第9話 家を買う女?

 耳裏を掻き、頬をなぞり、首筋に指を入れる。

 目を細め、ちいさく首を垂れ、身を任せて来る。

 お嬢さんは大変魅力的な女性である、雉の尾羽の背中からしっぽに白足袋を穿いた四本足――猫としてごく平凡な色柄かもなんとも普遍的に美しい。

 滋味美人、そんなお嬢さんと戯れ合うのは、私のささやかな日々の幸福である。

 今日も気持ちよさそうに、お嬢さんはじっと私の施術を受け入れている。


 その内、何を思ったのか。

 お嬢さんはおもむろに立ち上がると、我が家の玄関先へと向かう。

 そして閉じられた戸口の合わせ目を前に腰を下ろしたかと思えば、その合わせ目をじっと見つめ始めたのだ。

 おや? これはもしかして……。

「お嬢さん……この物件に興味がおありですか?」

「――ニャア!」

 いい返事ですね。

 同時に後ろの私にチラリと振り返り、そしてまた玄関の戸口を見つめる。

 目の前に宝箱がある子供のように、目をキラキラとさせている。うん、お嬢さんは私がそこを開けるのを疑わず、今か今かと待ち構えているようすだ。

 その凛と澄ました背中も真っ直ぐな姿勢がなんとも愛らしい。そこでついつい興が乗ってしまう。

「では内見なさいますか?」

「ニャア!」

 畏まりました。と私は戸口に手を掛け、ガラガラガラと音を横に滑らせた。

 するとお嬢さんは、当然の如くするりとその隙間に体を躍らせる。

 勇み足にトトトと中へ進み、切り出したツルリとした花崗岩を張った土間部分、それと床との段差をひょいと乗り越え、優雅な足取りで板張りの廊下へ肉球を付ける。

 そこで廊下を見渡しながらその先々にある景色を一望し、喜色満面に、

「ニャー! ……ニャー、ニャー!」

 まぁ! ……いいわね、いいわね!

 と、翻訳するならこんなところだろうか?

 好評を頂けたのなら幸いだ。なんとも楽し気で嬉し気である。

 そこで私は業者の人らしく内容の説明を始める。

「――間取りは古いですが、なかなか綺麗なものでしょう?」

 珪藻土の、和三盆やきび糖のよう柔らかな色合いに、苔を吹き付けたような侘び寂びから、温かな午後の陽射しのような木材とがよく似合う古い家だ。

 我が家のことながら、懐かしいを醸し出している。元々、農家の古い家だった。それが大きな地震を何度も経験し、乗り越えたものの床まで傾きガタが来ていたその基礎を打ち直して、柱や壁に補強を入れ内装はその殆どを入れ替えたものだ。

 和モダン風のリノベーション、が、かつてそこに人が居た温もりや、今もそこに佇むかのような気配を感じさせるのは使い込まれ、愛された年季という物だろう。

 見た目の古さに反して誇り臭くないのも、日ごろ小まめな掃除の賜物で、ただ、人一人が住むには少々だだっ広さを私は感じていた。

 ちょっとだけ寂しい――そんな小さな世界だが。

 白足袋に和柄のお嬢さんにしてみれば、

「……ニャア、……ニャア、ニャア!」

 新しく広がった、大きな世界――

 なのだろうきっと。先程から歓喜の声が止まらない。

 よほどこの物件をお気に召したのか。気の逸った早歩きになりながら、ときおりその歩幅を緩め、廊下に天井の木目に視線を遣り、壁の左官が描く紋様を見て、そこ彼処の部屋の戸を見つけてはキョロキョロとあちこちと見回す。

 ああ、どの部屋から見ようかしら? などと目移りし品定めをしている様子だ。

 そしてどうやら、お嬢さんはまず廊下を真っ直ぐそのまま前へ――

 行き着く先、行き止まりの手前で曲がって右へと明確な目的があるかのようターン、その先に目当ての何かがあることを確信するかのよう突き進む。

 そこは洗面所とお風呂場なのだが――なるほど。

「――まずは水回りの確認からですか?」

「ニャー!」

 なんとも女性らしい。お風呂にトイレに台所――水回りの使い勝手は、女性は特に確認したがる。自身の身の美しさに直結し、生きる楽しみと喜びの大半を占めるであろう命の洗濯場だ。

 さもありなん、洗面所へ入るとお嬢さんは弾むようなステップでありながら厳格な視線でリネン周りを一望し、洗濯機の機種を確かめそしてそのまますかさず浴室へと駆けこむ。

 その気合が伝わってくるような歩調は尻尾もピンとしパワフルな感じだ。

 そして浴室に入るなり、お嬢さんはまたそこで一望――シャワーノズルのデザインに、洗い場の広さから風呂椅子の佇まいにとじろじろとそこを練り歩く。

「……ニャー、……ニャー」

 大人が大の字で優々と寝転がれる程の広さに、ほう、ほぅ、と感嘆するよう鼻で息をし、右に左に、壁のタイル模様と床の石材の趣とにじっくり目を凝らしている。

 私としては妙に緊張してしまうのだが、君のその気分はすっかり批評家だろうか?

「……どうでございますか? 浴槽は足も十分に伸ばせますよ?」

「ニャー」 

 私のプレゼンに、お嬢さんはその頭よりほんのちょっと高い所にある、湯舟の向こうに足を伸ばそうとする。

 いま会話が成立したような気がするのだが気のせいか?

 しっかり肩まで浸かれる深さもある、じっくり浸かるもよし、浅めに湯を張りゆったり半身浴で汗を散りばめるもよしなその縁に、お嬢さんは前足を掛け、よっと身を乗り出すと、その閉じられた蓋の隙間を鼻先でスンスンと匂いを嗅いでいる。

 開けて見せると、更に首を長くし――そこで揺れる水面をじっと見つめ出す。そしてまたふんふん、ふんふんと鼻を鳴らし、何やら残り湯をやたらと吟味し――

 そして、唐突にペロンと水に舌を伸ばそうとしたので――

「ちょ――ダメ! ダメですよ?」

 慌てて私はお嬢さんの口を手の平で覆い、更に同時にぷにぷにのお腹を下から掬い上げ、彼女を洗い場まで引き戻した。

「ンナァ~……」

 だが未練がましく、もう一度湯舟に身を乗り出し今度は縁から首を伸ばそうとする。

 それをもう一度引き離し、確認を取る。

「……喉が渇いてるんですか?」

「……」

 そうよ? と言いたげに黙して湯舟を見つめる。本当に喉が渇いているのかもしれない。

 いやしかし、残り湯なんて飲めばお腹を壊さないか? 別の意味でもゲロを催さないか?

 いや、猫なら大丈夫か?

 一晩立った風呂水は消毒してない川の水くらいだったか。入浴剤の類は一切入れていないので直ちに危険はないだろうが。

 念の為、私は洗い場の蛇口を捻り新鮮な水を手の平に取り、お嬢さんに差し出した。手の平の小さな水溜りを察し、お嬢さんはそれを一嗅ぎ――すぐに興味を失い湯舟へと向かおうとした。

 何がそこまで猫を風呂の残り湯へと駆り立てるのか。

 私は一応止めたし悩んだのだが、

「……自己責任ですよ?」

 と言って自らは責任放棄し、うっかりドボンしてしまわないよう手の平で残り湯をお嬢さんへ差し出した。

 その匂いを一嗅ぎ、スグに「これよこれ」と言わんばかりにぴちゃぴちゃと残り湯を飲み始める。

 私の出汁が出ている筈のそれに、思わず微妙なものを感じ、

「…………大丈夫かな……?」

 だが余程喉が渇いていたのか、程なく手の平の分全てを舐め回す。

 そして更に、また湯舟から直で飲もうとするので、もう一度手で掬い飲ませてやる。

 ゴク、ゴク、ゴク、ゴク、気持ちいいくらいの飲みっぷりだ。

 でも品性と知性溢れるお嬢さんはいったいどこへ行ったのだろうか? 今完全に猫である。ほどなくして、満足したお嬢さんは口周りをぺろりと舐め回した。かくして、私の心に微妙なものを残しつつ、一息吐いたお嬢さんはまた物件を内見しに風呂場を発った。





 ピンと立ったしっぽが腰の動きにつられ左右に揺れる。

 どことなく、しゃなりしゃなりと臀部からの曲線が絶えず弧を描き、獣ながらに上品な色気を醸し出している。

 その小気味いいリズムが、またえらく上機嫌な彼女を体現している。

 女であり、猫である。

 猫であり、女である。

 さて、

「今度はどこへ行きますか?」

「ニャー!」

 お嬢さんによる我が家の内見は続いている。トイレから台所まで一通りを確認し、居間、応接間、客間と確認して、一階はほぼ見終わっただろうか。

 それでもまだ飽きることなく、お嬢さんはその足を階段に伸ばしている。他人の家を見る事がそれほど楽しいとは知らなかった。

 歩きながら、それはもう引っ切り無しにニャーニャーニャーニャーと楽し気に品評をしている。

 何の意味もない我が家が、それだけでちょっとした癒しに早変わりだ。

 やっぱり猫って良いものである。そう思う間もお嬢さんはトットットッと跳ねるように階段を昇って行く、二階は概ね個人の空間だ。

 家の一階が集団的な機能、公共の場に寄っているとしたらこちらはほぼ私室である。書斎、寝室、トイレに空き部屋、階段上がってすぐのそこで、お嬢さんは私が普段からよくたむろしている書斎に目を向けその前へ足を進めた。

 ほう、お嬢さんも読書を嗜むのだろうかと、私は快くそのドアを開ける。

「――ニャー」

 お嬢さんがドアを潜り、遅れて私もそこを潜る。先に一人足を進めるお嬢さんの目の前には、

「……お客様のご趣味に合いますかね?」

 薄暗い室内、壁一面の本棚、敷き詰められた大小さまざまな書籍に、料理本、地図、辞書から写真集、株にヨガに整体、恋愛小説からSFに冒険小説と――とにかく雑多な本が所狭しと置かれている。

 冷やかな湿気とインク臭さ、それが温かな家の中で一際浮き、異界染みているようにさえ思える。

 今も一番使い込んでいる部屋なのに、どこか人の気が薄かった。

 そこに肉球を翻し――お嬢さんは書斎で唯一光が差し込む北の窓辺へと向かう。

 書斎に居ながらその本には一瞥もくれずに、窓の前に置かれた台に軽やかにトッと飛び乗る。

 トトッ、と小さな音が響いた。普段そこに読み掛けの本を置くのだが、今日はお猫様専用の展望台だ。

 着地したそこからほんの少し歩き、腰を落として、しなりと尻尾を脇に置く。

 窓に、キレイに前足を揃えて座っている、外の景色を眺めるお嬢さんが映っていた。半透明の室内が映る窓硝子から、外の世界をじっと見つめている。

 

 道を歩く猫には普段見られない景色――見上げるのではなく、見下ろす世界。

 通学路が流れ、正面には電線が走り、黒い線の上にはまばらに雀を乗せている。ななめに眼の行く先を伸ばせば、アスファルトが彼方に家々と街を繋ぐ隙間を作っている。

 隣家や、向こうの屋根もよく見えるだろう。どれも普段のお嬢さんには見られない光景だ。 

「……いい景色ですか?」

 私の問いに、ゆっくり横に一度、尻尾を往復させ……そしてまたピタリとそこに留める。

 今、お嬢さんの眼には、一体どんな世界が見えているのだろうか?



 もしよければと、私はその窓を開けた。

 ん。と、お嬢さんは一歩前に腰を下ろして、首を伸ばしそこから窓の下を覗いた。

 そこには一階の差し掛け屋根が、横に波々と並んでいる。

 それを眺め、行けると判断したのか、ゆっくり前へと体を窓から乗り出して、ぬるり、差し掛けのそこにそっと飛び降りた。

 私も窓から首を出しその姿を眺める。

 お嬢さんは、波打つ瓦の上を、悠々と散歩し始めていた。

 そっと、慎重に、しかしそわそわと、景色を確認している。爪先立ちの忍び歩きのように、私もその後ろについて行きたいのだが運動神経に不安があるので私はそこには下りれない。

 なので家の中から彼女の行く先々に先回りし、そこにある窓を開け彼女の位置を確かめることにする。

 やや早足で、進行方向からして、まずは空き部屋へ――そこの窓の鍵を開け顔を出し、彼女の姿を確認すれば、ちょうど窓の手前のところまで来ていた。

 上にある私の顔を確認し、目を合わせると、お嬢さんは目尻をしならせ「ニャー」と鳴いた。

 そのままご機嫌のしっぽがスルリと通り過ぎていく。

 私はまたその先に先回りした。

 顔を出す。お嬢さんは、道を歩く小学生――同級生か友達かと楽し気に何か話し歩いているのを上から見ていた。それはこの上なく目立つのに、意外にも小学生たちはそれに気付くことは無かった。

 次は、我が家の庭――彩り豊かな木々の頂点を見ていた。

 少し離れれば隣家の壁とカーテンの閉じられた窓が見ていた。

 その先。

 青空も地面より遥かに広く開けている――その色、形、雲の模様――

 隣家の物干し場の洗濯物――

 先へ、先へ。

 瓦の上を、ト、ト、トと、肉球を使い危なげなく歩いていく。

 それらを見送りながら、私は次の部屋へと向かっていく。その合間合間、お嬢さんは差し掛け屋根の上で立ち止まって、腰を下ろし、風を髭で感じ、背筋をピンと伸ばしていた。

 気持ちよさそうである。

 恥も外聞も、そして何より危険も気にしなければ、私もそれを味わえるのだろう。

 陽当たりも何もかも、地上のそれとは違う筈――動物が羨ましい。

 滑って落ちる事なんてまずないだろうし、人が屋根の上を楽し気に歩いていたら結構な変質者だ。

 

 猫の眺める世界は――お嬢さんにとって、この世界をどれくらいにひろいのだろうか?

 我が家の中も、きっと、私の見える世界と彼女の見える世界は違うのだろう。

 そんな中、お嬢さんは屋根の上を一周し、書斎の窓まで戻って来た。

 立ち止まると腰を落として、無言で私を見上げて来る。

 私は無言で窓から身を引いた。少しするとタッ! と窓枠に飛び込んで来た。

 何も無かった四角い青空、そこにモフモフのお嬢さんが入り込み台に乗る。まるで絵の中からお嬢さんがこちらの世界に紛れ込んだような。不思議な世界は一瞬で目の錯覚になり消えて行く。

 

 台から書斎の床へと飛び下り、お嬢さんが足早に書斎の出口へと向かった。

 私も不動産業者へと戻る。

「――お客様、屋根の上からの景色は如何でしたか?」

「ニャー!」

 どうやら上々のようだ。それから二階の残りの部屋を練り歩き、更に気分が昇ったお嬢さんは、トトトトトと廊下を踊るよう駆け抜け階段を降りて行った。この迷いのない足の速さには覚えがある。

「――どうですこの物件は。中々のものでしょう?」

「ニャーッ! ――ニャーッ!」

 ええそうね、本当にいい物件ね! と、もう即決で契約を結んでいただけそうな気配がするのだが、間違いなくこれは家の外へと出ようとしている。

「――それでは、ご購入になられますか?」

「……」

 考えてみるだけ――みたいな?

 そのままの勢いで玄関へ直行した。

 私は催促されるまでも無くその戸を横に開き、颯爽と立ち去って行くお嬢さんを見送る。

 お帰りになられるのですね?

 そしてお嬢さんもまた何も言わず、こちらを一瞥もせずさっさと逃げて行く。

 お気に召したようだが、この物件を買う気はないようだ。どうやら遊びに来ただけらしい、やれやれ、こまったお客様だ。

 だがきっとこのお話はいったんお持ち帰りになって、それからよく吟味されるのだろう。

 そう、よくある話だ。

 私は不動産屋らしくお客様を門の外までお見送りし、その背中に丁寧に礼をし別れを告げた。


 お客様、当方は首を長くして、またのお越しをお待ちしております――

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