第10話 鈴の音、猫の声、私の言葉。
――チリンリンリン。
ある日、私が書斎で読書に耽っていると、あの鈴の音がした。
最近気づいたのだが、お嬢さんはおおよそ同じ時間に、同じ場所から敷地を跨ぐ。
午後であれば北側の門から、午前であれば庭の東からひょっこり顔を出す。
そして今――その音が、窓の向こうから響いてきたわけだが。
鈴の音は私にとってもうお嬢さんの第二の声帯だ。そのお陰で私は彼女が来たことが分るのである。
私は二階、書斎から下を眺めると、やはり道路の隅をお嬢さんが歩いているのが見えた。
猫としては残念なことに、その音の所為で居場所がハッキリわかってしまう、そのおかげで彼女が来たのが分るわけだが、これでは獲物を狩るのは中々難しいだろう。だがきっとお嬢さんの飼い主もそのお陰で彼女を家に上げられるのだ。
そして今、私は二階にいる。
今から一階に駆け抜け玄関から出ても間に合わない、このままではお嬢さんは我が家を通り過ぎてしまうだろう。
そこで私もお嬢さんの鈴のよう、私が私だと分る私の音を出してみることにした。
気付いてほしいな、と、思いながら。私は唇を窄めて、
「――ピューイ! ピューイ!」
お嬢さんに向かって口笛を吹く。お嬢さんは、聞き慣れない音に反応し右に左にとその発生源を探していた。まだ私とまでは気付いていない様子だが、気は惹かれるようだ。
なのでもう一度、
「――ピューイ! ピューイ!」
右に、左に、右に、左に。何? 何の音? と、その首が止まる度に口笛を吹いてやると、その何回目かでハッと上を見上げた。
ピタリと正確に書斎の窓――私を見つけブレることなく目を合わせる。
そして音の主が私であることに気付き、
「――ニャー!?」
にぱっ、と口と広げて笑い、目も笑う。
嬉しそうにしてくれる、ということが嬉しい。
そしてそれからすぐに、我が家へと小走りに道を渡って来た。
お嬢さんが家に来る――お出迎えせねばと二階の書斎から一階玄関へ私も小走りに家の中を駆け抜ける。
擦りガラスを張った玄関口、そこへ行くとその向こうにはもう三角耳の頭と雉柄のぼんやりした影が戸口の合わせ目を覗き込んでいた。
急ぎサンダルを履き、玄関を開ける。
「――ニャー!」
いそいそとその隙間を潜り抜け私の足元をくるりと一蹴し、妙にキラキラとした目をしている。
期待の眼差し? 何に対して? 状況から察するに……。
「……ピューッ!」
「ニャー!」
やはり、にぱっ! と口元まで笑う。その表情の
「……もしかして、
動物の。動物としての。私の鳴き声――本当の声、言葉?
「ニャァ」
――本当はそんな声なのね?
とかそんな感じですか? 今のは。
それとも実際には「今日もお家の中を散歩させて貰えるの?」だろうか?
まあなんだっていい。
「それで、今日も家を見て行きますか?」
「ニャー!」
笑顔で。
また意気揚々と、我が家を散策し始める。
――こうして私達は、便利な道具を手に入れた。
これまでの身振り手振り、直近の仕草から状況と心情を察するそれだけでなく。
近くに来ずとも、見えなくとも触れ合える通信手段を手に入れたのだ。
ある日、私は客間の広い縁側に置いた安楽椅子でくつろいでいた。
旅館にある、あの妙に落ち着く部屋というには狭すぎる間取りの空間と、同じそれだ。
そのとき鈴の音が聞こえ、ふと体を起こし窓の外を眺めると、その視線の先にお嬢さんは居た。
普段通りであれば、そこで私が窓を開けサンダルを履き出て行き挨拶をするものだが、しかしそこで私は口笛を吹く。
それだけで、お嬢さんがぴくんと耳を立て、私を探し、私の元までやって来た。
ある時は道の向こう、遠く、隣家の敷地を歩いている時――
ある時は、庭を通りがてら、ちょいと散策をしている時――
ある時は、私が家の中で食事の用意をしている時、ある時はちょいと新聞を広げてくつろいでいる時、またある時は、テレビを見ながら横になっていたとき――
事あるごとに、私はお嬢さんを見かける度についつい口笛で彼女を呼んだ。
その度に、お嬢さんは私の家に上がり込み、そしてその中を満喫するようになった。
お陰で、最近は口笛でただ呼ぶだけではなく――挨拶までする。
私達がしていた、身体を使って手間暇かけた猫と人の私達の挨拶――それを、口笛と泣き声一つで済ませるようになったのだ。
分るだろうか、この意味が。
心を砕いて今日の調子や気分を、たった一声で理解し察し、許し合えるようになったのだ。
これまで以上に気安い――礼儀に拘らない、打ち解けた仲になったのだ。
一緒に遊びたくない時だってある、挨拶だって生半に通り過ぎてしまいたい時もある、わざわざ近寄らなくてもいいのに、今日は遊ぶ予定じゃなかったのに絡むときも丁寧に対応する――礼儀正しく品行方正な仲も上品なお付き合いとしてよろしいものであるが、おれ、おまえの、雑な付き合いも出来る骨太な関係も厚いものである。
だからといってお互いにお互いの言葉が、これまで築き上げたものが蔑ろになったわけではない。ただ礼節を省いただけで、これまでと同じくらいに心を砕き、そして察し合っているのだ。
だからこそ――
「――ピューイ!」
「――ニャア~ッ!」
これで会話が成立する。冷静な人にはそんな風には聞こえないかもしれないが、これは会話である。……いや、これはれっきとした会話である。
横着に挨拶の手順を省いただけのそれではない、この一言二言で私達は今日の気分やこれからの予定を察し合っているのだ。例えば、
「ピューイ!」
「ニャー!」
「――ピューイ! ピューイ!」
「――ニャー! ニャー!」
今のこの会話――私達には『こんにちは』『ごきげよう?』『今日の調子はどうだい?』『悪くないわね』『今時間ある?』『一緒に遊ぶの?』と聞こえている。
これはもう完璧な病気である、なんて言わないで欲しい。せめて会話をしている猫と人に見えないだろうか?
それとも頭のおかしな人間と、それと付き合う猫だろうか。いや、それでもいい。
むしろその通りかもしれない、なにせお嬢さんと会話をするとき、私は人間なのにもう明らかに動物になっていた。
人の言葉を捨て、仕草と表情で何もかもを察し合う。
理屈ではない、ただの印象だ。しかし不思議なことに私が人の言葉で話し掛けるときよりも、この方がお嬢さんの声も理解しやすかった。
鳴き声以外何もいらない――動物がどうしてそうなのか、それがほんの少しだけ分った気がした。
私はここに居る――口笛と、この鳴き声には本来それ以外の意味は無い。
だけどそれでお互いの居場所を確認すると安心する。それだけで心が温まる。
会話とはただ言葉を交わす事だけではないだろう。多分、声を聞かせるというのは、本来そういう意味があるのだろう。
だから今日もまた私達は、お互いに、何の用が無くても、挨拶をし合うのだった。
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