第17話 声なき声、言葉なき言葉。

「――ミ゛ャァ゛~」


 ……お嬢さんの声がおかしい。


それは、お嬢さんが私に顎の下を許してくれた次の日のことである。

 今までは『ニャー!』という如何にも麗しくも上品な淑女を気取った声、目一杯、澄ました美声であったのだが。

 見事に濁点が着いている、これは一体どういうことか。

 風邪で喉がやられたのか、それとも酒灼けか? 

 明らかに声変わりしているのだが。

「……どうしたんですか、その声」

「……ミ゛ャア゛」

 危機い間違いかと思ったが、やはりそうではなさげである。

 風邪の症状が喉に出ているのか――ただ、どことなく、気品とは別のお淑やかさというか、いや、思わず親心や庇護欲がくすぐられるか弱さを感じさせる。

 声と同じくその表情まで、どこか儚げな、まるで子供返りしているような気さえする。

 内気な女の子が、精一杯勇気を出しているというか、怯えながら、甘えて、縋って、素顔を曝け出しているような……。

「……熱は平熱……かな?」

「――ミャァ゛ァ゛……」

 断らずに指先で毛の中をまさぐり昨日までの体温と比べる。

 特に異常は見られない。それから改めて顔の前に指先を差し出すと、匂いを嗅ぐまでもなく頬をすり寄せ気持ち良さげに目を細める。

「……ミャァ」

 甘えている? それもかなり、遠慮しがちに?

 いつもは堂々と、我が物顔で、私の方がそのご機嫌を窺っているのに、なんだか今日は彼女の方が私の様子を窺っているようである。

 それも潤んだ瞳で上目遣いすらし『――優しくして?』と言わんばかりの視線で。

 お嬢さんの素顔、まるで女の子の一番弱い部分を見せられているような。

 期待と不安がない交ぜになった、なんとも言えなく儚げな顔である。

 親猫なら一発で頬を舐めて上げるような……? 丁度、赤ちゃん猫がこんな声だったような?

 一体彼女の中で何が起こっているのか……。

 分らない、分らないが――

「……とりあえず、上がりますか?」

「……ミ゛ャ~」

 立ち話も何なのでと、居間の掃き出し窓から離れ、道を開ける。

 ……お邪魔します。

 と。何故だか躊躇ためらうように、一度視線で沓脱から一段上がった敷居をみつめる。

 いつもなら、即座に足元を駆け抜けるようさっと侵入するのだが……。

 まるで、人の礼儀作法を気にするように、そっと、音を立てずに丁寧に足裏を運び、そして靴を整えるよう窓枠の横に腰を下ろした。

 そして、私が窓を閉めてから、先に行くのを待つように、立ち止まって私の顔を見上げて来る。

「……どうしちゃったんですか?」

「……」

 遠慮の塊のような仕草――これを殊勝と呼ぶべきか、遜った態度、一線を引かれたというべきか、厳格な貞淑さというべきか、畏縮というべきか……。

 その契機は何か、と言われれば、心当たりは先日の顎撫でしかない。


 私が手を伸ばすと、またしずしずとそれを受け入れ、耳裏を掻かせながら首を垂れている。……いやに大人しく。これまで、隙あらば爪と牙をお見舞いしてやる――そんな野性を毛皮の下に感じていたのだが。

 何故なのか――そんな態度に私が罪悪感を感じてしまうのは。

 行き過ぎた従順な態度、それはまるで虐待か、それ以上にひどいことをしてしまったかのようだ。これではまるで、夫の横暴という毒牙に泣き寝入りをする新妻のようではないか。

 猫の顎下ってそんな越えてはならない一線だったのか? だとしたらすまない――そんなつもりはなかったんだ。

「……」

「……」

 ――責任、取った方がいいんですか? そんな冗談も通じ無さそうな、無言。

 とりあえずと、私はお嬢さんの先を行く。

 手を取れればいいのだが、何分身長差が酷いのでそんなことはできない。

 お嬢さんは恭しく手を重ねたよう、慎ましくも貞淑な足取りでそっと後を付いてくる。

 三歩下がって師の影を踏まず――もしくは、粛々と付き添う妻のような。

 何だこの罪悪感は。これは本当にお嬢さんなのか? あの自由奔放に我が物顔で我が家を歩き回る肝っ玉淑女はどこへ行った。おまえ男に尻尾を振るタイプじゃないだろう?

 それともなにか? ――本当は意外と尽くす内気で奥手な女性なのか?

 そこはかとなく、緊張と恥じらいを感じるぎこちない距離感――生まれて初めての初デートのような、嬉しいというよりむしろ怖さがあふれ出て来る。


 疑惑が今ここにある。

 自分が何かとんでもないことをしてしまったのではないかと。

 自覚のない虐待、性の暴力――謂れのない隷属と屈服。猫と人の間にも、それはあるのか――

 

 ……とりあえず出来るだけ優しくしようと。


 私は階段下に腰掛け、対話を試みる。

 といっても、言葉と言葉ではなく、体と体の会話だ。

 いつも通り、指先でその心を探る。

「――ミ゛ャァ」

 しゃがんだ膝に顔をスリスリして来たので、私はその耳裏を掻いた。するとやはり気持ち良さげに、しかし遠慮がち――いや、従順に身を任せて来る。

 全幅の信頼と、馴染み切った慣れと、以前よりも寄り掛かるようなそれ――

 心を無にして私の手に顔を添えて来ていた。

 これは――なんなのだろうか?

 会話をすることも必要ない、機嫌と気分を窺うなどもってのほか、無粋、になるような、無駄も無益も有益も省いたような――?

 それは、

「……気持ちいいですか?」

「……」

 形骸でしかない問い掛けに、お嬢さんはやはり答えず、いつぞやのよう尻尾ですら動かさない。

 じっとしている、やがて私は自然に指を離し、お嬢さんの往くままにさせた。

 手の平を枕にし、横になり、起きて、家の中をなんとも言えず散策する。

 立ち止まってそこ此処の匂いを嗅ぎ、歩き心地を確かめ家具に顔を寄せ、お互い無言で互いの行動に寄り添い合った。

 なんとなく、長年連れ添い続けた夫婦になった気分――

 しかし、やはりこれは何かが違うと思った。

 これは私達にはまだ早い――

 まだまだ、楽しいことも悲しいことも、複雑な事も苦労も、いっぱいあるだろう。

 こういう関係は、それが通り過ぎてからでも良いのではなかろうか? ……そういう方が無粋なのかもしれないが。

 ただ、お嬢さんは本当は随分と寂しがり屋なのかもしれなかった。こうして、心や、生き様の在り方まで任せてしまうような、それは本当に信頼したからこそでもあるのだろうが。

 猫はもっと自立して、自由で、独立した生き物だと思っていた。しかし案外、私達人間と変わらないくらい、いや、それ以上に寂しがりで頼りない生き物なのかもしれない。

 放っておいても逞しく生きれるような、太々しいまでの野性ではないのか。人と暮らすうちにそうなってしまったのか。

 なんとなく……色々あった今までが楽し過ぎたのかもしれないが、私はそれに魅力を感じることはなかった。

 身勝手だが、それをどうお嬢さんに伝えればいいのか、伝えられるのか……。

 私は、お嬢さんの体を指一つで撫で梳きながら悩んだ挙句――これまでのそれを思い出して、

「……いままでのお嬢さんも、とても素敵でしたよ?」

 分っているのか、いないのか。

 私はお嬢さんに、相手が猫なのに、動物なのに、言って聞かせる。

「お嬢さんは、無理せず、お嬢さんらしくしていてくださいね? ……もちろん、こんなお嬢さんも、とても可愛らしいですが……」

耳がぴくぴくと跳ねる。

 聞こえているのかいないのか。

 しばらくして、尻尾がゆらりと床を撫でた。

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