第19話


隠れていないで出てこい。

いらいらと行ったり来たりしながら、何度となくこう呟いているのは、シルバーグレーの髪を撫で付け口髭を生やしダンディな細身のスーツがよく似合う五十絡みの目付きの悪い男だ。

足元には、大きなクーラーボックスが置いてある。その中には黄金に光る鱗で覆われている異界のものが入っていた。


以前、神保町に用事があって行った時、古書祭をやっていてふと見た棚に自分を呼んでいる本があった。

普段は人が触って家に置いていた本など汚らしくて手に取る気にもなら無い古本だが、この本は違っていた。男のところに来たがっていたのだ。

男のこの本に見つけられた時の喜びをなんと表現したら良いのか。体が震える程の喜びとでも言ったらいいのだろうか、理由は後から徐々に明らかになっていった。

この本は、男に欲しい物を手に入れる術を教えてやると囁くのだ。

男は今、本の言いなりだ。

それで今の地位を手に入れられたのだから。


男は思い出す。冬至に取り損ねたのは悔やまれる事この上ない。

やっと探し当てた西湖の近くにある鏡池の縁に祭壇を高く拵えて供物を置いた。その供物を取りに来たところで、縄まで掛けたのに。

燻銀の鱗を落としていったあの怪物こそ、この世を操れる龍なのか。あの龍を手に入れ、その体から宝玉を抜き取りる。それをこの自ら育てた黄金の龍に授けさえ出来ればこの世は、思うままに動かせると、そう本は囁きかけるのだ。

あの後池の水が枯れてしまった。他に誘き寄せる池を探すしか無い。残る機会は、今日の大晦日しか残っていないのだ。

必ずやあの怪物を捕まえ我が手で愛で育てた黄金の龍を、次の代へ据えてやろう。


龍神伝説の有る、忍野八海にある池の前に佇み鞄の中から、次々とお菓子を出していく。

龍に与える供物は、初めは本の言う通りに作ってみたが、料理も下手な上、自分は甘い物を食べないので一向に上手くならない。

試しに買って行った羊羹をやると、それでも済む様だったのでそれからは、買って与る様になった。冬至に捧げる池への供物も目についた菓子を適当に買って捧げていた。

今日は、池を探すのに手間取ったので普段はデパ地下で買っていた菓子だったが、来る途中のコンビニで手当たり次第買った物だった。

鏡池と小さな立札が、観光客向けにひっそりと立っていた。間違いないと確信して、菓子を無造作に包装紙を剥ぐのももどかしく次々と池の周りに並べ立てる。そして一つ池に落とす。

鞄の中から本を取り出すと、熱くて取り落としてしまった。

パラパラと風がページをめくる。

開いた箇所の文字が光る。それは本がここを読めと言っているのだ。

「鑑を持って、黄龍と共に池に身を沈めよ。」

何の為だ、池に供物を捧げれば向こうから出て来るのではなかったか。この雪が落ちてきてもおかしくない寒さの中水に入れ?

富士の噴火に恐れ慄く人々は、この街から逃げる。それを逆流して大晦日のこの日にここまで来たのだ。それなのに、水にまで入れと言うのか。

この見てくれだけを気にする中年の男は、泳げない。子供の頃に海で溺れた事があるので、水が怖いのだ。

頭の中で本が囁く。

「今を逃せば、権力はお前の手には落ちぬ。」


男の名は、銅磨鋒。市議会議員を経て今は参議院議員を二期務めている。

しかし、名誉欲と見てくれだけで続けてきた政治家生命も終わりを告げようとしていた。

地元のダム工事に関連して橋を架ける工事を建築業者に便宜を図り、その業者の裏には自分の親戚の会社が携わっていた。悪い事にその親戚の会社は、暴力団と繋がりが深いと噂が絶えない。

それを週刊誌にスッパ抜かれたのだ。


何でもいい、パワーが欲しい。金でも霊力でも権力が手に入るのなら自らの手を汚してでも手に入れたいという強欲な心を本は見抜いた。

その卑しい心根を唆し、思うがままに動かしている。

男の懐中で本は囁く、今は水が怖いなどど躊躇している場合ではないのだと。

更に、クーラーボックスから顔を出した黄龍が、初めて直接男に声を掛ける。

「何を躊躇しておる行くぞ、着いて参れ。」

水への恐怖と、異界のものから声をかけられ慄いて、答える暇もなく、絡みとられて水の中に飛び込んだ。あまりの恐怖に男は気を失う。


鍾乳洞の地底湖に辿り着いた後、暫く男と黄龍は共に歩いたが、不平ばかりをほざく男の元を離れて、本が言う龍王の気配を探して水脈を辿っていた。

あの男と居るとコチラまでが腐る。不運や不幸は案外感染るもので、あの男を拾った本を恨みに思っていた。

本はアイツの出世欲と見栄こそが、何ものにも打ち勝つ力だと信じている様だが、果たしてそうなのだろうか。


あまりにも浅はかで、薄っぺらい感じがする。この世を牛耳りたいというほどの欲があるのだろうか。自分をよく見せたい。贅沢がしたい、それだではないのか。

そう疑問に思った時ハタと気づいた。

「この世を牛耳る?」

それこそがあの本の望むことか。成る程それなら話がわかる、その手足としてあの男を使っているのだな。

そして私さえも欺いて。


あの本は何処からやってきたのだろう。そしては私は何故起こされたのだろう。ぼんやりとした記憶の底に疑問符がいくつも幾つも連なって起き上がる。


さて、私は何をすべきなのか今一度立ち返り考える時が来た様だ。

黄龍は、微かに薫甘い匂いに鼻を蠢かせその匂いの元へと向かって泳ぎ出した。

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