第3話 猫の『お嬢さん(仮)』。


 また、彼女が我が家を訪れた。

 あの猫だ、雉柄白足袋の彼女である。

 古風な組子細工の鈴付き――和装の子猫。

 


 彼女が来るようになって既に数日、私はこの毛むくじゃらの彼女と顔を合わせる。 

 今日はどこかへ行くつもりだったのか、ん? と瞼を広げ、不意打ちされたよう私に目を向けてきた。

 そして幾何いくばくか私を凝視したかと思えば、そのまま彼女はそこで足を投げ出し、しゃなりと横這いに肘を着いた。

 ソファーの上、カメラに向け裸体でうつ伏せに寝そべるような。

 魅惑のポーズ――下腹部を開け広げ、全景で淡く猫の体のしなやかさ、そしてくびれを強調し、そこ彼処の柔らかさと丸みを見せつけてくる――

 何故、そんなセクシーポーズを? しかし意図は分かる。

「……いいんですか?」

 誘っている。この雌猫、さそっていやがる。

 と、自分を盛り上げてみたり。

 とりあえず慎重に、そっと近づく。

 私の爪先が、彼女の手前一歩のところまでゆっくり来ると、私から視線すら外し、お腹をダラ~ンと仰向けに広げて見せた。


 ――さあ? 来なさい? 


 と言わんばかりのその姿勢は、間違いなく、遊んで欲しがっている。

 まったく……どこでそんな手管を覚えてしまったのかな? 

 一匹の雄の前で、だらしない姿を見せることがどれだけ危険という事か分っていないなんて……けしからん。

 まあ、子猫なので、微笑ましいだけだが。

 だがそれが罠であることも私は忘れていない――そこで手痛い目に遭ったのだ。

 まずは本当に触ってもいいのかを確かめよう。

 先日に倣い、人差し指を軽く曲げ、子猫の顔の前に置いて、まずそのご機嫌を窺う。

 それをスンスンと、寝転がったまま鼻先で横着に匂いを嗅いだ。そして興味が失せたようまた地面に頭をだらりと置き背筋でうねり始めた。

 とりあえず噛み付かない、それを確認した私は今度こそ撫でてやろうと――

 否、まだ以前の失敗がある。

 ここで焦ってはいけない、様子を伺う――目の前に鎮座するふわふわでモコモコでぷにぷに気な猫のお腹は避けることにしよう。その牙が届き辛い、後ろ、頭、耳裏――に狙いを定める。

 私は人差し指を慎重に運んだ。

ふわりとした雉柄の毛並み、そこを爪先が潜った。

 ふに、とした柔らかな地肌に指先が触れた。よし、ここから一掻き――

 二掻き、三掻きすると、


「――フシャア!?」 

「――ほわ!? 痛たっ!」


 やはりこうなった。カプッ! っと。

 だがもう何度目という奴なので驚きはしない。……しかし、以前のそれより、幾分鳴き声に険があった。

 噛み付き方に手心を感じなかったというか。無邪気に遊んでいる雰囲気ではなく、ただ普通に怒ってイラッとして噛んだというような。

 鋭い目つきに、苛立ち、負の感情が込められていたというか。

 逆風が吹いている様である。


 ……それなのに、ややあってまた私の前で寝転がる。

 不貞腐れているのかな?

 相変わらず、この子猫は構って欲しいのか欲しくないのか。

 いや、今のは明らかに怒っていたのだろう、だがその理由が分らない。

 これが猫と人の文化の差だろうか? それとも私が鈍感なのか。

 しどけないポーズで男を誘って、いざその体に触れるとなると拒む。それなのに、また私の目の前で無防備に寝転がり地面の固さを背中で堪能している。

 とりあえず、今日はもういいだろうと私が立ち去ろうとすれば――脛に体を擦り寄せ、甘えた仕草でまた纏わりついてきた。

 おい、いい加減にしてくれ、一体どうしたいんだこの雌猫は。だが私も根気強く、寝転んでいる子猫の前にまた手を伸ばす。

 鼻で指の匂いを嗅いで、また興味を失ったようすぐ放置――そして私の指先が耳裏を一掻き、二掻き。三掻きするかしないかでお嬢さんがまた牙を剥き出しにした。

 しかし今度は流石に噛まれる前に躱した。

 ふぅ、と慣れた溜息を吐く。そして子猫も休憩か足を崩してくつろぐよう顔に手に内股にと毛繕いをし始める。またそんな隙だらけにして……やはり私のことは嫌いではないのだろうか? とりあえずは安全な男だと思っている様子ではあるが、

「――おまえは本当に一体何がしたいんだい?」

 心を許しているのかいないのか。それともそれは許しても、体は許さないとでも? まったくとんだ清廉さである。

 君が気高くも奔放な女の子であるのは分かったのだが、

「……本当に、どうしたいんですかねえ?」

 しみじみ思う。

 一体、私に本当は、何をして欲しいのか。

 私に一撫で二撫ではさせ、それ以上は拒む。

 全く触らせないわけではないけれど、一撫で二撫だけ、それ以上は『いいえ』であるそこに、一体どのような意味があるのか?

 本当に私に愛想を尽かしているのなら二度と近寄らない筈、単に気分の問題なのか? 一撫でした直後からお嬢さんの気持ちは変わっているのだろうか? 付け加えて言うなら手の平で撫でるのも絶対ダメだ。触れて良いのはあくまで指先のみで、掻く場所は耳裏から後頭、それに頬まで――お腹や背中、顎下や胸元なんかは絶対ダメだ。

 猫と人の交流――そこには眼に見えないルールが存在しているようなのだが、いったいそこにはどのような目的と動機があって、そしてそのルールの先に何があるのか。

 分らない事だらけである。猫と遊ぶのって、こんなに面倒があるのか。それはこの猫だけなのか、それとも他の猫もなのか。

 分らない。だがしかし、

「おまえ、ほかのところへ行かないんですか?」

 ぺろぺろと、毛繕いを相変わらず続けている。私が諦めるまでここにいるのかな? なら私も、彼女が愛想をつかすまで傍に居続けようと思うのである。

 長く傍に居るなら、相手の事を理解するべきだろう。

 その為に、この猫の事を考える。

 最初の一撫で二撫でまで――この不文律――

 それに猫の何があるのか?

 この猫は一体私に何を求めているのか。

 私はじっくり首を傾げる。


 ……。

 ………………。

 ふむ――。


 最初の一撫で二撫で――それ以降を拒絶する。

 この仕草を言葉に変えるなら?

 これはいい、それはダメ? それはここまで、これ以上はイヤ――?


 まるで、挨拶以上の事を許さない、というような?


 もし裏表なく、そのとおりの意味なのだとしたら……?

(……あまり気安くするな、ということかな?)

 いきなりお腹をモフモフ触ろうとする――それはかなり不躾なのではなかろうか? 人間に置き換えるなら、それはいきなり女の腹を揉もうという行為なのでは? 

 そう考えると確かに――それは激昂されても仕方が無いものだと思う。

 彼女の怒りは正当なものだ――女性に許可なく挨拶以上の行為に及ぼうだなんてとんだ不作法、そしてとんだセクハラでしかない。

 となると、多分、猫から見た猫と人間のお付き合いの仕方、とでもいうのだろうか?

 そういうものがあり、それをお嬢さんは手取り足取り私に教えてくれているのではないだろうか?

 という気はするのだが……。

 でも何故、そんなことをしてくれるのだろうか?


――。

 ……それは多分……知人と戯れるなら、そこで気持ちよく過ごしたいだろう。

 そこで必要なものこそ、礼儀作法ではなかろうか?

 気持ちの良い態度、立ち居振る舞いはそれを見る者の気持ちを穏やかにする。お辞儀、敬語、握手、砕けた態度――どれも上手く振る舞えればとても心地良い時間になるだろう。このお猫様は私にそれを求めていたのではなかろうか。

 そこで私に、猫への礼儀作法を身に付けさせようと厳格に接していた?

 まるで名家の貴婦人とでもいうような厳格さと寛容さ、深い知性と品性に支えられる貞淑さと高潔さ……母なる愛とも呼べる心を持った女の中の女――

 これぞ立派な淑女レディ――小さな体ながらも、とてつもなく大きな、素敵なお嬢さんだ。

……そうか……うん、そうだな………。

 うん、これからは、彼女の事を『お嬢さん』と呼ぶことにしよう。

 ……それはともかく。


 だとしたら、なんてことだ。

 やはり私はとんだ思い違いをしていた。

 この猫が、私を前にして寝転がりお腹見せるのはそれが彼女に触れる許可だと思っていた。だが実際には、『あら、おはよう?』という挨拶にもならない挨拶であったのだ。それは好意というより厚意で『さあ、私に挨拶しなさい?』と切っ掛けを与えてくれていたのではないのか? 猫に不慣れな男に。私はそんな女性の慈悲深く何気ない行為に「あれ? こいつ俺のこと好きじゃね?」と勘違いも甚だしい対応をしていた?

 作法を弁えることは『仲』を弁えることだと私は思う。もっと言うなら『仲を良くする方法を』だろうか?

 そこで私とこの猫との、正しい間柄は?

 まだ出会ったばかりの……多少親しい、顔見知りといったところだろう、おそらく自他ともに認めるような友人ではない、これを他人に紹介するなら「ただの知り合い」なんて説明するのではなかろうか?

 そんな私と彼女の仲――それに相応しい方法は……やはりきちんとした挨拶からだろう、そしてそれ以降の馴れ馴れしいボディタッチの禁止――

 私は急激に考え込む頭を抱えた。これまで私がしていたことは――

 ありていに言って、しつこいナンパである。それも気持ちの悪いナルシスト系だ。

 恥ずかしいどころではなく、もはや残酷なくらい痛々しい吐き気を催すクズだ。

 私はなんて愚かな男なのだ。しかしこの猫はそれに十分すぎるほどの配慮をしてくれていたのだ。

 なのに、勝手気儘で身勝手で、奔放だなんて思ってしまって。

 それでも寛容に、根気強く、慈悲深く導こうとしていただなんて。

 ……まるで菩薩様か聖母様のようではないか。

 うつつの眼が見開かれる。

「……猫さん、貴女ひょっとして……とてつもなく『良い女』なのでは?」

 私は目の前に鎮座するお猫様に向け、そう口遊んだ。

 愚鈍で礼儀知らずな男を一端の紳士に育て上げる、それがどれほど難しいことか。根気よく、辛抱強く、それを見放さず、見過ごさず、良き隣人として接する。これがどれだけの苦難なのか、それは人の社会を見ていれば分るだろう。

 それを平然とやってのける――これは大変魅力的な女性であると言わざるを得まい。

 この雉柄を羽織った背中と、ふわふわの白の毛並み――その小さな体には一体どれだけの魅力が詰まっているのか。私は猫と触れ合う楽しみをまた一つ見つけてしまったのだ。


 さて、となると、もう一つ気になることがあるのだが……、

 私はふとそこに腰を下ろすお嬢さんへ、神妙な視線を向ける。

「……お嬢さん、お嬢さんは私の事……どう思ってるんですか?」

「……」

 私を寛容に見守ってくれていたわけだが、それは、私になんらかの伸びしろを感じてくれていたのだろうか?

 それともこれまでの時点で、何かしらの評価点があったのだろうか?

 人が猫に願うように、猫は人に何を願うのか――

「……割と、どうでもいい男なんですかね?」

 その問い掛けに、お嬢さんは目もくれず脚の毛繕いをペロペロとしていた。

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