第4話
小さな池のある庭をL字で囲むようにして建っているDélicieux bonbonsのあるこの家は、Lの長い辺の所に誉さんのおばあちゃんのお部屋がある。家の玄関から入る時は、店の裏側にある木戸路子を抜けて、御影石のたたきを通って玄関を入ると左茶室だったところを改装したおばあちゃんのお部屋。右を向くと左手に扉が二枚並んでいて真正面に厨房の入り口右手にも一枚扉がある。この同じ形の扉に囲まれた廊下に立つと、ちょっと方向感覚がおかしくなる。手前にある玄関の向かい側に扉が丈瑠さんが仕事に使っている部屋でその隣が洗面所とお風呂。右扉がトイレ。丈瑠さんの仕事部屋には時々占いのお客様が来る。
その時は扉に札が掛かるから、トイレに行く時もなるべく足音を立てないように気を付けたりする。お客様と鉢合わせした事はまだないけれど。
お客様が来ていない時は休憩室として丈瑠さんの部屋に、来客中は、おばあちゃんの部屋へ行かせてもらっている。それというのもこの菓子持って休憩してこいって誉さんが言うからだ。それは分かりづらいけど、新作や改良したお菓子を食べてもらって感想聞いて来いって言う意味なのだ。
おばあちゃんと話していると実家に帰った時のようにリラックス出来る。ウチのばあちゃんよりかなりお上品だけどね。
亡くなられたご主人が大使館の通訳をされていたそうでイギリスに何年か住んだことがあると聞いた。どうりで紅茶の淹れ方が素晴らしくエレガントで、いつも本当に美味しい。初めて紅茶を頂いた時にそう言ったら私の顔を見ると、後でお茶に来なさいねと優しく誘って下さる。
お茶が美味しいのは、紅茶を淹れる時は井戸の水を使うからだとも教えてくれた。こんな都会の真ん中に井戸有るんだぁと感動した。
「紅茶って本当に赤いんですね。」と私が言うと、
「ここの水脈はね、明治神宮の清正の井戸と同じなのよ。きっと水が硬いのね。」
とおばあちゃんは少し自慢げに話してくれた。なんか凄い。そんな話を聞いたせいか、ますます美味しく感じてしまう。
丈瑠さんのお祖父様と誉さんのお祖母様(つまりおばあちゃんね)がご兄妹で残念ながらお兄様は、戦争で亡くなられた。なので丈瑠さんのお祖母様は、この家で一緒に暮らし丈瑠さんのお母さんを育てたのだ。
だから、丈瑠さんのお母さんと誉さんのお母さんは従姉妹だけど、姉妹みたいに育って、大人になってもお互いの子育てをする時、助け合っていたから、お母さん達のように兄弟みたいに育ったので、いまだに誉さんと丈瑠さんはハトコで一回りも歳が違うけど、こうして仲が良いのだ。
誉さんは、この家を守って丈瑠さんはこの井戸を守ってくれてるのよっておばあちゃんは言う。
丈瑠さんがこの家を離れていた時は、井戸から水を引いている庭の池が濁って魚がすっかりいなくなってしまったと、おばあちゃんが悲しい顔をして教えてくれた。
だから、丈瑠さんが今はここに住んでくれるのがとても嬉しいらしい。池には大きな錦鯉が優雅に泳いでいる。
丈瑠さんは、今一人で2階に住んでいて、誉さんは上原の方のマンションのご家族と暮されているそうだ。
その話を聞いた時、派手派手誉君にもご家族いるんだぁと、てっきり変わり者で有名な彼は独り者だと思い込んでいたからビックリした。
何かの折に、びっくりしたと丈瑠さんに話すと、笑って
「ああ見えて子煩悩な、良い親父だよ。誉ってぶっきらぼうだけど基本優しいでしょ?結婚生活に破綻したのは俺の方。人に合わせるのが苦手だからさ。言わなくて良いこともつい言っちゃうしね」と自虐的に言っていたけれど、そんな事ないのになぁと思った。丈瑠さんは、人の話を聞くのがとても上手だ。案外聞き上手な人にはなかなか出会わない。
私には、この家はなんだか初めから水が合うと言うのか、緊張する事も多いけど、とても居心地がいい。誉さんのお知り合いが店に来た時など
「あいつの下で働くのは大変でしょう。」ってよく言われるけど、全くそんな事無いのになって思う。
ずっと食べたかった「さゝま」の薯蕷饅頭を、おばあちゃんがお知り合いが喜寿の祝いだったので頂いたからと、お茶にしますよと私達を奥に呼んでくれた。餡子は勿論のこと、しっとりとした噛みごたえのある皮が上品な甘さで口の中が幸せいっぱいになる。饅頭も餃子も皮が命だよなぁと改めて思う。この間神保町へ、エスワイルのサバランとこの薯蕷饅頭を買いに行ったら、エスワイルは無くなっていて、薯蕷饅頭は、今の季節はやっていないと言われて、ショックを受けたばかりだったので尚嬉しい。勿論、ささまの練切は、ゲットしてとても美味しかったんだけどさ。でも、お饅頭特注なら買えるんだ、なるほど。メモっておかなきゃ。
今日は、珍しく誉さんも一緒で久しぶりにおばあちゃんの部屋の縁側で4人で顔を合わせた。
縁側からは、池へ飛び石で行けるようになっていて、季節の山野草が庭に彩りを添えている。今は紅葉も落ちて緑の苔が水分を含んででキラキラと輝いていた。
おばあちゃんが、
「今年のクリスマスは、どうするの?」と誉さんに聞く
「イブは、新宿でイベントがあって、それに出なきゃならないからなぁ。」
「何時くらいに終わる予定なの?」
「イベント自体は8時半位には撤収出来るはずだけど、約束出来ないから25日でいい?」
「はい、いいですよ。みんなもそのつもりで空けておいてね。」
丈瑠さんが
「はいはい」と返事をする。
「毎年ご家族で集まられるんですか?」と聞くと
「タツミンはデート?」と丈瑠さんが聞くので、
「バイトです」と答える。
「そうだよな、でも夜は空けとけよ」と誉さんが言った時、縁側の向こうの庭からバシャリと音がした。
みんなが池の方に顔を向けると、鯉が跳ねて池の外に飛び出している。鯉が龍の髭の上でバタついているので慌てて私が立ち上がって庭に出ようとすると、丈瑠さんが
「駄目だ。今はまだ池には近付かないで。」と厳しい声で言った。
その間に誉さんが、ひょいひょいと庭に出て鯉を池に戻した。
「近頃また池がざわついているのよ。丈瑠どうしたらいいかしら。」とおばあちゃんは、心配げに池を見る。水が濁っているようには見えなかったが、風も無いのにゆらゆらとさざなみだっているようだ。
「うん、後でちょっと見てみるよ。」と気乗りしない風に丈瑠さんは言った。
3人がクリスマスをどうするか話しているので、何気なく池を見ながらお茶を頂く。これは井戸の水では無いなぁ。紅茶を入れるには適した井戸の水も、緑茶には向かない。柔らかくて地味深い緑茶の色と香りが良く出ている。おばあちゃんは、お茶の種類によってお水や温度を変えてくれるから、本来の味の良さを逃すことがない。見習わなくちゃと思っていると、池の水面がぐぐっと盛り上がったように見えた。
「ヒャッ」と短く息を吸うように声を出すと、丈瑠さんが振り向いて池を凝視する。
チリチリチリンと、間の抜けた店の呼び鈴が、座敷まで呑気な音を響かせた。
「あっ私出ます。」と慌てて立ち上がって店に行く。
今日の予約のお客様が来るにはまだ早い。
店の電気をつけて、表を見ると大きな荷物を持ったマックさんが立っていて、いつもの輝くような笑顔をこちらに向けて手を振っていた。
急いで、鍵を開けて店に招き入れて
「ご注文ですか?」と聞くと
「違う違う、誉さん達は?」
「今、奥で休憩中なんです。呼んできますね。」
「いいよいいよ、丈瑠さんもいるんでしょ?ちょっと上がらせてせてもらうね。」と店の鍵をさっさと閉めて、電気のスイッチも切って私の背中を押す様にして、おばあちゃんの部屋へ向かう。
マックさんは、誉さんの上の息子さんと同級生だったからこの家にもしょっ中来ていたらしいので、勝手知ったる他人の我が家的にどんどん入って行っておばあちゃんに挨拶をすると、おばあちゃんも嬉しそうに
「よく来たわね。今お茶淹れるわよ。緑茶でいい。お饅頭食べる。」と世話を焼く。
そんな様子をぼんやり見ていると誉さんが
「どうした?まだ饅頭有るぞ。食わないなら俺が貰うけど良いのか。」と本気で私のお皿に乗っている饅頭に手を出してくるので、
「ダメダメ、絶対に駄目。」
と慌てて座ってお饅頭を手に取る。
「あらあら、子供みたいねぇ」
とおばあちゃんが、箱から出したお饅頭をマックさんの前のお皿に乗せる。
「タツミンは、餡子も好きなんだぁ」とマックさんが笑い掛けて言うので、もう少しで飲みかけたお茶を吹き出しそうになった。タツミンという呼び名は、丈瑠さんの専売特許じゃなかったけ?大いに焦ったが、タッちゃんじゃ無いから良しとするか。
昔、近所にタッちゃんと呼ばれているジャイアン的いじめっ子が居た。その子の理不尽さが子供ながらに許せなくて、本当に嫌いだった。だから新しい友達ができる度に私の事タッちゃんって呼ばないでとお願いする事になる。
それなのに、この間地元の友達とバッタリ会った時昔話になって、そのいじめっ子のタッちゃんは、高校ではいい奴なったらしく、吹奏楽部の部長とかやって信頼厚い先輩だったと言う。それを聞いた時、妙に腹立たしかった。それこそ理不尽な怒りだとは思うけど、何故かタッちゃんにはいつ迄も大っ嫌いって言える嫌な奴でいて欲しかった。今までタッちゃんと呼ばれる度にムカムカッと昔を思い出して腹を立てたあの労力はなんだったんだ。そんないい奴になれるなら私が近所で遊び回っている時からいい奴にでいて欲しかったよ。と考えたことをふと思い出しながら、
「はい、餡子も、クリームもバターも小麦粉も大好きです。」と答えた。
「あはは、じゃこれはどう?」
ジャジャーンという効果音を付けて、持って来た大きな箱を開けてあずき色よりちょっとラズベリーピンクに近い色の白い襟とカフスの付いたワンピースを出した。
「あっ可愛いですね。昔のウエイトレスさんみたいなデザインで。」
「でしょ〜。」とやけに嬉しそうだ。
「似合うと思わない?」
「あら、素敵ね。巽ちゃんに良く似合うそうよ。ほら、着てごらんなさい。」とおばあちゃんが当たり前のように勧めるので、
「私のじゃ無いですよね?」と男三人の顔を見ると、何言ってんだぁと呆れ顔をしてる。
フルフルと顔を振って、
「いやぁ〜こんな地味な顔にこのワンピースはちょっと無理じゃ無いっすか?」とコックコートが、世の中で1番似合うと思っている私は、否定に入るが、
「いいから着てみてよ。」とマックさんが駄目押しをするのを聞いておばあちゃんが、こっちへ来なさいと自分の寝室の方へ促すので、仕方ないくワンピースを持って後へ続く。
膝下15センチのフレアーがたっぷり入ったスカートはウエストを同素材の太めのリボンで結び、胸元は丸く切り替えがありピンタックが施されいる。ウエストまではくるみ釦で空いてその下は比翼仕立てになって下まで開くようになっているあずき色のワンピースは、自分でも驚くほど似合っていた。
「凄いわ巽ちゃん。とっても似合ってる。村正君さすがね。良く巽ちゃんのこと解ってるわ。」と言ってうふふと微笑んでから、ドアを開ける。
おずおずとみんなの待つ縁側に行くと、
「いいじゃん、すげーなサイズピッタリじゃん。チビ助も女の子に見えるじゃん。流石プレイボーイじゃん」と誉さんがじゃんじゃんとうるさい。
「そんなんじゃないよ。」とマックさんは、否定してから
「やっぱり紺よりこの色の方が店の雰囲気にも合うし似合ってたね
。良かった。」とマックさん。
「アレ、店の名前が刺繍して有るねぇ。」と丈瑠さん。本当だ服地より少し濃い色でお店の名前が入ってる。
「誉さん。これ店の制服にしてもいいでしょ?」とマックさんが乗り出して誉さんに迫る。
「良いけどよ、チビ助が厨房から出る度にわざわざ着替えるのは、めんどくさくねぇか⁈」
「前開きで羽織るだけで着れるようになってるし、販売だけになった時着ればいいてしょ。この間さぁ店にコックコートで接客しているのを見てて店の雰囲気と合わないって思ったんだよ。接客も丁寧なのに勿体ないよ。こんなに可愛いのにさぁ。」
「いけしゃしぁとみんなの前で」と小声で丈瑠さんが呟く。
「まっ、俺は構わないけどな。別に俺が着替えるわけでも、仕立て代出すわけでもねぇしな。
チビ助、着たくなかったら着なくて良いからな。コスプレヤーでもあるまいしなぁ。」
と誉さんは、急に興味を無くしてそろそろ戻るわと厨房に行ってしまった。
あぁそうか、店の雰囲気に合わせて持って来てくれたんだ。特に私の為にとかじゃ無いよね。そうかそうかぁそれなら分かる。と妙に納得して、
「本当にお店の雰囲気にピッタリですね。時間がある時は着替えて出るようにします。ありがとうございます。」と言うと、マックさんはウンウンと嬉しそうにして
「この間お仕着せが可愛いかったって言っていたでしょ、だから思いついたんだよ」と言う。
「あぁウエストの⁈」あの時ちょっと言っただけの事覚えていてくれたなんて、誉さんが言うように相当のプレイボーイなのかも。
「でも、よくこんなデザインの制服売っていましたね。色もクラシカルですごく素敵です。」
「あぁ、知り合いの衣装さんに言って作ってもらったんだ。サイズ大丈夫だったよね。これで大丈夫ならもう一枚洗い替えとエプロンも作ろうかなぁ、足は23センチだよね?」
「えっ、何で分かるんですか?それにコレお誂えなんですか?えぇ〜凄い。なんだか畏れ多い。」とちょっとビビってると、丈瑠さんが
「良いんだよコイツの趣味でやってるんだから、着てあげるだけでありがたく思えって言ってやれ」とあははと笑う。
おばあちゃんも
「そうそう、そのくらいがちょうど良いわ。」と乗っかる。
そんな騒ぎが有ったので、池の水がうねっていたことは、スッカリ忘れてしまった。
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