第5話 猫と私と、子供達と。

 今日も今日とてお嬢さんを撫でる。

 そのお美しい毛並み、艶やかな髭、楚々とした白足袋。

 そのどれもが彼女が淑女であることを訴えて来る。

 ごく平凡な雉柄に白毛もそれだけで煌々とした美猫様である。

 それに相応しいようにと、私は親愛なる隣人として節度を弁えマナーに則り、傍目仰々しいくらい紳士に振る舞っていた。

 猫相手に何やってんの、と言われてしまうだろう。しかし、これが彼女と私の当たり前なのだ。

 指先一つで触れるのは、決して外歩きをする猫を汚物扱いしているのではない、これは列記とした、私とお嬢さんの蜜月的なやり取りなのだ。女性の手を取り手の甲にキスした後、エスコートし椅子まで着席して頂く――そんな紳士淑女の社交辞令のようなものだ。

 猫相手にバカバカしく思うかもしれないが、これがしっかり出来るとそうでないとでは雲泥の差であることは明白であろう。

 ましてや、そもそも気に喰わない相手には挨拶自体させないということも加味してみて欲しい。

 え? ただの下僕に成り下がっていやしないかって? いやいや、ただの健全なお付き合いという奴だよこれは、私とてお嬢さんとここまでの仲になるには忍耐に忍耐を重ねたのだ。

 おまけにお嬢さんは猫であり動物だ、言語や文章を用いないその文化の解読は今も困難を極め、そして何より気位が高い――傍目微笑ましい猫と人の交流に見えて、その実情は貴婦人の家庭教師を迎えた礼儀作法の講義である。

 その合格基準は非常に厳しい――

 

 ……だが。


 お嬢さんにそんなに厳しくされているのは、どうやら私だけのようなのである。



 ……それに気付いたのは、とある日の夕方のこと。


 午後三時、それは各種学生たちの下校が重なる時間――

 我が家はその内、近辺の小、中学校の通学路に面していた。そして我が家の庭を通るお嬢さんは、当然ながらその通学路を必然的にそのプニプニの肉球の下に置いている。

 当然、子猫ながらもその美貌たるや愛嬌たるや、この近辺を通る学生たちにも顔が知られ、付近を縄張りとする猫達の中でも、特に人懐こい猫として有名であったのだ。


 そう、彼女は人懐こかったのだ……。


 いや、どこが? 私にはあんなに、ツンツンなのに。 お腹を触らせてくれると思いきや、ガブガブなのに。

 

 ただ鈴の音と、登下校の学生たちのガヤガヤとした音が重なる時――なにやら楽し気な声が響いていたのは知っている。そしてそのとき「可愛い」「おいでおいで」なんて台詞が聞こえていたのものだから、まさかと思って塀の陰から覗いてみれば、その光景を見て、私は衝撃に襲われた。

(……なん、だと……?)

 SHOCKING!

 あろうことか、お嬢さんは子供達には、手の平で、背中を普通に撫でさせていたのだ。

 小、中学生に、てっきり遠巻きに眺めているか、触れても一撫でくらいと思っていた。それもあはよくば噛み付きと猫パンチ付きで。

 だが、その毛並みを無造作に面白おかしく撫でている。小学生が、無邪気にしゃがみ込み、お嬢さんへと手を伸ばし噛み付かれることなくナデナデとしているのだ。

 あまつさえ、ゆっくりゆっくり、さわー、さわー、と十分すぎるほどの速度でその毛皮を堪能しているのだ。雉柄の背中を、モフモフの毛並みを、堪能しているのだ。

 いやまて、お嬢さんの背中が、撫でるたびにちょっと下に沈んでいる。

 あれはかなり力加減を間違えている、猫にとって頂けないレベルではないか、かなり無遠慮な感じだ。思い遣りも労わりも何も無い、まして挨拶も礼儀作法もあったもんじゃない。

 おいおいおいちょっと待て――楽しげに手を伸ばしているがあれではお嬢さんにはゴシゴシ背骨を力任せに押されているようなものだろう。自分がそんなことされたら相当イラッと来るんじゃないか?!

 しかしそんな子供にお嬢さんは――愛想よくニャーン!と猫撫で声で撫でさせ触らせ続けているのだ。

 フシャー! でも、フカッ! でも、ヴヴヴミギャァアアオン! でもない。

 猫パンチもなにも無いのだ。

 そんなことがあってたまるか。私にはあんな手厳しく尊大な態度で接していたのにどうして子供達にはそんな無抵抗で触らせるのか。

 こんなの絶対におかしい。複数の男を――いや、まさかそんな女まで侍らせてもはや酒池肉林ではないか!

 相手は児童だけど。いやだからこそ教育的指導が必要ではないのか。今が一番躾に大切な時期ではないのか。歯形と爪痕を残す過激アブノーマルな教育はいったいどこへ行ったのか。厳しい家庭教師の貴婦人との緊張感あふれるロマンスは私だけなのか!

 冷静に冷静に……。私は本命ではなく、浮気どころか単なるヘアサロンの店員だったのか?

 私は実は嫌われていたのだろうか、とこれまでの行動を鑑み悩みに悩んでみるが、割と心当たりがあるのでどうしようもない。しかし分らない……私と子供たちとの間に一体どのような差があるのか。あれは一番ひどい時期の私より酷い触れ方だと思うのだが。


 しかし、その交友関係に口を出すのは無粋だろう。

 一人一人違う対応をしたって別におかしくはない。

 人だって相手によって違う顔をするだろう、そんなこと目くじらを立てる事ではない。

 人によって心の引き出しの空く場所が少し違うだけの話だ。

 それを適時適切、自分で開ける棚を選ぶこともあれば、相手が意図せずそれを引き開けることもある。

 お嬢さんにとって、私と子供たちではそれこそ開ける引出し――

 間柄、役柄、仲というものが違うのだろう。

 きっとその差だ。うん、その所為だ。

 説得。寂しくはあるけれど、私は人でお嬢さんは猫で――ただの良き隣人なのである。

 


 

 





 ……正式に、友人に格上げされたい今日この頃。

 そんな私のことは露知らず――

 


 お嬢さんは今日もまた、数多の男にしっぽを振り、愛想よく小さな女共にちやほやされている。

 スター街道まっしぐら。モテモテである、人懐っこい猫、その需要は計り知れない。今もスポットライトの眩しさの中、優雅に人の波間を歩いている。

 まるで、嬢さんの行く先それ自体がランウェイに変わっているかのようだ。

 ――そしてその観客席最後部に暗い影が落ちているのが分るだろうか?

 私である。私の払拭し切れぬ心の闇である。心の中で帳を降ろしているそれが背中からはみ出したているのだ。もうハンカチを噛んで物陰から羨望の眼差しを向けるどころではない――

 淋しさもここまで来ると、夜空の星を眺める気分だ。キラリと流れ星が堕ちそうだよ。

 とても高い所へ行ってしまった。

 私の所に来るのはその輝きが燃え尽き落ちて来る時だけなのか――

 とかそんなことは無く、これまで通り普通に私の所に来てモフモフさせてくれている。会いに行けるどころか積極的に触らせてくれる身近なアイドル――それが猫。

 その子供達から連呼されかわいいかわいいと愛されている姿を見ていると――実はちょっと鼻高々でもある。

(うん……私以外とでも、お嬢さんはちゃんと遊んでいるんだね?)

 悦。いや、見知った仲の気難しい筈の猫が数多くの人に愛されているのだから、それに勝る喜びなどないというか、子供が友達に囲まれているのを観る気分というか、そんな人気者と密に知り合いであるという事実だけで私は嬉しいということに気づいたのである。

 そんな中、お嬢さんはチリンリンリン、と子供達の間を潜り我が家の敷地を跨ぎ私の足元までやって来た。

「こんにちは。――今日はもういいんですか?」

「ニャア……」

 おや、どことなくお疲れ気味。

 私を誘導するよう敷地の南へ、いつもの縁台へと行く。そしてそこに二人して腰掛け、いつも通りに私に耳裏を掻かせてくる。

 今日は調子が悪いのかな?

 声に、毛並みに、そして表情に精彩がない。

 私はどことなく首を傾げその雉柄を覗き込み、

「……夜更かしですか? それとも風邪?」

 片の落とし具合から、どことなく眠気が取れていない、胡乱な気配を感じる。

 顔を見れば、鬱屈としているというか、どことなく憂鬱げである。


 そこで私はいつになく優しく指先を操り、特別優しくお嬢さんの耳周りを按摩する。

 爪先を立て、虫刺されや発疹のボコボコを探り、固まった筋を解すようにコリコリと。

 するとその最中、お嬢さんはその途中で珍しく自分からおもむろに席を立った。


 按摩を切り上げるときは、常に私を噛むか、私がお嬢さんから離れるかで、その途中での中断はなかったのだが。

 不満を漏らすことも噛み付くことも無く、縁台からひょいと飛び下り、その下にある台を支える脚の一本に向かい――その角に首筋を擦り付ける。

 念入りに、これ見よがしに首輪の辺りをグイグイ、ゴシゴシと擦りつけている。

 私はそれを見てすぐに察し、

「ああ――、そこですか?」

 縁台から下りて腰を曲げ、彼女が擦りつけている首輪周りに爪を立て重点的に掻き始める。

 ここかな、どこかな? 右端から左端にカリカリと爪先を移動していく。と、ある一点で、左の後足を中途半端に浮かせ、自分で足で掻くようそのまま低空でペダルを漕ぐよう宙を掻き始めた。

 この下手クソ、もういい自分で掻くから――

 ではなく? そこ、そこ、もうちょい、もうちょっとそっち……と? それはもう連続で宙に円を描く指示に従い、指先の位置を変えていく。よしよし、もっと、もっと……そうそこ! と、やがて蹴り足が弱くなりピタリと足が止まった。

「――ここ?」

いいから、掻いて。と無言で首を伸ばしてくる。

 肩を窄ませ掻く場所の皺を広げて来る。

 ぺたりと腰を落ち着けて、そろえた足も若干崩してああどっこいしょ、と? 相当気持ちいいようだ。

 余計な事を言わずに、……気持ちいいですか? と、指先で問答する。

 猫が猫背のなで肩になり、じっと目を閉じ突き出すよう首もだらんと下げる。

 どうやら間違いない様子だ、よほど凝っていたのかむず痒かったのか、多分首輪の下だけはその足ではどうにもならないのだろう。

 じっとしてそこを掻かれ続けている。私もしっかり丁寧にカリカリとする。

 お嬢さんはこれ以上ないほどゆったりまったりと首をゆられていた。

 やはり猫も猫なりに苦労があるのだろう、噛まれるのは嫌だけれど今日はお嬢さんが嫌というまでやらせて貰おう。

 いつになく長い、静かな時間が流れる。

 ややあって、お嬢さんからすー、ふぅ――、と大きな吐息が聞こえた。

 私はやんわり指を離した。時間の延長は要るかと少し待つが、そのタイミングで合っていたのかお嬢さんはするりと立ち上がり、背中を見せず、ふとこちらを振り返る。

 そして顔を上げ、私の顔をじっと見て来た。

「……どうかしましたか?」

「……」

 スッと目の奥を据え、私の何かを確認するよう眼を細める。いつもなら顔も見せずに無言で帰って行くのだが、何か伝えたい事でもあるのだろうか?

そこで何を確認したのか、やはりふらりとお嬢さんは、背中を見せ帰って行った。

 なんとも言えない。こういうときだけは私達に言葉がないことをすこし寂しく思う。

 でも確かに――お嬢さんは、私の何かを見ていたような?

 それが何なのかは、私の目には分らないけれど……。




 ――それからというもの。


 お嬢さんは、私に背中や腰まで触れるのを許してくれるようになった。

 首輪の下を掻くことは、お嬢さんにとってそれほど特別な事だったのだろうか?

 それでも相変わらず手の平で撫でられるのは嫌いなようだが――でもそれなら、何故子供達は彼女にそれを許されていたのだろうか?

(……子供だからか?)

 大人の私より、体が小さいから。お嬢さんも怖くないということだろうか?

 それとも、私と違って何か別の役割が与えられていたのだろうか?

(いや、お嬢さんが心の広い女だからか……)

 自分の姿を見て良い感情を浮かべている子供達を放っておけなかったのか。

 ただよくよく思い出してみると、お嬢さんは子供の足元には決して留まらない。そこが路上だと分って留まるのは危険と知っての事だと思っていたが。

 子供達に背中を手の平で撫でさせているが、それだけですぐそこを通り過ぎ、決して腰を下ろしたりはしない。――私にはよく、その場に留まり腰を落としてくつろいでみせてくるのに。

 子供たちとは、それが丁度いいのだろうか? そして私には、これがちょうどいい?

 ……本当は、私にだけ我儘を言って、甘えてくれていた?

 だとしたら嬉しいものだが――


――チリンリンリン。


 まあ、いいか。

 私は今日も今日とて同じ挨拶を繰り返す。これまで学んだ、礼儀作法に則った、私達だけの挨拶を繰り返す。

「こんにちは、お嬢さん?」

「ニャー」

 他人は他人、私は私。

 私とお嬢さんは、こうして仲良くなっていくのだ。

 

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