とある魔女のおまじない
――数年後。
とある海辺の町外れの丘に、姿を見せぬ薬屋があった。代金と症状を小窓に置いておくと、遅くて三日後、早くて半日後には依頼通りの品が出来上がっている、という不思議な薬屋だ。
「ふう……、少し休憩にしようかしら」
その薬屋の店主である若い女性――といっても見た目は少女だが――が髪をほどいて頭を振ると、癖のついた長い黒髪が腰まで下りた。
ところで、毎日薬の依頼をこなし、ほとんど町にも降りず一日の大半を丘の上の小屋で過ごす彼女には、密かな楽しみがあった。
「…………綺麗ね、本当に」
ため息が出るほどに美しいその光景。世界の色が変わるその瞬間。僅かな時間だけ見られる青の世界を、丘の上で眺めること。それが、彼女の楽しみであり、癒しの時間なのだ。
いつも通り美しい色にうっとりとしていると、彼女の耳に聞きなれない音が飛び込んできた。
「見て! とっても綺麗よ!!」
たしかに聞きなれないはずだった。だが、どうしても彼女の耳は、その音を、声を、素通りさせてくれなかった。
振り向いてはいけないと本能が警鐘を鳴らす。
封じ込めたはずの箱の中から、何かが飛び出してくる、そんな予感がした。
それでも、彼女は振り向いた。
「おい、ちゃんと後ろ見てるか?」
「もう、心配性なんだから。大丈夫、だいじょ……ッ」
あっ、と声を上げようとしたときにはもう遅かった。甲高い悲鳴と、必死に手を伸ばしながら絶叫する青年の声。
「アリスッ!!」
「ジャン……ッ」
間一髪で青年――ジャンが手を掴み、恋人と思しき女性――アリスは滑落を免れる。しかし、いくら男性と言えど足場が不安定な上、握力には限界がある。引き上げられるもわからず、助けを呼ぶ間に二人とも――という可能性もあった。
だから、彼女は。
――待ってて。絶対に助けるから
「Ventus, float!」
彼女はアリスとジャンのいる方向に全神経を集中させて、イメージを具現化させる。風は彼らを浮かせる。そして、ゆっくりと、丁寧に、芝生の上に下ろした。
「はあ……っ、間に、合った…………」
彼女――魔女であるソティアは、久しぶりの大掛かりな魔法に肩で息をした。「二人を助ける」。その意志だけで無我夢中で魔法を使ったソティアだったが、各地を転々としていたこの数年、薬を作る以外に魔法を使う機会はほとんど無かったのだ。
そして、当然ながら助けられたアリスとジャンは、何か不思議な現象を起こして自分たちを助けてくれた人物を探すべく視線をさまよわせ、未だ立ち去ることのできていなかったソティアを見つけた。
「あ……っ、もしかして、あなたが……?」
肩を支えられながらも、ソティアのもとまで歩いてきたアリス。ソティアはその顔を一方的に知っているが、アリスの方はもちろん知らない。自分より少し年下の、少女にしか見えない。
しかし、その肩を支えているジャンは違った。ソティアは魔女であり、その成長は人間よりもずっと緩やかなのだ。今のソティアは、数年前、ジャンが最後に見た姿とそう変わりなかった。
ゆえに、口を開こうとした。
「お前、もしかして、あのときの――」
「somnum」
開こうとして、そのままアリスとともに後ろに倒れ込んだ。その表情は安堵に満ちており、二人分の寝息だけが静かな世界を満たしていた。
その記憶から、この“イレギュラー”だけを、取り除く。
「Auferat memoriam」
ふわふわと浮き上がった“記憶”は、空に消える。
無かったことになるのだ。はじめから。
「ねえ、お母さん。これでいい、のよね……?」
誰かにそう言ってほしい。そう、願った。けれど、ソティアを導いてくれる人も、道を照らしてくれる人も、いない。
そう、これでいい。ソティアは自分に言い聞かせるように呟いて、彼の記憶からも、痕跡を消した。本来ならもっと早くにこうするべきだったのだろう。『旅立つ魔女は跡を消し去る』。これも、母が読んでくれた少し難しい本に書いてあったような気がした。
そして、もう一つ。母が教えてくれた、幸運のおまじない。
「beatitudo aeterna」
――どうか、永遠の幸せを。
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