第8話 猫対人。
お嬢さんと庭で遭遇した。彼女はいつもの散歩中であったようで、そこで顔を合わせるとトコトコ私の方へ向かってくる。
足元で、見上げて来る。そこで私もしゃがみ込み、
「――こんにちは、お嬢さん」
手を差し出すと、匂いを嗅ぎ、無言で耳裏を差し出してくる。
いつもの挨拶――それが終わってから世間話をする体で、一方的に話し掛ける。
「今日も遊びますか?」
「――ニャー」
会話が成立した、お嬢さんは人の文語を分かっているのかいないのか、適当な相槌に聞こえるがそれなりに通じている気がする。逆に、私の方こそ適当で、実は彼女こそ適切な言葉を返しているのかもしれない――これは永久に答えの出ない学問の気がする。
それはともかく、私は近くに生えていた猫じゃらしを毟り取り、お嬢さんからやや離れた場所へ行き、そこで緑の穂先を揺らす。
思えば、最初に出会った日もこれだが、以前とは少し違う。
お嬢さんは成長していた。以前が女子中学生なら今は高校生くらいだろうか? 随分肉付きが増し、しなやかな大人のそれに近付いている。
まだまだ骨格は成長し切っていない気配はあるが、その身体能力は日に日に増しているのだ。そしてそれを証明するが如く、お嬢さんは地に伏せ前足を揃えた。
それから後足に力を溜め、腰をやや上げた前傾姿勢になる。陸上の短距離走、クラウチングスタートを思わせる一触即発の雰囲気――その目は深く鋭く細められている。
どうやら闘争本能に火が付いたようだ。だが私とて――
無駄に、五感を研ぎ澄まし、必要以上に眼力を籠め、濃く顔を作りそれを迎え撃つ。
槍の代わりに緑のフサフサを構え、低空でその先端を左右に揺らし始める。
リズムを取るように。ふりふり、ふりふり――しなる緑の穂先に、お嬢さんは僅かに顎を上げた。
いつぞやの蛇のよう、その動きは確実に猫の本能を刺激するのだろう、お嬢さんはいつでも飛び掛かれるよう更に前傾姿勢に力を込め、そして深く構え直した。
丸見えだけど、草むらに身を隠す姿勢だ。
私はそれを、いつでも腕を引けるよう待ち構え緊張を漲らせる。
今か、今か? と毛穴を開き肌で呼吸する背中を汗が流れる。
指先で猫じゃらしを振る最中、じりじり、じりじりと、お嬢さんの気配だけが忍び寄って来る。
五感を全開に、タイミングを図っている。
空気が張り詰めている、景色が凍ったように、時だけが動き続ける。
幾何か、雲が流れた。だがいったいどれだけの時間が流れただろうか?
そして――その時は唐突に来た。
それは、いつまで経っても飛び掛かって来ないので気を抜き、猫じゃらしを振る手を完全に止めた時だった。
――ダッ!
私は半瞬遅れた。そのときにはもう眼前まで迫っていた。
今から咄嗟に猫じゃらしを逃がそうとも間に合わない。手首の力を抜いて、手を止めた瞬間だった。体が反応しない。
そこをまさに電光石火――矢が弓に弾かれるような速さで疾風の如く地を掛けそして両前足を最短動作で突き出し上から地面に押さえつけた。
あまつさえ間髪入れずに緑の穂先をガッチリ咬む、その一連の動作を一瞬で、戦局が覆らない所まで持っていかれた。
私は遅れて緑の竿を引くが、折れるほどしなるだけでやはりその穂先は外れない。
「……ふ、ふふふ、見事です――」
先に動いた方が負ける――まさにそれを証明するような勝利と敗北だった。
そしてお嬢さんはそのままそこに寝転がって体をねじり、後足で私の手を蹴り逆に猫じゃらしを引き抜くと、そこで興味を失ったようピタリと噛むのを止め地面に捨ててしまう。
それから、私を見上げて来る。お前の物を奪うからこそ価値がある――そんな覇気が込められた視線で。
これで終わりか? と告げている。その好戦的かつ獰猛な眼光に応え、
「……もう一勝負、するかい?」
私は落ちたそれを拾った。
と、即座に、お嬢さんはそのままその位置から飛び掛かった。
試合開始の合図も何もない。だが、私もそれを卑怯とは思わない。
常在戦場――私は今、猫という自然界の掟と相対していることは分かっていた。
今度は至近距離から、私の隙を待たずお嬢さんは気ままに跳ね、私は
猫の反射神経を越える為、常にお嬢さんの次の行動を予測し先に先にと仕掛け、お嬢さんが大きく肩で息をし飽きるまで続けたその内――お嬢さんはどことなく不満を訴えるよう足を止めた。
そして、屈辱に耐えかねたような雰囲気を醸し出し、私に背を向けスタスタと歩き去る。
猫じゃらしを奪われなかった私の勝ちだ。だが、一勝一敗、決着は持ち越しである。
なので、
「――勝負は預かっておくとも」
普段の優雅な立ち居振る舞いからは想像できない、荒々しいまでの野性。それと俊敏な運動能力と機知の閃きは、まさに天性の狩人である。
どんなお洒落をしていても、やはりネコ科、肉を喰らい引き裂く動物なのである。
見た目はどう見ても、猫じゃらしの魔力にヤラレ理性を失ったモフモフなのだが。
――私達は最近、気の置けない隣人であり、そして好敵手になったのだ。
人と猫の、意地と、くだらない何かを掛けた熾烈な争いが始まったのである。
連日睨みを利かせ、私に顔を合わせるなり決闘を所望するお嬢さん。
ある時は正面から、ある時は茂みから、そしてある時は木の上から。私もそれを迎え撃ち、威風堂々と対決する。
戦術と戦略、互いの機知を察し相手の虚を突き隙を見出す一手を探る。一進一退、勝ちと負けが交互に続く戦績と戦歴。血で血を洗い、卑劣で悪徳に満ちた
正義と悪が殴り合う。
影と影が絡み合う。
栄光を求め、虚構を追い掛け、咆哮が木霊する。
互いの夢と信念、希望と願望でせめぎ合い。
意地と意地のぶつけ合い。
無益な戦いを繰り返し――
そして、戦いの真理とも呼べる領域に、私達は辿り着いたのだ……。
庭先で相対する。今日も電線に留まった雀たちが観客だ。
お嬢さんが、我が家の庭という名の闘技場に静かにリングインする。
それは、これまでの、戦士と呼ぶにふさわしい殺気立つ気風を漂わせていた彼女ではなかった。猫じゃらしを捉えられずに、腹いせと言わんばかりに本体である私自身へと飛び掛るあのケダモノの姿はもう存在していなかった。凪いだ湖面のよう、まるで菩薩の表情の如く穏やかで、その顔は悟りを開いた精神を映し出すかのようだ。
完璧なコンディションに整えて来たようである。
私も、二刀流を越えた三刀流どころか、指の間に挟めるだけ挟んでヤマタノオロチの逆襲などと数の暴力でお嬢さんをワサワサしヘソ天させた過去は捨て――既に精神統一を終えている。
仕上がっている――今最高に、自信も、気力も、体力も満ちている。例え猫百匹相手にしても猫じゃらし一本で事足りるだろう。
音も合図も無く、示し合うこと無く私達はただ歩み寄る。静寂とした空気だけがそこにあった一人と一匹の衝突地点へ――猫じゃらしを一本地面から引き抜き向かう。
それを鞘を外すように、余分な葉の部分をキュッと抜いてダラリと横に提げた。
お嬢さんは私がそれを持ったのを眼で確認し――しかし、戦闘態勢を取らずそのまま歩み続ける。
距離を詰める。奇襲などしない、もはやそんなことをする必要がないと己の至った境地を知る歩調だ。自身にとって有効な間合い、そして敵の懐にそうと気付かれずに侵入する整然とした足運びだが私はそれに怯まない。
――既に、私の足元まで来ている。
それでもまだ私は猫じゃらしを構えず、自然体――無構えとも呼ばれる、極まればどんな攻め手にも即対応出来る、もっとも基本的かつ、攻めるのが困難な型――
否、それですらない、完璧な脱力でも、もはや攻めも守りも捨てただ打たれる為のそれでもない。ただ無防備に両手をだらりとさせたそれは、見る者が見れば勝負を捨てたと断じ、そしてそれ故に、まだ、何かあるのか? と疑問を抱かせるだろう。
凪と凪。鏡合わせのよう向かい合う無風の湖面同士。
ただ上と下から猫と人が見つめ合った。
そして、どちらからともなく――
幕が切って降ろされる。
お嬢さんはそこでゴロンと寝転がった。
誇りを捨て立ち技しかない
雀たちは、右に左に首を忙しなく傾げていた。
当然私はそれに臆することなく、お嬢さんと同じかそれ以上に悠然と――足元に寝転がるお嬢さんへ、猫じゃらしを無防備に、無謀に、その眼前へと降ろしていった。
取れる物なら取ってみろ、いくらでも躱してみせる。そんな絶対の自信があるように。あまつさえ、床に無防備に寝転がる妻の手をそっと取り、自分の体に絡めさせようとする旦那の如く――
お互いに、歩み寄る。
お嬢さんはゆっくり、無言で猫じゃらしを前足に挟んだ。
私はそれに合わせて猫じゃらしを送った。そしてお嬢さんは自身の口元にたっぷりと引き寄せ、あぐあぐ、モシャモシャと、その緑の穂先をご満悦で噛み締める。
なんとも横着かつ気だるげな寝姿で、猫じゃらしと戯れるお嬢さん――その無防備な姿に私は慈愛と寛容の精神で目を細める。
「……ふふふ、可愛い可愛い」
「ニャァア……フニャ」
そう、戦いの果てに私達が行き着いた真理――それは戦わないことだった。
――平和。
私はただじっとその無防備で愛くるしい姿を見つめていた。臍とおマタまで曝け出す正真正銘のお嬢さん(やっぱり女の子だった)と、私は心ゆくまで与えあう。
勝ちも、負けも、どうでもいい。お互い幸せ《モフモフ》ならそれでいい。
戦いの愚かさ、勝利の不毛さ、正義の空虚さに比べなんと偉大なものか。
平和は戦わなければ手に入らない、奪い、支配し、駆逐せねば打ち滅ぼされると言われる不毛の二律背反――
それは決して訪れる事のない、
しかし、今確かに、ここに平和はあったのだ……!
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