第11話 誰が為、何の為、そのソファー、
最近、よくお嬢さんがやって来る。
本当にこの家が気に入ったのか、足繁く通い詰め中で存分にくつろいでいる。
猫は人ではなく家に憑くというが、何が楽しいのか、代わり映えのしない家具と間取りのそこをニャーニャーニャーニャーと、なんとも楽し気に内見している。
いつ来ても、そして何度来てもその反応は変わらない。
大変好評を頂けているようすであるが。
物件好きの感覚が無い、私の場合、お嬢さんが喜んでいることが嬉しいのだが。他人が我が家を褒めてもそんな感覚は味わえはしなかった。
私にとって、家は、寝る場所で、暇をつぶすもので、それ以外意味が存在していなかった。ある意味で猫より猫のようであるが、この光景を見ているとそんな私よりも逆にお嬢さんの方がよほど人間的であるような気がする。
とはいえ、こうも通い詰めると家の中でも好みの場所が出てくるようだ。
居間の絨毯、南の屋根の上、廊下、階段の出口、旅館のあのスペースっぽい客間の広い縁側――
お嬢さんはやはり、陽当たりと、風通しの良い場所が好きらしい。その割に狭い場所も好むようでたまに本棚の空きスペースを占拠する。
そしてここ最近は、東の応接間が気になるご様子だ。
足繁く辺りを見回し、空気やら陽射しの透明感などを窓辺で確かめておられる。
ここは午後の陽射しが緩く、反対に午前のそれが存分に差し込み――人の生活サイクルで一番いい温度循環になるのだが、他にはない特徴としてこの部屋は洋風な調度品を多く重用している。どっしりとした革張りのソファーがL字に一対でテーブルを囲み、洋酒の小瓶が棚に飾られ、ボトルシップがその上を泳ぎワイングラスとティーカップに古めかしい洋人形が並べられている。
白のレースカーテンに蘭から緑の観葉植物まで全て洋モノだ。きらきら、ゆらゆら、猫心をくすぐる配置、そこ此処からそこ此処ににちょっと飛び乗れる高さ――
だが、その中でも特に黒の革張りのソファーが彼女の心を擽るのか――何度かその前で立ち止まり、ふと山頂を望むよう仰け反るようその上を見上げる。
ああ、君の想像通りだとも。そのソファーはとてつもなく座り心地が良い。
分厚く、適度な硬さと柔らかさ――この家の中で一番高級な家具だ。
お眼が高い、何せ客を
美味しい料理と一緒だ、まず目で見て楽しみ、手で持って鼻で嗅ぎ、そして舌で味わう。五感を一つずつ刺激し、研ぎ澄まされたそれを最後に一まとめする、その重厚的感覚はその期待感ごと隅々まで味わるだろう。昼寝に一家言あるのだろう? 分っているよ。君たち猫は昼寝の達人だ。
さあ、今日はよくその吟味をしてくれたまえ――
というわけで、お嬢さんはソファーの前に腰を下ろし、念入りに革張りのソファーに熱視線を注いでいる。
厚く、そして分厚い、その土台となる古木のようどっしりとした枠組みと骨太の足。
必要最小限に絞られた細工も、格調高く、昂揚感を与え、しかし心を落ち着かせる色使いは、どっしりとした家を想像させるかもしれない。一度そこにすわれば優しく腰を押し返し、背中を預ければそっと背筋を支え、そして体で寝そべれば、ふわりと静かな夢の世界へ
さあ、その黒い断崖絶壁、彼女から見れば大きな段の付いた山に見えるかもしれないその全てが柔らかな生地とクッションで出来ているのである。もうそのどこで寝ても、存分に足を伸ばせ両手を上に伸ばしてそれでも余裕が出来るであろう。
広々とした空間――その全てが君の自由だ。それを綺麗に前足を揃えて、妙に行儀よくピンと背筋を伸ばして見つめている。
やがて下から上に――上から下に、視線を行き来させ、そして一歩前に出た。
飛び乗るのか――しかしそれにしては近い、人の足でふくらはぎが当たる位置まで厚い革とクッションを、首を伸ばして目を凝らし始める。
まるで、芸術品の査定をする鑑定士のようである。
これは良いものですか? それとも贋作ですか?
また一歩近づき、そしてまた腰を下ろし、またまたじっくりと凝視する。
思った以上に厳粛に、そして厳格な品定めである。
これは高額査定が出るのであろうか?
そしてお嬢さんはややあっておもむろに――
カプッ! と。
首を伸ばし一気に、え?
「――おっ、ちょコラッ!」
「ニャー!?」
止めなかったでしょう?! とでも文句を言っている様子だが、
「まさかそんなことするとは思わなかったんですよ?」
「――ニャーッ?! ニャアア!」
だって仕方ないでしょう!? 噛みたくなっちゃうんだから! と言っているような気がする。
まあ悪意も悪戯心も無かったことは分かる、それくらい唐突だった。それはもう引力に抗えず崖から手を離したどころかそこを蹴って真っ逆さまに海面へ矢のようダイブするような瞬発力と爆発力だった。
寝顔を見ていたら我慢できずにキスした――なんてロマンスなら良かったのだが。軽自動車は疎か普通車もかくや高級車の中等級くらいのお値段はするソファーに、細い牙が歯型で突如ぶっ刺さったのだ。温厚な私とて冷静ではいられない正直、心が引き攣っている。
怒っていいのか啼いていいのか笑うしかないのか。
まあ許すしかないのだが、
「……分ってるんでしょう?」
それでも今後の私達の為に、制裁という名のけじめは必要だ。お嬢さんも、悪いことをしたって分っているのだ。だって、私に気勢を吐きながら明らかに及び腰で、尻尾は既に丸まり逃げ道を探し尻が後ずさりしているだろう?
どうみても自覚している。この犯罪者、自分の罪を自覚している。
大人しくお縄に就くがいい、白州と大岡裁きが君を待っているよ?
というわけで、私が一歩彼女に踏み出す、と、猫はさっと駆け出しまっすぐ玄関へと飛んで行った。
ハハハ、ひき逃げかな? まるで飲酒運転のドツボじゃあないか。
こうして罪状が増えたわけだが、既にその姿は私の視界には無い、いつも以上に颯爽としたお帰りだった。
しかし――そう上手くいかないことは私には分かっている。
「ふふふ……逃げられませんよ~?」
「……ッ! ……ッ!?」
だからゆっくり、あえて見送るようその背中を追い掛けた。
何故ならば、
「でしょうねえ……」
想像するまでも無く、お嬢さんは止まっていた。
戸口で固まり、たじろいでいる。だって、玄関戸が閉まっているから。
鍵は掛っていない、しかし、嵌め殺しの擦りガラスを何枚も抱えたその戸口は、ちいさな猫風情の前足の脚力にはあまりにも酷だ。
当然、彼女が爪で引っ掛けても、その細腕ではこの引き戸は微動だにしない。
だからいつも私が開けている。決してお嬢さんの怠慢でも高慢ちきな態度でも「スプーンより重いものなんて持てませんわよ?」なんて育ちの良さの所為でもない。
だが敢えて云うなら、お嬢さんがお嬢さんであることがいけないのだ。
……可愛過ぎたのだ。ついつい、こう、甘やかしたくなるくらいに?
まあ、そんな風に、何でも甘えて許されてきたツケが来たのである。
人を怒らせると怖いと知っていれば、そんな暴挙には出なかっただろう、物を壊すと酷い目に合うと身に染みていれば、決して本能が理性を凌駕することなんてなかっただろう。
さあ、年貢の納め時だ。高すぎる壁は決して越えられず、重すぎる引き戸は決して開かれることはない、それを前に引き攣った背中で硬直している猫一匹――
その背後に迫る私である、もちろんこれでもかと濃厚な笑みを浮かべて、下からライトを照らしたよう闇も
裸足でひたひたと近付く、それに気付き、お嬢さんはハッと振り返った。ふふふ、どこに逃げるつもりだい? 踵を返し右往左往して、足元をすり抜けるつもりかな?
その顔は見るからに恐怖に彩られてベタなホラー映画のヒロインのようである。
それも明らかに主役ではなく――最初の犠牲者になるリアクション女優だ。
「……さあ~て、どうしてくれようかなあ……」
ズーンズン、ズーンズン、一歩一歩スローモーション気味に、巨人が重々しくその図体を動かすような演出をして足裏を落していく。
すると明らかに、わたわたとし始めた。
うん可愛い――右に左に逃げ道を探し、忙しなく視線を動かす。
私は両手を大きく広げ、そのどちらも塞ぎつつゆっくりと影で迫る。お嬢さんは口も半開きで悲鳴も上げられないよう目を丸くした。
さあ――このまま何をされてしまうのだろうか? 無理やりモフモフされ玩ばれるのか、それおとも禿げるまでモフモフされてしまうのだろうか? 不安なご様子だが、
しかし最後まで抵抗する覚悟を決めたよう、瞼に力を籠め意を決して、恐怖に抗いいつでも走り出せるよう後足に力を籠め前傾姿勢になり――
悪魔の影が、お嬢さんに覆い被さる姿勢を取った。そこでやっぱり二、三歩仰け反りながら耳を伏せ後退った。
そして、
「……もう怒ってないですよ?」
と、とうとう、崖に飛び込むしかなくなったサスペンス劇場の犯人に、刑事役はそっと手を差し伸べた。
割といつもの様に、人差し指を曲げてお嬢さんの鼻先へと置いてある。
もちろんこれまで通りニコニコと笑う私に、お嬢さんは疑惑の眼差しを向けてくる。
まあつい先程まで、完全にお縄に就くのはこっちだった。
それくらいベタに正体不明の猟奇殺人犯のムーブをしていた。
戸惑いながらもその匂いを懐疑的に嗅ぎ――そして若干ぎこちなく、こちらを
本当に怒ってないの? と、おかしなことをしたら噛むわよ? と若干上から目線のつぶらな瞳が見つめて来る。
それに私は軽い溜息一つ、
「――まあ小さな穴は開きましたね? けど、
純粋な子供のすることに目くじらを立ててはいけない。彼、彼女らは、これから過ちを学んで心を正しく成長させていかなければいけないのだ。
猫だって一緒だ。それにこのお嬢さんは随分と利発だ。
台所で調理台に上がってはいけないこともすぐ理解したし、畳や絨毯でバリバリ爪とぎしないことも分ってくれた。
それと同じだ。猫は存外、人の敷くルールを理解し、共存の仕方を学んでくれる。
だから大目に見る……私が許そうとしていることを表情から理解したのか。
これまで言い訳をしたことや、真っ先に逃げたことも含めてか、お嬢さんは俯きがちに視線を下げた。本当に可笑しなくらい賢い猫だ。まるで人の言葉の一言一句節々まで理解しているようだ。
だがなにより――優しい子のようである。
でなければ、人の怒った理由などに本当は気遣いやしないだろう。
だからこそ、完全に委縮している。
(……さっきのはちょっとやり過ぎたかな?)
逃げることの方が怖い、なんて教えたつもりだが、ただのホラーだったか。
匙加減を間違えた。
「ほら、おいで?」
仲直りの証に、私はお嬢さんをソファーに招こうと思う。
噛まれて引っ掻かれてバリバリになるのは勘弁願いたいが、それを置いてもお嬢さんとの関係修復を図りたかった。
まあ、今度は優しくダメだよと教えればいい、そう思ったのだが。
お嬢さんは踵を返し、
「――ニャー!」
「……お帰りですか?」
「ニャー! ……」
じっと見つめる。この場所がもうどうにも落ち着かないように。
やはり信用していないのか。これまで築いたそれをもう――失ってしまったのか。
私は黙ってそこを開け、お嬢さんがこれまで以上に足早に、早急に去っていく姿をみつめた。
玄関から半分だけ体を出し、ほんの少しの後悔と共にそれを見送った。
もしかしたら、もうお嬢さんはこの家に来ないかもしれない。
その覚悟をもって、私は別れを予感していた。
筈だった。
しかし、来てる。昨日の今日で。何の躊躇いも無く――?
いや、
「……ニャー」
微妙な距離感、足元に来ていたそれが、五、六歩の車間距離を開け接触を回避するように座って来る。
怖いんですか? 遠慮しているんですか? それともあなたも罪悪感に苛まれているんですか?
その眉間は私を責めるようでいて、それでいて、自分自身を咎めている様であるが。
「……おいで?」
呼ばれて、ゆっくりとぼとぼと、私の手の平に吸い寄せられその匂いを嗅ぐ。
「――怒っているように見えますか?」
「……ニャァ?」
じっとみつめ、そして何事か呟いた。
生憎、この時ばかりは私もその意味を理解できなかったが。
多分こういう事だ。
「怒っていませんよ?」
「……」
一歩前に進み、そして耳裏を擦り付けて来る。
「じゃあ、仲直りしましょうか」
「……」
「家に上がりますか」
ピクンと顔を上げ、そして立ち上がった私の後ろについてくる。
やはりそれか、現金なものだ。
でもいつも以上に足音を静かに、家の中を散策して、何も言わずに、その日はどこにも留まらず、そっとさっと帰って行った。
やはり内心では気にしている様子だ。怒られたことを覚えているのだろう、ソファーの前では足を止めずに通り過ぎていた。
猫は、思った以上に人との関係を大切にしているのだろう。
私が彼女の目に見えないそれを重んじたように、彼女も私のそれを重んじているのだ。
ならば私も、これまで以上に彼女との関係を大切にしなければ。
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