 容姿の落ち着きとは裏腹に、お嬢さんと同じくなんとも愛らしい仕草をする。

 まあそりゃあ勝手に他人の軒下で昼寝をして、眼を開けたら家主が居て醜態を見せていたともなればこうもなるだろうか。見ている分には美人さんが慌てふためき弱気な顔でおろおろとして、なんとも庇護欲をそそる眼福であるが。

 そんな中何を思いついたのか――着物美人の飼い主さんは、意を決したよう眼を据え、

 お? と、私が視線を向けるや否や、妙に背筋をピンと伸ばし、正した膝に両手を三つ指を綺麗に揃えて置き――そして、喉を張るよう首を反らし、

「……にゃー!」

 私は目を疑った――朗らかに、猫の声を朗読したその姿に。

 終わった後、そしてはんなり小首を傾げる――


 誰の真似をしているのか分る――

 お嬢さんだ。この飼い主さんは、自分の猫の声真似をしている。

 何故か――自分が猫になり切っているのだ。


 猫だから仕方がない――

 そう、つまり、猫になればいい。

 猫だから、全てが許される、女性としてあるまじき醜態も、他人の家の庭で居眠りしあまつさえ、その寝顔も寝姿を家主に見られるという事件も。

 猫ならば、許される……。

 その理論は認めざるを得ない。

 だが――色々と直視を躊躇う。綺麗な女性が、犬歯も露わに猫の鳴き真似をしているのだ。そうでなくとも惑星直列とかおかしな日なのかと疑うだろう。だが――猫の真似をし可愛さでこの場を乗り切ろうというその心意気が、それも何やらやけに自信ありげな微笑を浮かべていて。寸分の狂いも迷いも無くキラキラとした瞳がまた猫のお嬢さんと同じで。

 ええい、もうどうしたらいいのか……ここは誤魔化されるのが男気か?

 私はつい、破顔してしまう。

 ――光が差す、春の日差しが気持ちいい……。

 目眩のするくらいの、温かな陽気……いつだったか、お嬢さんと一緒に広くて狭い縁側で寝た……。

 ああ、うん、どうだっていいな。

 私はつい頬を緩ませてしまっていた。

 そして興が乗って、お嬢さんの演技に合わせてつい――

「……お嬢さん。……お嬢さんは、猫のお嬢さんなんですね?」

 そんな、悪ふざけをしてしまった。

 飼い主さんは目を見開き、そして、何故だかその益体も無い大根演技を嬉し気に微笑む。

 なのでそこで止めればいいのに、またついつい悪戯心が先走り、

「それじゃあいつも通り――家に上がって行きますか?」

 お嬢さんを、誘ってしまった。猫ではなく、人間のお嬢さんをだ。

 私からの逢引きの催促に? えっ、と飼い主さんは先程とは違う種類の驚きに目を見開いて、次の瞬間には口を閉じ引き結んでいるが。

 やがて、私と同じかそれ以上に悪い顔をして、ニヤリと口角を上げた。

 おお、話も、そして冗談も分かる淑女の様だ。それとも自分の飼い猫が、他人様の家で何していたのが気になるのか――それも、当人が居ない場所でそれを暴くことに悦びを覚えているのかもしれない。私もそれに――今回ばかりはやぶさかではない。

 もちろん、目の前の麗しき淑女との逢引きが舞っているからだ。

「どうなさいますか?」

 そよぐ春風と温かな光の中、飼い主さんは、もちろん! と言うようニコリと美しい弧に唇を開けて、私の予想通りに、

「――にゃあ!」

「……ではご案内いたします。――さあ、こちらへどうぞ?」

「にゃー……にゃーっ!」

 不可思議な美貌がまた花を咲かせる。どうしよう、みればみるほど可愛らしく見えてしまうのだが――

 いやいや、これは夢だな……うん、夢だ。

 そう思わなければやっていけないくらい、夢のような屈託のない笑顔だった。

 そう思わなければ――どうにかなってしまいそうだ。私は夢を見ているのだ。こんな可笑しな、夢のような出会いなんてそれこそ夢でしかないだろう。

 私はバカみたいに恭しく手の平を仰向けにし誘導リードした。


 そうして、私は飼い主さんと連れ我が家を案内した。

 すると飼い主さんは驚くくらい猫のお嬢さんと同じ立ち振る舞いをした。それは熱演どころか名演というより他無いもので、まるで本当に人の形をしたお嬢さんのよう填まって見えた。

 玄関や各部屋の戸でそこを眼で開けてとせがまれ、そしてまるでお嬢さんの辿った足跡をあらかじめ知っていたかのよう歩き回り、そのそこ此処で、いつもと違う視界を嬉し気にしているかのように、同じ目の高さを喜ぶよう時折り私の顔を見て喜んで――いるように装って。

 まさに名女優だ。脚本から演出の意図まで意識し、役の心を投影し切った上で、それ以上のものにしてくる。その颯爽たるや、勝手気ままな歩幅で我が家を我が物顔に、さりとて慎ましくも小気味よく闊歩する。

 その凛とした背中、後姿まで……本物のお嬢さんのように感じられた。

 もしくは本当に――お嬢さんと同じく物件好きの家具愛好家で、そしてとりわけ、男心をくすぐるタイミングを心得た雌猫かだ。

 いやそれはないか。何やらまるで騙されていることに気づかない男の口ぶりだが。きっと相当な変わり者なのだろう、何せ待っているからと他人様の軒下で寝こけるくらいなのだ。今更だが、こんな見目麗しい顔をして相当図太い神経の持ち主だろう。

 そこで私はまた悪戯を思いつき、彼女にいつも通り屋根の上に出てそこを周遊するか提案した。もちろん飼い主さんはそれに眼を剥き、信じ難いものを見る目で私を凝視した。

 当然だ、仮に彼女が常識外の化け猫だったとしても、その着物姿ではいつものように波打つ屋根上を猫のよう歩ける筈がない。ましてや本物の白足袋――その足裏は限りなく滑りやすいのだ、何か間違いでも起これば文字通り屋根から真っ逆さま――その間違いが限りなく起き易い御御足だろう。

 だけど彼女はそこで反抗的に小袖を翻し、それどころか意気揚々といつも最初に開ける書斎の窓から身を投げ出した。


 単純明快――滑る白足袋を脱ぎ私にこれ見よがしに押し付けて。

 颯爽と、勢いよく着物を襦袢ごと抓んで捲って背中――

 結んだ帯の下部へ差し込み生白いその下肢を誰よりも自由にして。

 その眩しい御御足おみあしで、日本舞踊でも踊ればいいのに、波打ち際ではしゃぐ子供のよう屋根上を駆け抜けて行った。

 止める暇も無かった。

 それこそ猫の早足の様にトットットッと軽やかに、そして、真横に吹く風のようスッスッスと進んでいく。

 私はそれを慌てて追い掛けた。いつぞや以上に慌てて焦ってスッテンコロリ、廊下を滑って危うく肘から着地して、また立ち上がって駆け抜けて――

 舞台のよう一階客間の屋根上で踊る、お嬢さんをただ呆然と眺めた。


「――あはははは! ――うふっ、アハハッ!」


 妖怪が狂乱するよう面白おかし気に、さりとて妖精が乱舞するように。

 初めて聞かせてくれた人の声は、どこまでも妖しく、狂おしく、そしてやはり愛らしい声音をしていた。

軽やかにクルクルと回る。ちいさなお山のような、台形二枚に三角二枚を合わせた波波の屋根の上、そこを能か神楽か舞台のよう、着物姿が、しかし西洋の踊りのよう自由自在に軽やかに跳ね回る。

 舞い散る桜のようひらひら自由気ままに袖が跳ねては落ちてを繰り返し――

私の惚けた視線に気づき、振り返り様に蕩然と微笑んだ。

 ひらり、ひらり、春の風が唐突に向きを変えたよう行き先を変えて、彼女が私の元へとやって来る。

窓の向こうから――淫蕩な笑みが息も切らさず近寄って来る。

 スッスッと、音も無く、重さも無く。踊りの中で落ちた裾が、いつのまにか楚々と素足のそれを覆い隠していた。

 獣の気配を滲ませた、飼い主さんの振りをした何かが、遮るものの無い隔たり越しにそっと私に手を伸ばす。

窓の外から彼女は私の右手を掴み、その手で自身のうなじをなぞり上げさせそのまま耳後ろに当てて来る。

 それを心底愛おし気に、目を細めて気持ち良さげにグイグイと頬擦りをする。

 そして妖艶な流し目で、瞼を斜に構えて、いつものように幸せの弧を描く。

 私は、誘われるように、指一本でそこを掻いた。

「……ねえ? ほんとうにわからないの?」

「……あ、あぁ……」

 目の前に居る、この女性がいったい何なのか――

 目の前で、シュルリと着物が窓枠を跨ぎ、こちら側へとやって来る。

 無造作に捲れた着物の裏側、魅力的な生足の太腿がその隙間でチラリと目を引かれた。

 もう、腕の中にまで来ている。

 そして私がかつてそうしたように、お嬢さんは私の顎をツイと指先でくすぐり上げ、下に向いた眼を上へと上げさせる。

 ――そこには、猫耳を生やした着物の女性が――暗澹と唇を開け牙を剥き出しに……


 ――チリンリンリン。


「……」

「……」

 仰向けになった腹に、一匹の猫がうつ伏せに前と後ろの足を投げ出し、そして寝ている。

 彼女は今、獣そのままの姿で背中で三日月のよう弧を描き、私の腹の上で寝そべっていた。

 その耳裏を、知らず知らず私はコリコリと掻いていた。

 そういうことか。

 これか、このモフモフの所為か。

「……いつから、そこに居たんですか?」

 おかしな夢の原因は、ピクピク、と耳で横着に相づちを打つ。

 寝たふりかな? それとも、もうちょっと寝かせて? まったく――

 安楽椅子ロッキングチェアーが揺り籠のようゆらゆらと角度を付ける。

 空からあくびの出るくらいゆっくり落ちればこんな気分だろうか? 多分、羽毛や花びらが風の中でこんな揺られたらそうなりそうな気がする。

 体が液体になったような、なんとも力の抜ける感覚――

 光も蕩けるような縁側で、その温かな熱と空気にスピー、スピーと小さな鼻が寝息を立てている。私の腕の中がそんなに気に入ったのかい? しかし恥かし気も無く男の体に寝そべるなんて……。

 お陰でいい夢を見てしまった。

 私はそっとそっと、小さくその耳裏を撫でる。

「……お嬢さんが化けたら、本当に、いったいどんな美人さんになるんですかね……」

 あのまま夢を見続けていたら、私はこの子に食べられていたのだろうか?

 化け猫に化かされて――

 そうなった暁には、是非とも最初に私を食べて欲しい――もっともこのぷにぷにのモフモフを見る限り、全くそんな気はしないのだが。

 まあ、夢である。そのお嬢さんはまだ夢の中にいるようだが、どんな夢を見ているのやら。

 そこでふと、その首に巻かれているのが夢の中と同じ、私がプレゼントしたあのそれであることに気付く。

 奇妙な偶然だ。もしかしたらまだ私も夢を見ているのか。

 私が指先で首輪を少し引っ掛けると、その拍子にお嬢さんは瞼を開け、本当はずっと起きていたみたいに体を起こし、ひょいと私の上から飛び降りる。

 安楽椅子から床に――そして音も無く歩いて客間の障子前に立つと、そこをみつめた後首だけで私に振り返り、

「にゃぁ?」

「……ああ。はいはい……」

 私も安楽椅子から起き上がり、床に足を降してそのままそこの障子を開ける。

 部屋の中へと行くお嬢さんは、そこで立ち止まり、また振り返り、

「――にゃー」

 ――さ、いきましょう?

 私はそれに手を引かれ、隣に立とうとする。

 そこに――ふわりと風が吹いた。

「……いつ開けたっけかなあ……」

 窓、光が白く、縁側のカーテンまで行き、その隙間から差し込む陽気とそよ風を、名残惜しくも締め出し、お嬢さんの隣で、

「――お待たせ」

「にゃー」

 薄暗い影の這う家の中、そこで綺麗に折り目を正して座ったお嬢さんと、どちらからともなく顔を合わせ、頷き合うよう見つめ合った。

 笑い合うよう目を細め合う。

「……じゃあ、行きましょうか?」

「にゃぁ」

 ゆらり、ゆらりと、しっぽが横に揺れる。


 そうして、私達はまた一緒に歩き出したのだ。

 

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彼女は猫である、なまえは知らない。 タナカつかさ @098ujiko

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