第22話 ならない鈴。①

「――おはようございます」

「ああ、おはよう。今日はいい天気ね、最近調子はどう?」

 ある日、朝のゴミ出しを終えた後、隣家の住民と鉢合わせした。

 この辺りの古参の住民で、貸家を営んでいる古狸の一匹だ。隣人としては親密でなく正直、腹の探り合いをしている部分がある。

 とはいえ、その中では比較的良好な部類に属する関係であるので、愛想は尽かさず済んでいる。いや、尽きてしまったら色々と終わりなのだが。

 そこは半ば忍耐、正直長ったらしい会話なんてしたくないのだが、それでも聞き飽きたような文言であったのだが。

「いつも通りですねぇ~、いやぁ、平和なもんですよ」

「そうだねえ? 退屈なのが玉にきずだけど、……ああところで最近あんたの所に猫が良く通るみたいだけど、フンとか平気なのかい?」

 一瞬ドキリとする。

 おや、今日はいつもと違う話題――様子がおかしいようだ。

「え? ああー、……そうですねえ……特には問題はありませんねえ、なにせ動物のすることですから」

「そうかい? それならまあいいんだけどさ」

「――どうかしたんですか?」

「いやねえ……つい最近テレビで見たんだけど、庭付きの家は猫が公衆トイレにしちゃうっていうから、それでつい気になっちゃって」

「へえ? そんな風に言われてるんですか? けどうちはそんなことありませんけどねえ……結構大丈夫ですよ?」

 嘘である、結構な被害に遭っている。

 庭付き戸建ての宿命で、猫のフン害はどうにも避けられないのだ。

 そこに柔らかい土があらばしたくなるのが猫の性らしく、耕したばかりの畑や花壇の柔らかい土なんかは要注意だ。しかも人家が密集していている住宅地、地面はコンクリートとアスファルトばかりで、土が剥き出しの場所が他にないので集中砲火を喰らう。

 おしっこの匂いなんてそれはもう強烈で、雨でも降らなければ軽く一、二週間は匂いがこびりついている。実弾なんてもう本当に処理にも困る。

 動物を飼わない庭持ちの家と、外に猫を放す猫飼い――ご近所付き合い上どうであれ、この二つの仲、その内心は推して知るべきである。

 ただ多くの猫がこの庭は通り道――基本、誰の縄張りでもない非武装地帯であることを理解しているのか、自己主張をせず通り過ぎるだけなのだが。

「まあ私は猫が好きなんで、どうしても贔屓目に見てしまうところもありますから……他の方がどう思っているかまではちょっと……」

 そう逃げ道を用意しておく。嘘にも本当にもならないお茶の濁し方はとても便利だ。……まあ、何事にも例外はあるのである。

 とはいえ私が猫好きという事に、ご近所さんは眼も笑わせず意外そうに、

「――あら、そうだったのかい?」

「――ええ。可愛いですから。特に雉柄の子、首輪に鈴をつけたのが家によく来て、人懐っこく撫でさせてくれて……多分どこかの飼い猫だと思うんですけど」

「ああ、その子なら知ってるよ? そこの道で子供がよく構ってる子だろう? まあ愛想が良いのよねえ?」

「そうなんですよ、物怖じもしなくて」

「その子は粗相してないの?」

「ええ、全く」

「それはただその場面に出くわしてなかっただけじゃないの?」

「もちろんその可能性はもちろんありますけど……でもそれより猫屋敷……あれが始末が悪い」

「ああ、そうねえ、そうなのよねもう。近付くだけで臭くて、ただ餌だけやって可愛がってるからしもの始末はおざなりで、隣の家には垂れ流しで……ホントもう迷惑千万で猫ちゃんたちも可哀想ったらありゃあしない」

 嘘だ、私は今――嘘を吐いた。

 可能性どころか現場を抑えたことがある。揚げてない生のカリン糖の生産直売をしようとするその瞬間を現行犯で確保した。

 お嬢さんに、せめて庭木の方に――畑ででするのは止めてくれって――

 しかし丁度、耕して土を柔らかくした後でとても生産意欲を擽られたのだろう。その場所は見事、生カリン糖の山が築かれた。

 私は丁寧にまぶされた黒砂糖という名の土ごとそれを取り除いた後、生石灰と米糠を念入りに撒いて生物的環境力を高めている。

 更にそこで炭を焚いて、危険な菌は出来るだけ滅した。が、しばらく根菜類は植えないようにするべきだろう。そうでなくとも畑の野菜は一度火を通す物しか作っていないので多分大丈夫だろうが。

 それでも所詮、動物のすることなのである。これも贔屓目、お嬢さんと仲が良いからこその見解であることも自覚しているが。

「――それでまた里親を探してるんだから、もう本当にいやんなっちゃうよ」

「ああ~、それは大変ですねぇ、上手く見つかればいいですけど」

 半ば聞き流し愛想笑いを浮かべつつ――この辺りは見解も別れるものだと思う。

 避妊手術をせず多頭飼育で里親を探すということは、結局面倒を見切れていないということなのか。それとも自然派――猫は動物なのだから、動物らしく自然に生き自然に産んで、人の社会でその手助けをしていると取るのか。

 動物を飼わない人間から見て、私はそれぞれ後先考えていないだけと取れるのだが、

「人の都合で避妊なんてさせる方が可哀想でしょう? って……まあ世話し切れてないってことはないんだけど」

 その辺り、厳密にしている人から見れば、始末が悪いのであろう。

「結局他人に迷惑を掛けなければ、ってところになるんでしょうねえ」

「そうねえ……、……今度ちょっと言ってみようかしら?」

「え、何をですか?」

「もうちょっと考えてみたら? って」

「難しいですよ、止めといた方がいいんじゃないですか?」

「そうなのよねえ……でも同じ猫飼いとしてこっちにまで非難が来るから……はぁああ」

「ああ、それもありますか……本当に大変ですねえ」

「ええ、もうホントそうなの……」

 世間話の定型文で幕を閉じるが。

 結局のところ、自分が可哀想、という一言に尽きるのだろう。

 それにしても話が長かった――あれから政治、経済、芸能と、新聞紙を興味のないところまで一通り読まされたような世間話を長々とである。。

 私にとっては本当にただそれだけ、どうしてこう独り身の年寄りは人を捕まえて延々と話をするのか。暇なのか、それしかすることがないのか。

 そしてひょっとして……私は猫フン被害者の会、その陳情書へサインを入れさせられようとしていたのでは? と思うのだが。

 怖ろしい、これがご近所付き合い、派閥争い――頼んでもいないのに勝手に所属させないで欲しい。

 私は常に、投票権を放棄し政治には不参加を表明しているのだ。



 数日後、私は家庭菜園の手入れをしていた。

「……よいしょ、と」

 植木鉢やプランターのそれではない。ちゃんとした地植えの野菜畑だ。

 農家のそれと比べれば玩具のようなもので、庭の隅に小さく八畳……周囲のあぜ道を入れても十二畳くらいだろうか? そこに畝を作り幾つかの野菜を植えている。

 雑草を抜き、刈り込んだ植木の枝葉と共に一か所に集める、そこへ無人精米機から貰える生の米糠を混ぜ、上から踏みつけておく。と、発光しボロボロに朽ち肥料になる。

 後でゴミ袋に纏めて出す必要が無いのがこれの良い所だ。

 なので前かがみで一心に草を毟る。皆名前も知らない雑草ばかり――その中で、猫じゃらしだけは残しておく。

 当然お嬢さんと遊ぶ為だ。その内、手の届く範囲が丸坊主になり腰を上げ体の向きを変えた。

「……ニャー」

「うぉ!?」

「!?」

 そこに突如として小さなモフモフが現れる。

 驚かれているところ悪いが、私の方が驚いたのだよ。

「……い、居たんですか?」

 一体いつの間に、雉柄のモフモフが背伸びをして私の腰に鼻を付けていたのか。

 それにしても全く気配がなかった。足音どころか首の鈴の音さえ――

 っていうか、あれ?

「……鈴が無い」

背中に羽織った雉柄に、四本足に履かれた白足袋――口元から胸元、そしてお腹へと抜け太腿まで掛った白エプロン――その毛並みは間違いなくお嬢さんだが――

 首輪に鈴が無い、というか首輪自体が無いのだが、 

「……お嬢さん……ですよね?」

「ニャー?」

 返事はある。だがやはり首輪と鈴が無いのである。

 顔立ち、毛皮の模様は同じ――体型、スリーサイズも多分同じであろう、首根っこが些かスリムだが。

 お嬢さんですよね? 一瞬、野良猫と見間違うが、多分間違いないと思う。

 こうして私との会話に丁寧に応じてくれているし何より私から逃げないのだ、他の猫ではこうはいかない。

「……首輪はどうしたんですか?」

「――ニャー」

 ――うん、分らない。まあとにかくお嬢さんが首輪を外していることだけは分った。

 とりあえず、

「……捨てられたんじゃ……ないですよね……」

「? ニャア?」

 不安を打ち明けるが、お嬢さんは何のその、ただ疑問げに首をかしげている。

 なにせ、飼い猫が首輪を外されるとなれば――それ以外にない。

 しかし、とりあえず撫でる。そしてその毛並みからあることを察する。

 毛並みも綺麗で艶が良い――これはしっかり良いものを食べ、綺麗な寝床がある証拠だ。

 うん、大丈夫そうですね。

 ということは衣替えかな? あの首輪も随分古くなっていたし、飼い主さんが新しいものに替え付け替えようとしたら、お嬢さんが気に入らなかったとか? ……それで古い方はもう捨ててしまって首輪自体が無いとか? ありそうである――

 それにしても、鈴が無かったからお嬢さんに気付けなかったのか。

 私は改めて猫の隠密能力を思い知るのだが、いつもそこに在る筈の首輪が無いだけで、ずいぶんと印象が違う。改めて上から下に全体像をなぞる――と。その毛並みが妙に広く感じ、どことなく野性味を感じる。

 ――ああ、毛に癖が着いているのか首回りに妙な凹みが出来ていた。

 それにしても、飼い猫のシンボルが無い――それだけで一瞬、別の猫ではないかと疑ってしまうとはいささか遺憾なものだ、あまつさえ他の猫と疑ってしまうとは。他人種の顔は判別するのが難しいというが、猫と人ではもっとなのか。

 ……ちょっと、もの悲しくなる。懇意にしている相手のそれさえ、なんて。


 まあお嬢さんは、そんなこと気にした様子も気付いた様子も無いらしく。

 いつも通り、私に挨拶をと足元にまとわりついてくる。

 当然ながら、私は女性の変化には敏感なので、もちろん褒め言葉を言わせて貰う。

「……首の風通しが良くて、気持ちよさそうですね?」

「ニャア~」

 さっそく、自由になった首周りを掻いてやる。目を細めて身を任せる姿はその開放感を気に入っている様子であるが、実際満更でもないのだろう。

 何かにつけ首を掻いて欲しがっていたから、実は結構気に入っているのかもしれない。もしかしたら、せっかく外れたそれをまた着けられては堪らないと拒否したのかな?

 それくらいに爽快な笑顔である。

「……でもちょっとだけ寂しいですね」

「ニャァ……?」

 あの鈴の音も含めて、お嬢さんというか、お嬢さんの一部であるというか。

 服飾って、魅力とは別のところで個性にも繋がっているのだと思わされる。なにせ立派な飼い猫であるお嬢さんを野良猫と勘違いしてしまう位だ。

 もし私がお嬢さんの毛皮の模様を詳細に覚えていなかったら、その顔立ちや雰囲気、表情に気を払っていなかったら――

 気付かずに、追い払っていただろうか? それとも、素知らぬ顔でぞんざいに無視していただろうか?

(……、いや……?)

 何かが心に引っ掛かる。こう、つい最近、これに連なる何かを話したような……。

 一体何だったか。

 頭を捻る――

 私の頭の中を、つい最近隣人とした会話がよぎる。


 ――ちょっと言ってみようかしら。


 

 ……。

 …………何を?


 何を、言ってみるつもりなのだろうか?

 何を、一体誰に――言うつもりなのだろうか?

 ぞくりとした。

「……まさか」

 私はお嬢さんを括目して見る。

 首輪をしていない。

 ……野良猫に、見えないことも無い……。

 まさか、そういうことなのか?

 他人様の庭を自分の猫がトイレにしている――だが、室内に飼い殺しにすることはできない、当然外でトイレを止めることも。そこでどうするか?

 愛猫の首輪を外して野良猫に偽装するだなんて。

 そんな馬鹿なことを考えられるのだろうか? 短気な隣人であれば小石を投げるどころか包丁や矢を向けかねないのだ。

 愛情ある飼い主ならむしろ家に閉じ込めておくだろう。しかし狭量で浅慮であったなら?

 はたまた飼い主さん自身の為に?

いやまさか。

 いやいやまさか――

 ……だが、そうと決まったわけではない。

 この想像は、あくまで根拠も証拠もない、ただの妄想もはなはだしいこじ付けである。しかしあの世間話をしてから数日――あまりにもタイミングが合い過ぎやしないだろうか?

 私はお嬢さんを前に頭を捻り、脳内推理劇を繰り広げる。

 これまで首輪を外した事なんてなかったのに、何故今この時外されるのか?

 最初の想像通り、首輪の付け替えで何かトラブルがあったのか?

 それとも暗愚にただ現状維持と衝突のみを避けようとしたのか――

 分らない。どれほど頭を捻っても、私は推理作家でもないし探偵でも警察でもない……私には真偽を確かめる術はないのだ。

 お嬢さんの飼い主に真相を聞こうにも誰が飼い主なのか分らない。

 その上、このことをわざわざ件の隣人に「余計なこと言った?」なんて聞いてしまったらそこでご近所トラブルだろうし、逆に「そういえばあの猫が首輪を外して来たんですよ?」なんて聞こうものなら私と同じ邪推をして憤慨しお嬢さんの飼い主さんに突撃する可能性だってある――

「……うーん」

 そもそも、本当に件の猫屋敷未満の多頭飼育家がお嬢さんの飼い主であるかどうかも謎である。結局この件に関してはもうこれ以上私はどうしていいのかもわからない。

 余計なデメリットを負う必要はない。

 しかし首輪が無い、お嬢さんに鈴が無いなんて――

「……うん、特に問題ないな」

「ニャア?」

 可愛く小首を傾げているが、分らないかな?

 だってお嬢さんが外出禁止になったわけではない――むしろそこが重要。これからもお嬢さんが来ることが重要。そしてお嬢さんが来るか来ないかは鈴以外にも定位置の確認や出現予測時刻表など他にもある。

 決して会えなくなるわけではない、保健所もわざわざ通報され無ければ猫を捕獲しに来ないだろう。

 首輪が無いだけで、今まで通り――そう、今まで通りでいいのだ。

 だから、

「……お嬢さん、これからも私のうちに来てくれますか?」

「ニャァ~」

 ニコリと微笑む彼女を撫でる。

 やはり、何も着飾らないお嬢さんもまた素晴らしいものだ。

 猫万歳、である。

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