EXTRA 罪人は業火に焼かれ 前編

 私が人生で初めてお付き合いすることになったのは渡瀬翔騎わたせしょうきさんという人だった。医者を目指す誠実そうな男性で私より5つ年下だった。


 彼の妹は私の勤務先の高校に通う生徒で、しかも私の受け持つクラスの生徒だった。彼と付き合っていることが公になれば妹の翔子さんを贔屓しているのではないかと疑われてしまう可能性を考慮して、付き合っていることは周りには秘密にしていた。


 彼と知り合うきっかけになったのは他でもない翔子さんだ。彼女が学校で倒れたことがあってその時彼女の様子を見に学校まで来たのがお兄さんの翔騎さんだった。私のどこを気に入ったのか、それを切っ掛けに彼はよく私に連絡をくれるようになり気づけば恋人同士の関係になっていた。


 だけど……


 彼と付き合い始めて数ヶ月が経った頃、私は偶然にも彼の浮気現場を目撃してしまったのだった。


 私は彼の住んでいるマンショに出向いてその事を問い詰めた。だけど彼は浮気を認めなかった。「彼女は同じ医者を目指している友達だ」の一点張りで頑なに譲らない。


 冷静になって考えてみれば私が見たのは2人が一緒にレストランで食事をしているところだけ。確かに浮気でないといえば浮気ではないのかもしれない。だけどその時その女性に向けていた彼のあの笑顔……あんなに楽しそうに笑う彼の表情は見たことがなかった。

 仮に浮気ではないにしても私に向けられたことのない笑顔が他の女性に向けられているということは許せなかった。


 自分がこんなにも嫉妬心の強い醜い女だったのかと自覚させられた。


 私は一度冷静になって矛を収めその場を後にしようとした。そのタイミングで来客があった。厚化粧とハデな服装で、夜の仕事でお金を稼いでいるような印象を受ける女性だった。


 その女性は何食わぬ顔で家に上がり込み、私の姿を見るなり親の仇を見るような目で睨みつけてきて、無言で平手打ちをしてきた。


 あまりに突然のことに気が動転する私。その私に追い打ちをかけるように彼が言う。


「この女は昔付き合ってた女なんだ!! 俺のことが忘れられないらしくてこっちも困ってるんだよ!!」


「……ぇ?」


 耳を疑いたくなるような言葉。


 熱を帯びた頬を抑えながら彼を見ると、彼は縋るようにして彼女に助けを求めていた。


「何考えてんのよアンタ!!」


 厚化粧の女性のボルテージが上昇する。


「――! ちょっとまってください!」


「ウッサいわね!! 警察呼ぶわよ!!」


 彼女は私の意見に耳を貸すつもりはないらしい。だけどこれだけはちゃんと説明しなければならない。今目の前にいる彼女はレストランで見た女性とは別人。つまり彼女もまた彼に浮気をされているかもしれないのだ。いや、そもそも私も彼と付き合っているのだから彼女が浮気されていることは紛れもない事実だ。


 要するに彼女もまた被害者。


 だからここは冷静に話を――


「いぎゃ!?」


 私は彼女に髪の毛を捕まれ床に引き倒された。


「痛い! 痛いですって!」


 私はそのまま引きずられるようにして部屋の外へ放り出された。


「二度と来んじゃないわよ!! この変態ストーカー!!」


 追い打ちと言わんばかりに彼女が玄関にあった私の靴をこっちに投げてきた。それが私のおでこに当たった。


 すごく痛かった。


 私はしばらく立ち上がれず、立ち直れず……その場で膝を抱えて声を押し殺して泣いた。あまりにもあんまりな仕打ちだ。


 彼の言動を見る限りこっちが遊ばれていたのは確実で――


「私……、騙されてた……?」


 また涙が溢れてきた。


 するとそこにひとりの男性が通りかかった。


「あの、大丈夫ですか?」


 スーツ姿のサラリーマン。とても誠実そうで――


「――うっ!!」


 ――だから私はダメなのだ。


「男なんて……。男なんて嫌いだぁ!!」


 私は勢いよく立ち上がり靴を手に裸足で逃げ出した。


 …………


 どんなに不幸なことがあっても人生は続く――


「はぁ……」


 ため息ばかりで学校の業務も手につかない。


 できることならもう一度人生をやり直したい……と、くだらない幻想に思いを寄せるほどに精神が参っていた。


 さらにそこへ輪をかけて悲劇が襲う。


 妊娠が発覚したのだ。相手は言わずもがな彼だ。私は彼としかカンケイを持ったことがないし、妊娠する可能性に思い当たる節があるので当然の帰結と言えた。


 生む……という選択肢はなかった。罪悪感がなかったわけじゃない。だけどひとりで育てられる自信などなかったし、生まれてくる子どもが彼の不誠実な遺伝子を持って生まれてくるのだと思うと恐怖を抱かずにい入られなかった。


 罪のない命を終わらせなければいけないことの責任――


 それをひとりで背負わなければいけない重圧――


 強引な彼の申し出を断れなかった私にも否はあるのだろう。だとしてもあんまりだ!


 どうして私だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか……!!


 私の中にある彼に対する怒りが明確な殺意に変わった瞬間だった。


 思い立ったが吉日――あるいは凶日か――私は彼に罰を与えることにした。


 ……………………


 …………


 私は商店街にあるぼろアパート、通称幽霊屋敷が燃える様を見ていた。夜の闇を轟々と照らす炎のなんと美しいことか。そしてその中には気を失っているあの男がいる。このまま火の手が内部に回れば炎に巻かれ彼は焼け死ぬことだろう。


「罪人よ、業火に焼かれて己の罪を存分に悔いるがいい」


 昔なにかの本で読んだセリフを諳んじる。


 最後まで見届けたかったがそうは行かない。私は現場から立ち去ろうと振り返った。


「!?」


 するとそこには目隠しマスクを付け黒いマントを羽織った変質者がいた。


 とはいえ、私は今学校で盗んだ学生服に目出し帽というあからさまに怪しい格好をしているので人のことをとやかく言える立場ではないのだけど。


 ――誰!?


 という疑問を抱いたと同時に相手が私に襲いかかってきた。


 しかも相手の目的は私に危害を加えることではなく目出し帽を取ることのようだった。


 それをさせまいと必死で抵抗すると相手のアイマスクが外れた。燃える炎に照らされ顕になったその顔は私が受け持つクラスの生徒、鳥海さんだった。


 どうして彼女がここに!? ――などと考えている余裕はなかった。マスクが外れた隙をついて私はもみ合いを制し、急いでその場から逃げ出した。


 …………


 完全犯罪という言葉はまやかしだ。


 新の完全犯罪とはその犯罪自体が表に出ないことだ、とはよく言ったもので、私は己の犯した罪を恥じていた。


 犯罪行為を反省したという意味ではない。なぜ燃やすという選択肢を選んだのかと悔いていた。


 あのときはあれが彼にとって最も相応しい処刑法だと思っていた。だが、アパートが燃えるという誰から見ても不審な事件が起きれば警察の捜査が行われるの必然だった。


 そうして疑いの目は我が校の生徒に向けられることになった。

 自分の正体を隠すために自分の勤めている学校の制服を拝借したのだから当然の結果だった。


 このままでは疑いの目が自分に向けられるかもしれない。私は疑われたくない一心で先手を打つことにした。

 火曜日の朝、学校に訪れた刑事さんの一人に声をかけ、とある情報を提供した。


 それは『犯行現場に鳥海さんがいた』という情報だ。嘘ではない。正真正銘彼女はそこにいたのだからこれは明らかな事実である。

 私がその話をすると刑事さんは深刻そうな表情で近くにいた別の刑事さんと話を始めた。その話はしばらく終わりそうになかったので私はそそくさとその場を後にした。


 これで大丈夫――


 この時の私は本気でそう思っていた。


 …………


 放課後。職員室にひとりの男性がやって来た。その人は私が今朝話をしたあの刑事さんだった。


「どうも。輪島美智子さんで間違いありませんか?」


「え、ええ。そうですけど? なにか用ですか?」


「いえね、今朝犯行現場付近で鳥海みな実を見たと証言していましたが、あなた自身は一体その時間そこで何をしていたのか気になりましてね、それを確認しに来たんです」


「……え?」


 この時になってようやく私は自らの犯した過ちに気がついた。疑われないためにとやった行為が完全に裏目に出てしまったのだ。


「あの? どうかしましたか?」


「あ……ええと……」


 私は返答に窮した。とっさに言い訳の言葉が思いつかない。私が何も答えないのを見かねてか刑事さんは追い打ちをかけるようなことを言う。


「実はですね。被害者の渡瀬翔騎さんは生前ストーカー被害に遭っていたという情報が入ってましてね。そのストーカーがあなただと言っている人がいるんですよ」


 警察は確信を持って私に疑いを向けていた。


 だけど私は断じてストーカーなどではない。きっとその情報を提供したのは“あの女”に違いない。


「えっと、その――」


 自分でもわかるくらい不審な態度だ。これでは自分が犯人ですと言っているようなものだ。


 とにかくなにか答えなければと焦れば焦るほどうまい言葉が見つからない。これはもう諦めるしかないのかと思ったその時だった。刑事さんの携帯が鳴った。


 刑事さんは二言三言ふたことみこと会話してをして電話を切った。


「一度署に戻らなくてはいけなくなったので今回はこれで失礼します。ではまた」


 刑事さんは慇懃無礼に謝って職員室から出ていった。私はほっと胸をなでおろした。正直生きた心地がしなかった。


 ではまた――か……


 それはまた私のところに来るということを意味していた。


 私は一体どうすれば……?


 そんな事を考えていると、廊下の方から騒がしい声が聞こえてきた。まだ残っている生徒がいるのかと辟易しながら職員室の扉を開けるとそこには4人生徒がいた。


 鳥海さんと織田さんに渡瀬さんと黒魔術部の三浦君だった。彼女らはどうやら無事に渡瀬さんを見つけることができたみたいだ。


 それはさておいて、私は夜遅くまで学校に残っていた彼女たちに注意した。すると、鳥海さんが代表するように前に出て私にこんな事を言った。



 ――先生って火事のとき現場にいましたよね?――



 口から心臓が飛び出るかと思った。つい先程まで警察とその話をしていたからだ。


 そういえば――


 あのとき犯行現場で鳥海さんともみ合いになったことを思い出した。


 ――バレていた? いや、そんなはずはない。私はずっと目出し帽を被ったままだったし身につけていた服もこの学校の制服だった。だから私にたどり着くことなどできないはずだ。


 そんな思いをよそに鳥海さんは、魔法を使って過去に戻って私が犯人である証拠を集めたのだと荒唐無稽な話を始めた。


 もちろんそんな話で私が罪を認めるわけがない。


 私を馬鹿にしているのかと怒鳴りたい衝動をぐっと堪え、冷静な態度で彼女を諭した。


 すると彼女たちは諦め帰っていった。


 それにしても困ったことになった。


 今回は刑事さんは帰っていったけど、次私のところに訪れたとき警察の追及を交わせる自信がない。


 証拠がなければそんなに簡単に捕まることはないだろうけど、気になるのはさっきの鳥海さんの話。

 彼女の過去へ戻ったという話を信じたわけではないけれど、彼女の言っていることはほんとんど正解だった。なにより火事の現場に彼女がいたことは紛れもない事実。


 彼女が私に話した内容をそのまま警察に話したら……?


「完全に私は逃げられない」


 一体どうしたら……


 このときふと閃いたのは鳥海さんが言っていたあの言葉だった。



 ――あたしは過去に戻って証拠を集めた――



 黒魔術部は私が顧問をしている部活だ。その部を発足させる際に三浦君が私に顧問になってくれと直談判しに来たのだ。当時なんの部活の顧問もしていなかった私は別に構わないと返事をした。ただし、黒魔術部とは一体何をする部活なのかはちゃんと訊ねた。

 すると彼は、その昔自分はその能力を暴走させて云々かんぬんという作り話を始めた。私はうんうんと適当に相槌を打ち聞き流した。その時は所詮は子どもの遊びの延長かと軽く考えていた。


 まさか本当にそなことが可能だとでも言うのだろうか……?


 もし本当にそんな事ができるなら、警察から確実に逃げる事ができるのではないだろうか……?


 このまま何もしなければ私は警察に捕まってしまう。だったら試して見る価値はある。


 私の足は自然と黒魔術部の部室を目指していた。

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