第28話 独眼竜のマサ。
それはいつだったか、私は庭の手入れに精を出していた。
植木場とそれ以外とを点を線で結んで仕切るまばらな庭石の一つ――庭木が軒先のよう覆い被さるそれに、寝そべっている猫を見つけた。
それは傷だらけの猫だった。一目見ただけで分かるほど、あちこちに血が滲み毛皮のそこ此処が削れて地肌が透けて見え、挙句尻尾の先が折れて曲がり鍵のよう直角に変形していた。体中、土と埃をかぶったよう灰色の縞模様が、本当に埃塗れであった。
何よりその片目は――瞼が無く、内側の肉が露出した赤――
眼球を失い、瞼まで失くしてしまったのかもはや痛々しいでは済まされない有り様であった。
大怪我といって差し支えない。それどころか、余命幾何も無い重傷に見える。
それが、すー、すー、と、今にも途絶えそうな寝息を立てている。
瞼を閉じて尚も鋭く険しいその顔立ちは、まるで今も抗争の渦中にある戦士のようだ。
背の低いツツジの植木、その緑の傘の下に、一匹だけでいるところを見ると……命からがら逃げて来たのか、その最中に迷い込み微かな休息を得ているように見える。
この辺りで最近猫の抗争なんてあっただろうか? 野良ネコなんてうろつかない住宅地であるし、猫屋敷もここからは遠い――飼い猫の放し飼いにしても、野性の本能からとウザかった彼らはここまで酷い闘争はしない。
多分――他所の猫だ。少なくとも同じ地区、同じ町内の猫ではない。
隻眼の猫――この猫はとりあえず『独眼流のマサ』と呼称させて貰おうか。
多分、何らかの理由があって、庭木が多くて身を隠し易く逃げるのも容易なこの庭を潜伏場所に選んだのであろう。
が、
「……」
「……」
「……ごめんよ?」
「……」
隻眼で、刺し違えようとでも云うような、激烈な眼光だ。
そこに居ることをお互い気付いていなかった為あわや蹴る寸前の爪先、本当に本当の足元――そこで、慌てて上半身を浮かし、しかし、間合いが内側も内側――零距離どころかマイナスの懐に飛び込まれている。
それに気づき、何も出来ないことを察して、様子を窺っていた。
まるで、首筋に刃物を押し当てられているのか、銃口と引き金に指が掛けられているようなありさまである。
動いても死ぬ、動かなくても死ぬ、まさに必死――といった様相で。足を引けば逃げてくれるだろうか? 君が先に逃げてくれないだろうか?
飛び掛かって来やしないかな?
これはどうしたものか。――しばらく考えてみたもの、どちらかが動かなければいけないことに気づき、
「……どうぞ。そのままお休みください……」
「……」
私は一声かけ、そっと足をどけスッと背中を見せる。猫の威圧に負けたわけではない。ただここに先に腰を下ろしていたのはマサだからだ。
眉間に皺をギッと寄せた視線が私を今も貫いていることだろう。
私は庭仕事を止めすごすごと家の中に入り――とりあえず、戦士の急速に昼寝に水を差したお侘びに――今日の夕飯にと思っていた蒸した鶏ささみを一枚、冷蔵庫から取り出し、指先で裂いて解し、小皿に乗せマサに上納しに行く。
――まだ寝ていた、居場所がばれたのだから逃げても良いのだが、余程消耗しているのだろうと、私は忍び足で近寄り、その枕元にそっと小皿を置く。
と、今度はそのコトリとした皿の音で起き、今度こそ間違いなく眉間に皺をよせ殺すぞとガンを飛ばされた。
かつて、猫に本物の殺気を飛ばされた事なんてなかった。
……それに怯みつつも、私は小皿を視線と顎で指し示し、
「――これ、食べていいですからね?」
「……」
ゆっくり、今度は目を逸らさないようにしたまま距離を取る。
十分離れたところで、背を向け、歩き、もう一度だけ見て、また歩いた。
その時マサは、起き抜けと同じく上半身を浮かせて、私を見ていた。
きっと、食べずにどこかよそへ行ってしまうだろう。
あの目は、人を相当怨んでいる、もしくは不倶戴天の敵――脅威の対象として見ている気がする。
何があったのかは分らない――いや、大怪我の原因が
その後、しばらくしてから同じ場所へ行くと、綺麗にささみ肉が無くなっていた。
食べたのか、それともトンビの如く他の何かが浚って行ったのか、もちろん――独眼流さんも、綺麗さっぱり居なくなっていた。
もう二度と会うことはない――
そう思ったのだが、反して。
それから度々この庭で、隻眼の鯖虎――マサを見かけるようになった。
人に虐待されて、この庭に流れ着いたのか。それなのに、人の住むこの庭に来る辺り、それとも、猫の抗争に負け安住の地を探している最中なのか……もしくは、車か何かに掠められそれ程身動きできないのか、不明であるが。
たまにふらりとやってきて、いつの間にか、どこかしらの庭石の植木の陰に身を潜めていた。この辺りの猫は概ね飼い猫であり自分の寝床を持つので、決してこの庭で昼寝をして行こうなんてしない。やはりマサは余所から流れて来た野良猫――住所不定の無職だということが窺える。
傷だらけのそれが、少しでも体を休めようと一心不乱に寝ている。
そこに度々私が現れる。
「マサさん、怪我の具合はどうですか?」
「……」
当然の如く、睨んで来る。
よくこんな人殺しのような目が良く出来るものだ。
人を人と思わない――極めて不快な、巨大な虫けらと見てくるのだ。
私は何も言わずにこの猫に食べ物を置いた。初めて差し入れしたそれに猫用のカリカリを、そしてその脇に飲み水の皿を。
マサの前にでも、庭木の合間にでもない。
裏の勝手口、そのすぐ脇に、必ず置いておく。
偶々そこを通り掛かったときに、声をかけ、見えるように餌を入れたそれを置いた。
それ以降は、マサはその付近に腰を下ろして眠るようになった。
「――これ、食べていいですからね?」
私は挨拶をした、以前と同じよう、同じ言葉で習慣づけ状況を理解させ栄養を取らせる。
体力が着けばいずれ別の縄張りへと足を運ぶだろう、何せこの猫は人を怨んでいるのだ。好き好んで人の厚意にあやかっている訳ではない、背に腹は代えられず仕方なくだ。
そんな、傷だらけのマサを見捨てられなかったのではない。
今私はとても無責任な事をしている。それはちゃんと飼い主になってやらずこの猫の面倒を見てやらないことだ。これでこの猫がここ居着けば――もしくは通り縋った別の猫がエサを口にし味を占めれば、たちまちこの家は猫屋敷になるだろう。
そうなれば近所に多大な迷惑を掛ける。それを分っていながら、私はこの図々しくも白々しく餌だけせしめるこの猫の事を放ってはおけなかった。
理由なんて特に無い、ただの気まぐれだ。強いていうなら、人より動物の方が好きだからかもしれない。
徐々にこの猫は敷地に居着くようになった。裏の勝手口に居ない時間は減り、居る時間は増えた。
餌を目当てに入り浸る様になった。
いつ貰えるのか、食いっ
通りすがりの猫に奪われてしまうかもしれない、それに、私がいつまでこれを続けるのかもわからない――だからできるだけ、食べられる内に食べておこうという魂胆だろう。まったく、逞しい生き方だ。
本当のところは分からない――が、それはどうだっていい。
私に心を開いたわけではない、人何某かへの恨みが消えたわけでもない。濁って、腐って、折れている――それが例え片側だけでもよく分かった。
ただ食欲旺盛であることだけは結構なことだ。回復の見込みはあるだろう。しかしやはりこのまま居着かれても困るので、もう少し体力がついたらマタタビで酔わせて動物病院へ担ぎ込ませて貰おう――そこでせめて治る怪我だけでも処置して貰おう。
その後は……事情を分かってくれる優しい里親を探してやろう。見つからなければ、マサに刺される覚悟で家の中で囲ってやろう。
もうヤクザのヒモでもなんでも、してやろうじゃないか……。
そんな風に半年ほどだろうか? それほど時間は経っていなかっただろうか?
とある冬の日、特に冷え込む風が吹く日の事だった。いつもの場所でこの猫は蹲っていた。軒下のコンクリート、吐く息すら氷り、渇いた皮膚が破けて血が滲むような寒さ。
いつも、エサがあるその場所で、マサは足を体の下に折り込んで、その寒さに必死に耐え丸まっていた。冷たく固い地面から少しでも体を離したかったのだろう、勝手口下に置かれたサンダルにどうにか体を乗せている。
月も煌々と震えるほどの寒さ、空気が透き通るほど冷たい空の下。凍えるなんてものでは済まない吹き曝しのそこでいつまでもぶるぶると身を震わせ蹲る、その姿に私は黙って勝手口を開けた。
それに気付き、マサも黙って一目散に逃げて行く――決して媚びを売らない。
エサを掠め取っても、勝手に人の縄張りに居座っても、私はそれを怒りはしなかった。
それに初めて叱って言い聞かせる口調で私は言い付ける。
「――待ちな!」
すると不思議なことに、今までどれだけ声を掛けても逃げてばかりのマサが、そのときだけは、立ち止まり、まるで私の言う言葉が分るようにバッと振り向き止まった。
多分、これが、私とマサの最初で最後の会話だった。
私は何も言わず、空いた菓子箱にタオルを敷き詰めた寝床を、下に放った。
上手い事、それはちょうど猫の前に落ちた。猫はじっとそれを見つめ、そして顔を上げ私の事を見た。
そこで私は幾何か目を合わせると、勝手口をゆっくり――大きな音が出ないよう閉めた。
部屋の灯りを消して、ドアの覘き穴から静かにその様子を覘く。
マサは、しばらく箱をみつめると、するりとそれを跨ぎ、そしてその中で何も言わずに身を丸めた。
窓越しに私はホッとした。
それから、その猫はその寝床を寝床とするようになった。
昼の居ない隙に、敷き詰めたタオルを交換してやれば、それは常に血で所々が汚れていた。生傷が堪えない猫だった。もしかしたら最初の傷がずっと塞がらず、ずっと血が流れ続けているのか。それとも、家に居ないとき、そこらの猫と抗争に明け暮れているのか。
ずっとずっとお腹を空かせていたのだろう、私が食事を持って行き、そこを離れればすぐ口を皿に突っ込んでガブガブと食べ始めた。
いつでも食べられるように、なるべくエサを途切れさせないようにしているのに、決して、裏の勝手口から離れようとはしなかった。
きっと怖かったのだろう、いつ、それが途絶えてしまうのか。
いつか、私が裏切ることを想像して――いつ、それが終わってしまっても構わないように。少しでも多くの糧食を得るために奮闘して。
じっと、じっと……耐えていたのだろう。
それとも、私が必ずそこに来ると、信じていたのだろうか?
夏の雨の日、横殴りの吹き曝しでずぶ濡れになるその猫を見た。
わざと近寄り、追い立て、雨が決して吹き込まない場所へと誘導した。
秋の暮れの日、運悪くエサ皿を覗き込んだそこに勝手口を開けてしまい、驚かして逃がしてしまった。
春の日、庭石の上、植木場でまた危うく蹴りつけてしまう所を間一髪、猫は咄嗟に逃げ出した。
遠巻きに私を警戒し、私が更に餌を追加するのを見ている、それに声を掛けるとさっと背を向け、安全に逃げられる距離で私が去るのを待っていた。
決して――人を許さない、怨み続けるというように。
それでも――
残った片目とがらんどうの瞳で睨み続けて。
人の愛なんていらない。そう言われているような気がして。
包丁で刺しても、愛情は出てこないと知っているように思えて――
意地でもそんなものは貰わない、そう決意しているように見えて。
庭の所々に落ちた糞を、いつも私が始末した。
この猫は、いつの間にかこの家を去っていた。
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