女性の顔

増田朋美

女性の顔

女性の顔

雨が降って、梅雨時らしい一日であった。幾ら雨は嫌だいやだといっても、やっぱり例年通り雨が降ってくれるような天気が、一番安心するのだと思う。誰でも、そういう気持ちは持っていると思うのだ。だからこそ、人間は、安心して生活できると嬉しくなるのだと思う。

一日がうごいているのは、人によって時間の使い方は異なると思う。朝活動する人もいるし、夜になってから活動する人もいる。各家庭によっても違うだろうし、施設というか、企業やグループによっても違うと思う。今日が重大な日になっている人もいれば、そうではなくてのんびり過ごしている人もいる。

では、この製鉄所の場合はどうか?

その日、製鉄所の応接室では、理事長のジョチさんが、ひとりの女性の面接を行っていた。隣には、杉ちゃんもいる。一体何をしているのだろうと思ったら、女性のほうが様子がおかしいのである。誰かがいるわけでもないのに、後を振り向いたり、横を向いたりして落ち着かないでいる。服装は、何処かのファストファッションショップでかったような、ジャージを着こんで、明らかにおしゃれをするのとは、遠ざかった服装をしている。髪は染めておらず、黒くて長い。多分きっと、おしゃれが嫌いということではなく、別の事情があって、おしゃれをしていられないという感じの女性だった。

「まあ、そういうわけで、彼女の名前は蒔田篤子さん。症状は、見ても分かる通り、ポン中だ。今日ね、何だかすごく悩んだ様子で、蘭のところに来たんだよ。聞けば居場所が無いっていうからよ、ここで勉強でもしていれば、少し時間の経ち方も変わってくるんじゃないかなと思って、連れてきたわけ。」

「そうですか、、、。」

ジョチさんは、杉ちゃんの隣に座っている女性を見た。

「ポン中。つまるところ、覚醒剤ですね。何かやらなければならない事情でもあったんでしょうか?」

とりあえずそう聞いてみる。

「いや、ただ、どうしても勉強がはかどらなかっただけで。」

と、蒔田篤子さんは答えた。

「どうしても楽になりたかったんです。学校の先生からは、なんでこんな問題もできないのかって叱られるし、親には、いい大学にいけなくなってしまうからと言って、期待されるし。」

「つまり、受験勉強に疲れてしまって、覚醒剤に手を出したんですか。一体何処から入手したんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「インターネットの通販サイトからです。同級生に教えてもらって、注射器を使いまわしていました。」

と、彼女は答えた。

「その、注射器のあとを消したいと言って、蘭のもとにふらりとやってきたんだよ。だから、連れてきたというわけだ。」

杉ちゃんが付け加えた。ジョチさんは、多分杉ちゃんではなく蘭が、ぜひ製鉄所へ連れて行ってやれと御願いしたのだとすぐに推量した。全く蘭さんも、困ったモノだと、ジョチさんは思った。蘭さんの事だから、彼女の事情を聞いて、多分刺青を彫って消してしまうよりも、二度と覚醒剤に手を出さないようにするためにそのままにしておけとでも言ったのだろう、ということである。

「まあ、お話しはよくわかりました。以前にも、そういう薬物に手を出してうちで過ごしたいというひとは居ましたから、ここで勉強してもいいですよ。でも、ほかの利用者さんたちに迷惑をかけないように、気を付けてくださいよ。ちなみに、禁断症状のようなモノはありますか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「はい、たまに幻聴が出ることはありますが、それ以外に何もないので。」

と、彼女、蒔田篤子さんは答えた。

「わかりました。じゃあ、この製鉄所に通称する事を許可しましょう。」

と、ジョチさんが言うと、杉ちゃんも彼女も嬉しそうな顔をした。杉ちゃんなんて、よかったな、本当によかったなと言って、篤子さんの肩を叩いたくらいだ。

そういうわけで、蒔田篤子さんが、製鉄所の新たな利用者として、毎日通うようになったのであるが、、、。

実際に彼女が製鉄所に通ってみると、彼女の症状は、想像を絶するものであった。もちろん、似たような症状を出す利用者はいるが、それが特にひどいのだ。つい最近までほかの利用者と一緒に勉強していたが、いきなりやくざが襲ってくると言って、大騒ぎをする。散歩に出かければ通り魔が襲ってくるから外へ出ないと泣き叫ぶ。それだけではなく、彼女はかなり重度の退行のようなものがあり、食事をさせればまるで犬食いで、箸が使えず、しまいには手づかみでカレーの具材を食べた事もある。まさしく、覚醒剤のせいで人間をやめて、動物になってしまったという表現がぴったりの人物だった。

これには、ほかの利用者たちも参ってしまった。症状さえ出さなければ、普通の女性という感じなのに、それが出たら、全然違う物体になってしまう。

その日、杉ちゃんたちが、食事をしている時の事であった。篤子さんも一緒に食事をしていたが、隣の席の人がぶつかって、篤子さんの湯呑を落としてしまった。こうなると、別の湯呑を用意して、あらたにお茶を入れなおすというのが通例だが、彼女は床にこぼれた水を、まるで犬のようにべろべろとなめだしたので、みんなびっくりしてしまう。流石に、彼女に声をかけるのは、ちょっと怖くてできない。やめろといったら、もしかしたら、反撃されてしまうかもしれないし。皆、おびえた顔をしながら、彼女が床をなめているのを見ているしかできなかった。

「はあ、なるほど。そんな事をやらかしましたか。」

用事が終わって帰ってきたジョチさんは、杉ちゃんからの報告を聞いて、大きなため息をついた。

「そうなんだよ。全く困った奴だよな。もうさ、ヒロポンのせいで、おかしくなっちまったというのは、戻らないのかなあ。」

杉ちゃんが困った顔をしてそういうことを言った。

「乱用していたのが、長かったんでしょうか。」

確かに、こういうものは、長ければ長いほど、症状は重たくなるのは当たり前の事である。

「いずれにしても、彼女がおかしくなった時、とめる技術を持っている奴が必要であることは間違いないな。こういう時は餅は餅屋だ。ちゃんと、ヒロポンから、切り離すという事をやってくれる奴を探さなきゃ。こういう時は、ちゃんと専門的な知識のあるやつに頼もうぜ。」

「そうですねえ。」

杉ちゃんの話しにジョチさんも言った。

「僕もそのほうが良いと思います。素人が下手なことをするよりも、そういうテクニックを持っている人に一寸協力してもらいましょう。」

そう言ってジョチさんは、手帖を開いて、スマートフォンを取って何軒かのところに電話をかけ始めた。でも、いずれの連絡先も、人が足りないという理由で引き受けてくれないようだった。今の世のなか、こういう分野が繁盛するということは、日本が治安が悪くなっているという事でもあるのだが、同時に生きにくい世のなかになっているという事である。

しかし、一番最後に電話をかけた人物は、分かりました協力いたしますと返事をしてくれた。でもジョチさんは、それがなんの役にたつのかという顔をしている。ということは、あまりこの人に頼んでも成果はないという事だろうか。杉ちゃんは、そのあたりは、あえて聞かなかった。

その次の日も、蒔田篤子さんは、製鉄所にやってきて、ほかの利用者と一緒に、通信教育の勉強をしていた。彼女なりに一生懸命やっているが、どうしても頭に入らないと彼女は言った。ほかの利用者たちも、彼女に親切に勉強を教えてくれる人もいるが、それはあくまでも、彼女が暴れないようにするためであって、彼女を本当に慕って勉強を教えてくれるのではないということが見て取れた。そういうわけで、ほかの利用者たちは、蒔田篤子さんに対して、だんだん余所余所しくなった。篤子さんも、だんだんそうなってきている事を感じ取っている。それに容赦なく、篤子さんは、やくざに襲われるとか、そういう幻聴を口にする。これではほかの利用者たちも、勉強や仕事がはかどらなくなるだろう。でも、彼女を捨てるわけにはいかない。非常に困った問題だった。

ジョチさんと杉ちゃんは、今日もそのような苦情を利用者から聞いて、困ったな、本当に彼女をどうしようか、ほかの施設に移そうかとか、話していた。その時、

「正門から、玄関の戸まで、一歩、二歩、三歩、、、。」

と、つぶやく声が聞こえてくる。

「あれ、今時誰ですかね。」

ジョチさんが小さい声でつぶやくと、

「ああ、あの特徴的な勘定の仕方は、間違いなく涼さんだ。」

と、杉ちゃんが言った。ジョチさんは急いで立ち上がり、玄関先へ迎えに行ってみると、同時にガラガラっと玄関の戸が開く音がして、白い杖を持った古川涼さんがやってきた。

「こんにちは。今訪問して、お邪魔ではありませんか?」

と、涼さんは言った。盲人らしく、アポイントメントもなく、いきなりやってくるのが、通例である。

「いえ、大丈夫です。其れより涼さん、今日はどうしたんですか?」

ジョチさんがそういうと、

「ええ。あの、蒔田篤子という女性の過去を少し調べてみました。僕は直接関わることはできませんが、こういう事で役に建てたら、嬉しいと思いまして。」

涼さんはそんな事を言いだした。

「ああ、ありがとうございます。応接室へ来ていただけますか。」

ジョチさんは、彼を応接室へ連れて行った。涼さんは、鴬張りの廊下を、白い杖で探りながら、応接室へ入った。

「で、彼女、蒔田篤子さんの事について、何か分かったことはあったのか?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ。彼女の通っていた、高校に行ってきました。担任教師は退職していましたが、ほかの教師から話を聞くことはできました。彼女は、其れなりに裕福な家庭であったようですし、彼女は、期待をされすぎているという話をしていましたが、彼女の両親は、そのような事は望んでいなかったようです。」

涼さんは、ジョチさんに促されて椅子に座りながら答えた。

「そうなんですか。分かりました。やっぱり薬物乱用とか、精神疾患患者によくある勘違いなんですけど、どっちかが黙っていればいいなんて事は、絶対ないんですよ。喧嘩をしあうということができるほど、幸せな事はありませんね。」

「ほんとだほんとだ。喧嘩するほど仲がいいは、名言だな。」

ジョチさんも杉ちゃんも、顔を見合わせてそういいあった。

「しかしですね、それだけで、本当に覚醒剤を使うようになったきっかけはあるんでしょうか?そういう勘違いはあったとしても、そのようなことだけで、薬物に手を染めるような理由になるのかな。たとえば、ほかの同級生や、先輩方等で、彼女の勘違いをとめさせてくれる人物が、すくなくともいたはずですが?」

「それは昔の話し、今は時代が違うの。学校の同級生の顔を全く覚えていないというやつはいっぱいいるじゃないか。それに、ジョチさんがいうことが本当だったら、学校が始まる日に自殺しちまう奴がこんなにいっぱいいるはずがないだろ?」

杉ちゃんは、ジョチさんの疑問に即答した。

「まあ確かにそうかもしれませんね。学校でひとりも友達ができないというかわいそうな女性は沢山いますからね。」

「それだけとは、限りませんよ。もっと別の理由がありました。軽く話せる事ではない、重大な理由です。」

ジョチさんがそういうと、涼さんはそれを打ち消すようにいった。杉ちゃんもジョチさんもはあ何だろうと、涼さんの顔を見た。

「ええ。丁度、吉永高校を訪問して、養護教諭の先生と話をすることができたんですが、彼女、蒔田篤子さんは、いじめにあっていたそうです。其れも、彼女のお爺さんが、沖縄出身のアメラジアンだったため、それを面白がっていじめていたとか。」

「アメラジアンって何だよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、沖縄が、アメリカに占領されていた時、米兵と日本人の私娼との間に生まれた子供さんの事ですね。今の沖縄県知事だってそうでしょう。まあ確かに、日本に住んでいる以上、そういう事があっても不思議はないでしょう。なるほど、涼さん、貴重な情報をありがとうございました。」

ジョチさんは、しんみりといった。杉ちゃんたちもしばらく黙った。自分たちには関係のない他人事みたいな事だけど、そういう少数民族ともいえるような、日本人も少なからずいるのである。そして、幸せすぎる環境で育った子供や若い人たちは、自分たちと少しでも違う要素があると、排除しようとか、面白くなってからかってやろうとか、そういう悪意をもってしまうのである。

「そうかそうか。何だそれくらいの違いか、くらいにしてくれればいいのによ。何か知らないけど、そういう風に事件にしちまうのが、日本の学生だ。なんとかならないものかなあ。それを切り離すには、やっぱりできるやつとできないやつで、分離してしまうしかないのかなあ。」

杉ちゃんが、間延びした声でそういうことをいった。

「そうですね。じゃあ理由がはっきりわかったんですから、彼女をどうするかを考えましょう。まあ、覚醒剤による、症状をとめるには、医者でないとできませんから、僕たちにできることは、彼女が二度とそういうものに手を出させないようにすることだけです。まあ確かに、苦難を乗り越えるには、同じ経験を持った仲間を作ることがひとつの決め手になると思いますが、、、。それを用意させるのは、今回のケースでは、難しいと思いますね。」

ジョチさんは腕組みをして考えこんだ。

「そういうことから、なかなか精神科を退院するのは難しいという理由にもなってますよね。先ほど杉ちゃんが言った通り、日本はなんでも分離して共生という事はしませんからね。そういう世界じゃないですから。そうなると、似たような境遇の人間と会わせるというのは、刑務所しかないと思いますよ。」

涼さんのいう通りだった。犯罪がフランクに語れる国家もないわけではない。そういう国家に比べて見ると、日本は色んな人がいていいじゃないかという考えは存在する国家ではないのである。

「まあ、そうなると、時間が味方してくれると考えるしかないんじゃありませんか。こういう風に、誰も悪いわけではないんですけど、悪くなってしまうという事例はよくある事ですよ。人間には、其れしかできないこともあると、もう少し、限界を知ってもらわないと。」

結局学ぶことはそれだけである。人間はもうちょっと、自分たちの限界を認めることと、お互い助け合っている必要があると知らなければならない。

「まあでも、今回は、蒔田篤子のそういう情報がえられたので、よかったことにしましょう。もしかしたら、彼女が症状をだした時、役に立つこともあると思います。そのための材料がえられてよかったです。」

ジョチさんは、とりあえず今回の話を纏めた。又これからも、大暴れということもあるだろうが、ほんのちょっとでも、彼女が人間らしい一面を見せてくれれば、それを利用することもできるかもしれない。

其れと同時に、四畳半の近くの縁側で、蒔田篤子さんは、リンゴを食べていた。彼女は意外に手先が器用だった。リンゴの皮を向くのも、リンゴを切るにも苦ではないようだ。リンゴは丁寧に皮をむいてあって、シッカリと形を整えられて、切られていた。

するとそこへ、一匹の白いフェレットがやってきた。このフェレット、つまり正輔君は、前足が一本かけていて、ない。もう一本の前足と、残った後ろ足をかろうじて動かして移動している。それはある意味かわいそうだと思える。

「ちーちー。」

と、正輔君が声をあげると篤子さんは、

「欲しいの?」

と声をかけた。正輔君が、ちーち―ともう一回返事をすると、

「はい。どうぞ。」

篤子さんは、リンゴを正輔君の前に置いた。正輔君はうれしそうにリンゴにかぶりついた。同時に四畳半のふすまが開いて、水穂さんが、篤子さんのそばにやってきた。

「篤子さん、輝彦君にも、リンゴを一切れ分けてやってくれますか。」

水穂さんは、輝彦君を抱っこしている。茶色いフェレットの輝彦君は、後ろ足二本が欠損して歩けなかった。でも、食欲だけはあって、いかにもリンゴを食べたそうな顔をしている。リンゴはあと一切れしかなかったが、篤子さんはリンゴを二匹フェレットにやってしまうことにした。

「どうぞ。」

篤子さんは輝彦君の近くにリンゴを持っていった。水穂さんが輝彦君を床の上に置いてやると、彼は、すぐにリンゴにかぶりついた。

「おいしい?」

二匹は、満場一致で嬉しそうな顔をしている。それがもし、人間の言葉だったら、なんといってくれるだろうか。ありがとうとか、そういうことだろうか。二匹とも楽しそうだ。

「こういうことで、直ぐに嬉しそうな顔ができるフェレット君はたちは幸せね。」

篤子さんは、小さい声でにつぶやいた。

「ええ。それくらいで僕たちも幸せだとおもえれば、それでよかったと思うことは、ありますよね。」

と、水穂さんもそうつぶやいた。それを聞いて、篤子さんは一寸意外な顔をして水穂さんを見る。

「水穂さんも、なにかいけないことが在ったんですか?」

そう聞いてみるが、水穂さんは、答えを言わなかった。

「そうですか。それはきっと、大変な事があったんですね。私以外にもいてくれて一寸ほっとしました。」

水穂さんの目を見て、篤子さんはそういうのだったが、水穂さんは何も言わなかった。

「あたし、わかるんですよ。苦労してきた人の顔って、なんか特徴があるんですよね。リンゴを食べているフェレット君もそうだけど、不自由なところのある人って、みんな美しい顔をしていらっしゃるって。あたしには二度とそういう顔はできません。」

「でも、正輔君たちにリンゴをあげることができたではありませんか。其れだってできない人のほうが多いのに。」

水穂さんは、そうつぶやいた。そうでしょうか、と、篤子さんは真剣な顔をして考えこんでいる。それは、薬物中毒者の顔ではなく、ちゃんとした女性の顔のような、そういう顔だと思われた。


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女性の顔 増田朋美 @masubuchi4996

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