第16話 謎の音。
お嬢さんが、甘々である。
頬を摺り寄せ、ニッコリ目尻をしっとりしならせ微笑み座っている。
私の手を、この上なく気持ち良さげにしている。
最近、しばしば手の平を枕に、その場で横になりゴロ寝することが増えていた。
きっと春という季節もあるのだろう、心地いい暖かな空気に適度にひんやりした床は、毛皮の生き物にとってとても気持ちいいのかもしれない。
しかし壁を一つ越えたというか、気の置けない仲、だらしない所を遠慮なく曝し合える仲になったというか、お嬢さんの中に、私という存在が大きく占める余地があるというか。
手が好きなの? 私が好きなの? と、野暮なことを考えてしまいそうになる。
それはさておき、
(――これは、そろそろ行けるのでは?)
と、思う。――何が? それはもちろん、これまで禁じされていた行為だ。
お嬢さんの顎下――禁断の未到達区域に、私は満を持して触れようと思うのである。
顎の下から、首輪、そして前足の脇と脇の間で結ぶ、いかにもふよんふよんのお肉。
聖なる三角形。そこは一体、どのような感触なのだろうか?
お嬢さんが頑なに隠そうというそのモフモフとした毛並み――そこを掻いた瞬間、私はどこへいってしまうのだろうか?
お嬢さんはいったい、どんな様相を呈してくれるのだろうか?
これまで触れることは出来なかったその場所へ――
いざ、往かん!
……まあ嫌そうなら即時撤収するつもりである。
やはり無理強いは良くない。こんな甘えてくれるようになったのだ、そこが猫に限らず生物的な急所、骨格、筋肉でも守りようのない場所だからなのだろうが。このままでも十分であると思うがセクハラはよくない。
だが好奇心には勝てない。いや、これは最近お嬢さんが可愛過ぎるのが悪いのだ。
手の平が気持ち良くて寝ちゃった――という奇跡を披露したお嬢さんが悪い、ああ悪いのだ。私という男の前でそんな媚態を晒しまくるのが悪い、悪いったら悪い。
というわけで、今日も首を垂れ目をニッコリ細めている彼女の耳裏をコリコリとしているところから、ふわりとした頬毛へ――
さり気なく、指先を移動する……ああ、君が自分からそんなところを触らせなければ私とてこんな欲を覚えなかったのだよ? この辺りは毛並みが特にふわふわとして、指を埋め甲斐がある。
焦るな、まだ、まだだ、お嬢さんが私の真意に気付かないように丁寧に丁寧にその頬肉をマッサージするのだ。
指先で、カリカリ、カリカリ……目尻が気持ち良さげに弧を描いてきた。
隙だらけじゃないか、私の事を疑わなくていいのかい? かつてあれだけ無体を働いてきたのだぞ?
ニンマリ、ゆらゆら、ゆらゆらと、私の指に揺られて。完全に目元が緩み、
……そこでしばらく指先を留め、さらにお嬢さんの幸せの温度を上げていく。
次第に、お嬢さん自身が秘めやかに揺れて来た。頬を上下に擦らせ、自ら自身の良い所に指を当てさせようとして来る。
だが駄目だ――これが進行するとまた手を枕にしてお昼寝タイムに突入してしまう。
放っておいたら小一時間、寝返りも打たずに本当に寝続けてしまうのだ。
そうなれば私はトイレにも行けず、そして何より床と頬に手が挟まれ、それ以上動けなくなってしまうのだ。
そうなる前に――
――かりかり、かりかり……、
頬の稜線を、その下弦部分へ、更に下へ、ついに顎の下へと指先が侵入する。
ここから先、体の中心線を下に移動すれば、喉仏へと至る。
先程、目指しているのは顎下と言ったが、お嬢さんが本当に拒んでいるのは顎下の顎下――喉の最も柔らかい所から、ちょっとフェチズム漂う首元らへん。普段よく見る首輪の背中、その裏側辺りから胸元の上までである。
お嬢さんが何故だか嫌がる? 怖がる? 恥ずかしがる。
その直前、私は顎下をカリカリとモフする。
あ、いい、そこ、イイ――とまたニッコリ笑顔で、垂らしていた首を今度はピンと反らし、鼻先を上へと向ける。ご満悦の様子なので両手で、親指を抜いた八本指で両サイドからもふ、もふ、もふ、とゆっくりさわさわとしてあげる。
――いいじゃない、これ、とても悪くないわ?
と、目尻がもうタランと堕ちまくりである。そこですっと顎の下へ片手を移動させた。
あっ、と小さく声を上げたよう、刹那顎が下がろうとする。が――
片手でモフモフを継続しやんわり顎クイ、強制的に天国へと向かわせる。綺麗にそろえた前足が、振り上げられるのか――振り上げられないのかピクピクと動いた。
……気持ち良くて、動けない……! そんな感じ。
私はすっと顎の下、喉の最も柔らかい部分から胸元への聖域へ、指を入れた。
ピクリと体が震える、しかし抵抗はない。
教育的指導は見られない、それどころか、すごく気持ち良さそうに眉間が広がり目尻が堕ち、口元がニヤケて上へ吊り上がっていく。
こんなにダラしない顔――お昼寝中ですら見られない。
――いける。
確信し顎下を、喉を、撫でさせて貰う。
私は獲物に気取られぬよう、彼女が嫌という前にそこへ指を滑り込ませた。
再度、ぁっ、と身を強張らせるがもう遅い。和柄の鈴を下げた首輪――それと指一本で器用に
感触が指先に伝わって来る。お腹のタプタプとはまた違う、固めに張った布地のようなたるみと伸び縮みする毛皮の触感――懸命に、空を仰ぎ、ピンと伸ばしていた顎が、重力に屈し下へ下へ、その顎下を掻く私の指先へと落ちて来る。そこに更に体重を掛け自ら私の指に肉を埋め込むよう重さを掛けて。
……私は今、猫の顎下を触っている……!
感動した。比較するならお腹の方がぷにぷに感が富む、密度と弾力が強い。だがこちらは水が絶えず滴り落ち絡みついてくるかのように、たぷん、モフンと指先を追い掛けて来る。それはなんとも言えない波打ち具合である。
……このすばらしい毛並みに、感謝を。
とりあえず、モフモフ、モフモフ。
いつのまにか、お嬢さんは足裏だけを着けた伏せの姿勢になっている。
前足も綺麗にちょこんとそろえてこれも可愛いものだ。
とはいえこれ以上馴れ馴れしくするのもいけないと思い、そろそろとお嬢さんが教育的指導に入る前に指を離そうとした。
――ゴロゴロゴロゴロ。
奇怪な音がした。
そこ以外あり得ないので迷う筈もないのだが、耳を疑うくらい謎の音が。
ゴロゴロゴロ。
お嬢さんから――もっと正確に言うならそのお腹から? いや、全身から?
ゴロゴロゴロ。
私の指先の間近から?
「……お、おお?」
なんだ、この変な音は。
もう何か既に手遅れだったのか?
顎下マッサージを終わりにしようと思ったのだが、今も尚継続されるそこの按摩に呼応するよう――ゴロゴロゴロゴロと。
銅鍋を擂り粉木で撫でているような音がする。もう少し詳細に言うなら、クココココココ、とドロロロロ、を混ぜたような丁度中間くらいの音だ。
とても猫の体から出ているとは思えない。無機質感漂うなにか。
鳴き声ではなく、唸り声でもない、空腹で腹が鳴る音ともいえない。
口でも喉でも腹でもない、あえて言うならその全ての中間というような。
絶妙に、どこから出しているのか分らない音である。体全体を楽器に? 骨と皮を震わせ出している音のような……。
まるで、猫の形をしたスピーカーだ。
お嬢さんは、それを縁台の日溜まりで寝るときよりニンマリとした顔で……そう言えば、猫が本当に心を許した相手にそんな鳴き声を出すと聞いた気がするが……。
もしかして、これがそうなのだろうか? ……しかし、
――ゴロゴロゴロ~、と。
この奇怪さはむしろ怪現象なのだが、本当に親愛の証なのか? お化け屋敷のヒュ~、ドロドロドロ~に近いのだが。
女の子が心を許した瞬間って、もっと可愛い音がするのではなかろうか? キュンとかズキュン、ぽわわわわ~、ふわっ、なんて、如何にも情緒的でありつつ情動的な、お花が咲いて風が吹くような彩りでは?
しかし現実は、
――ゴロゴロゴロ。
こんな奇怪な
「……お嬢さん、貴女のお腹の中、一体どうなっているんですか?」
気持ち良さげに眼を閉じ、横にした瓢箪が前足をちょこんと伏せ、口元までご満悦である……これは本当に喜んでいるのであろうか?
――ゴロゴロゴロと。
口元と目尻が描く幸せの放物線からはYesが読み取れるのだが。
気にせず、お嬢さんは私の指に奏でられるままに奇怪な音をその周囲に漂わせている。
猫の顎下――それは最高の笑顔と信頼が提供する猫のベストスマイル。
その筈なのに、返って来たのは純粋に不思議、不可思議な親愛表現――感動を上回る、未知との遭遇を私に齎すトワイライト・ゾーンが待っていたのだ。
その感想は、正直、
「……微妙……」
しいて言うなら残念な生き物というか。
お嬢さん、あなた……本当に化け猫なんじゃないですか?
そんな疑惑が持ち上がるのだが、私はお嬢さんの笑顔に口を噤むことにしたのだ。
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