第15話 ――重力に落ちる。引力に惹かれる。

 最近、お嬢さんが綺麗になった。

 いや、大人になったというべきか。出会ってからもうどれほどの月日が過ぎたのだろうか――当時中学生くらいであったお嬢さんも今では見た目二十歳前後――もう立派な成猫の風貌である。

 ふっくらと、肉づきを収めた臀部の曲線、しゃなりしゃなりと醸し出す静かな足運びは貞淑な女が意図せず振り撒く色気のようだ。きちんと毛繕いをしているのだろう煌びやかな毛並みも、最近、富に美しい輝きを放ち、その背筋は艶やかに、しっとりと濡れそぼつ花のような危うさである。

 美人ならぬ美猫の爆誕――生来の小柄さが垣間見えるものの、物静かな礼儀正しい和風淑女(猫)である。

 ……まあ、これも惚れた弱みというべきか。

 多分余人から見ればその辺に居る普通の猫だろう、私がこの娘の事を気に入っているから一際特別に見えてしまうのだ。だからって如何わしいことはしていない――え? 何がイカガワシイかって?高級なおやつを上げたり、彼女の保護者より贅沢をさせたりなんなり、そう、いわゆる援助交際だよ。

 猫でもあるだろう? そんな、物欲を利用した相互関係に見せた、尊厳の破戒が。

 贅沢を餌に芸を覚えさせ媚びを売らせ、その心と体をモノにする……史上まれに見る下劣な好意だ。

 誇張があることは認めよう、だがこれまで私が彼女を物で釣ったことは一度も無い。全てこの指先一つで勝ち取った圧倒的信頼というものだ。私はお嬢さんの良い所を探し、爪先でくすぐるよう掻き上げ癒し、かわりにお嬢さんはその柔らかな肢体で私を癒してくれる。それも極まると彼女は私の目の前でその体を横たえ、股を開き、毛繕いをしては、その身を激しくうねらせ、そして理性を投げ捨て私の体に爪と牙を突き立てるのだ――

 嘘は言っていない。

 

 ただ、以前は明確な挨拶――礼儀作法的なコミュニケーションであったそれが、最近明白に変わりつつあった。

 

 今日も家に上げ、私は階段に腰掛け、お嬢さんは私の足元に佇む。

 その前に、その脇にある家の柱に耳後ろを擦り付け、顎を擦り付け、

「――ここですか?」

 私はふんだんにサービスする。最近、実はそれは縄張りの主張マーキングであることも知ったのだが、それはさておき私達の間ではお触りタイムの合図なので。

 

 耳裏から首輪周りをカリカリカリ――

 いや、もはや正直条件反射でカリカリカリと――してしまっている。

 そんなつもりじゃないのに、という気配がお嬢さんからしていたのも薄っすら気付いていたが、お互い、そんな勘違いを良しとしていた。

 

 お嬢さんも分ったもので、快く耳裏を差し出し私に身を預けて来る。それもグイグイ、グイグイ――顔全体を熱烈に手の平に押し付けるほど甘え倒してくる。

 以前は、本当にお情けで触らせていたのだろう、それ程心地良いものでもなく、本当に義務的に儀礼的にそれをこなしていたのかもしれない。そわそわとした落ち着かなさ――いつでも離れられるよう気を抜かずに、心のどこかで眼を据えていたのかもしれない。

 しかし今は、穏やかに、本当に気持ちよさそうに目から口元までしならせて、心を許してくれているのが伝わってくる、猫のニッコリ幸せ顔だ。

 

 触れるだけで牙を剥き、爪を立てる手厳しさ……清廉潔白、貞潔を旨としたお嬢さんはどこへ行ったのか。

 

 手を離すと、物足りなげに、私の手の平を見つめて来る。

 だが、こんな駄々甘なお嬢さんもとても良いものだ。

 そこで快く、いつも通り丁寧に優しく耳裏から掻き直す……。

 すると、お嬢さんは強く強く……私の手の平へと顔を摺り寄せそこで上下させてきた。

 掻く圧力が足りないのか、グイグイ来る。それとも気持ちいい場所へ自分で調整しているのか、指先が耳裏から横顔を経て、真下を向いた頬の下へと髭と頬骨に引っ掻けられ移動させられ、上から下へ、手の平を押さえつけるよう徐々に徐々に首が傾いた。

 毛むくじゃらの小顔を――私の手の平の中へ埋没させ――そこでさらに上から下へ、横へ横へ私の手の平へ押しこくり、頬擦りし、また顔を上下に動かした。既に手に当っていない方のヒゲが垂直に天に向いているのに、もうそれ以上押さえつけても仕方がないという程顔を押し付け更に下に――

 もうそこには床しかない、手の平を挟んで、顔を床に――

「おっ、おっ――おいこら」

 寝転がり、遂には全体重を掛けどっこいしょとそこに腰を下ろした。

「……、――スゥ、……すぅ……」

 寝ている。

 そして寝ている。

「……、――えええっ?」

 一応、気を遣って小声で叫んだ。もう完全に睡眠中である。すやすやと寝息を立て胸が上下している。

 私の手の平は、お嬢さんの枕にされ、気付いた時には床との間に敷かれていた。

 お気に入りのクッションかな? 既に寝込み胸の辺りを大きく上下させている。尻に敷かれるのとどちらがマシか。

 そのフカフカの横顔が、気持ち良さげに眼を細め、私の手の平に載っている。

 →、↑ ↗ →、 ↓↑ ↓↑ → ← →。と何かが入力された感があるが。

 寝ている、完全に寝ている。前足も後足も丸く投げ出してつの字になり、固い板張りの廊下にも拘わらず非常に心地良さげに寝息を立てている。

 こんなに早く、そして唐突に――

 私の手の平が――押し倒された。うっかり男の部屋に入り仲良くしていた女子が、会話の最中唐突に押し倒されたようだ。

 私が押し倒されたのだ。私は混乱している。

 日溜まりでもないのに。私の手の平なんかをそんなに心地良さげにして……。

「……お嬢さん? ……お嬢さん?」

 私は再度、既に寝ているそれに気を遣い小声で確かめる。

 起きて欲しいのではない、寝かせて上げたいのではない――ただただその可愛さを確認したい。そしてその通りに、

「おお……本当に寝てる……」

 熟睡している。私の声に起きる様子も無く、また、寝返りを打つ気配さえない。

 完全にご就寝のようだ。まるで魔法に掛けられたような眠りに落ちてしまった。私の手があまりに気持ち良くて? 寝てしまった?

 悪い――悪い顔をしてしまいそうになる。

 これはいけない、私は常に真摯で、そして礼節を弁えた紳士でなくてはいけない。悪徳風俗業の支配人の様な顔をしてはいけない。

 だが今ここにカメラが無いことだけが悔やまれる。携帯端末の類は重いから家の中では常に服のポケットに入れないようにしているのだ。くそ、その所為でこんな革新的な可愛い瞬間を収められないなんて――一生の不覚である。可愛く、あざとく――そしてなんて可愛いのか。思わず気持ち悪いくらいニヤけてしまいそうでいやもうニヤけていた。

「……フゥ」

 ――邪念を捨てた。

 身勝手な欲を捨て、悟りを開いた。そのついでで、階段に腰掛け座ったままの前かがみの姿勢が疲れていたので出来る範囲で腰を伸ばす。


 微妙に姿勢がツライ、せめてもう一段下に座っていたら肩の位置が低くこんな前屈みにならずに済んだのだが。

 ――この笑顔、守りたい。

 でももう一度だけ、

「…………ちょっと……お嬢さん?」

 ちょんちょん、ちょんちょん、と、お嬢さんの枕にされた手の平、その指で下からニンマリ幸せ顔を縦に揺する、腰が切実なのである。

 だが動かない、ふニャけた顔でくたりとしたままだ。

 安眠、熟睡、爆睡の域であろう。ここまで唐突にそして完璧に眠るのか。

 猫の睡眠機能を甘く見ていた、日溜まりの縁側に敷かれた布団にどっしり腰を据えていたならともかく、こんななんの予兆も無くコテンと寝てしまうなんて。そんなに私の指先が気持ち良かったのか。

 感動――何かをやり遂げたようなそんな達成感。

 礼儀に五月蠅い女が、自分の腕の中で寝ている、そんな悦び。

 だがしかし腰がツライ、私は廊下の時計を見た。玄関の横、靴箱の上にそれは置かれている。それ程の時間は経っていない、出来るならこのまま寝かせて上げたいと思うのだが。

 ――腰が、もう痛い――。階段に座りながらの長時間の前屈みは本当にツライ、柔軟体操の前屈を中途半端な角度で延々とし続けているようだ、しかも片手を差し出し傾いている所為でまた変に右がぷるぷるしている。手の平をそのまま床に腰を下ろせばいいのだが、運悪く丁度階段の出口そのど真ん中でお嬢さんが横に寝そべりそこを占拠してしまっているため、体を滑らせるだけの空間が無い――

「……うっ……ッ」

 このままではマニアックな部位の筋肉痛になってしまう、何故このタイミングでこんなカワイイところを見せられねばならんのか。

「……お嬢さん……起きて? ――お願い、起きて!?」

 されど小声で。もう背に腹は代えられない私はまさに二律背反お嬢さんを下から指でクイクイと優しく揺らす――

 もふもふ、もふもふ、と手の中で毛皮の反発力が気持ちいい。いやそうじゃない、ゆさゆさと優しく揺られ、お嬢さんは更にほっこり気持ち良さげに目を細めている。いや、そうじゃない――私の手はそういうマッサージ機じゃないのだが!?

 もうひたすら腰が辛い――限界が来たところであっさりそっと顔を床に降ろした。そしてその上を跨いで早急に柔軟体操の残り半分をこなした。

 後ろに思いきり仰け反る……思い切り息を吐く。危なかった、意味のない限界を越えそうになった、健康は保たれた。

 そしてこれだけの事が起きながら、見れば猫はまだ寝ている。

 もう床か手の平かなんて関係なかった――寝たいから寝ている。

 だがややあってひんやりと固い床の感触に気付いたのか、あれだけ深く眠っていたのにあっさり目を開け、ゆっくりパチリとまばたきしている。

 首を起こし、顔を上げ、上半身を起こしスフィンクスの姿勢――

 ピクピクと、綺麗な耳を動かす。それからどこか億劫気に四本足で立ち上がり左右に周囲を見回した。『……ここはどこ? 私、寝ちゃったの?』とでも言いたげであるが、まるで私の手の平を占拠したことを忘れているようだ。強引に押し倒した側がしていいリアクションではなかろう。

 そして、まるで何事も無かったかのようにスタスタ廊下を歩き出す。

 あの引力は、地球のそれだとでもいうのかい?

「まったく……」

 寝るのが大好きなのか、はたまた、私の手の事が大好きなのか。

 この謎は、永遠に謎のままにしておこう……。


 ただ、これ以降お嬢さんは、この家の中でパタり、パタリと所構わず唐突に眠り私を驚かせるようになるのだが――

 それはまた、別の話である。きっと。

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