第10話

 「とりあえず、中に入ろう」

 佐々木の後について、私も店内へと戻る。カウンター席に座り直して、カラカラに乾いた喉にお冷を流し込むと、通話の内容を佐々木に話して聞かせた。

 「……じゃああの子は瑞樹の他にも、それ以前にも子供の前に現れていたって事か。なら、その子が池で溺れ死んだのは、まさか」

 「それは分からない。その時も一緒に遊んでいたかは市川さんの予想に過ぎないし、そうだったとしても『ちよちゃん』が誘導したとまでは言えない」

 

 心霊関係の話には、よく『死者の霊に呼ばれた』という類の話を聞くことがある。亡くなった霊が寂しさから生きている者を死に誘導し仲間を増やそうとする内容で、死者への供養が大切とされる理由もひとつはそこにある。

 元々供養とは仏教において仏や菩薩に供物を捧げる行為を指すのだが、現代日本においては特に仏教とは関係なく、死者や祖先への弔いを共通して供養と呼んでいる。遺された者が死者や死そのものと向き合う行為でもあるが、祈りを捧げることで死者の霊を慰め、寂しさを紛らわせるという意味も持ち合わせているのだ。

 山口千代に母親以外の親族は無く、絶縁状態であったという。彼女の遺骨は無縁仏としていずこかの寺社仏閣で供養を受けていたそうだが、現実に薫や瑞樹達の前に現れているところをみると、あまり効果は無かったようにも思える。

 ならば千代が寂しさから薫を死に誘ったとするのも当然の帰結ではあるが、それなら既に瑞樹や春香もそうなっていそうなものであると私は考えていた。寧ろ友人がいた薫とは違い、共に寂しさを抱える瑞樹や“連れていかれそう”な程に優しいと評された春香の方がより早く実行に移せていても可笑しくはない。

 今も二人が健在である事実、そこに加えて瑞樹の傍にいる『お姉ちゃん』という不確定要素の存在が、私の千代への評価を曖昧にさせていた。

 「特に瑞樹ちゃんの場合は一人に対して二人も霊が憑いているのにも関わらず、今も彼女は生きている。道連れにするつもりならとっくにそうしてるだろうし、一度に二人を狙うとも考えにくい。今の段階では、ただ瑞樹ちゃん達と遊びたいだけとも言えなくもないな」

 なお不安そうな佐々木が何かを言い募ろうとした時、それを遮るように入り口のドアベルが鳴り響いた。

 入ってきたのは一人の年老いた男性。よく見ると、それは昨日川で出会ったあの妻を探す男性だった。

 「もしかして昨日の爺さんって、あの人か? 」

 佐々木の問いに、私は頷きで応える。

 なるほど、行きつけの喫茶店とはこの店の事だったようだ。男性はウェイターの女性の案内で窓際の二人掛けテーブルに案内されていく。

 そのまま成り行きを見ていると、男性がお冷を持って行ったウェイターの女性に、突然怒鳴り声を浴びせ始めた。

 「何度見りゃわかる! 俺達は二人いるんだから二人分持ってこなきゃ駄目だろうが! 」

 思わず席を立とうとするも、店主に片手で静止される。その手が用意していたお冷を手に取ると、男性の元へと向かって行った。

 そして入れ替わりで戻ってきたウェイターの女性を呼び止める。

 「あのおじいさんいつもあんな感じなの? 」

 「ええ、お一人でいらっしゃってるのに『俺たちは二人いるだろ』っていつも。ただ依然ご家族の方からご病気によるものだと伺っているのでまぁ、しかたないですけどね」

 「ちなみに、本当に二人で来たことはない? そのご家族とかヘルパーさんとか以外で」

 「ないですよ。いつもお一人か、ご家族やヘルパーの方とご一緒ですね。多分この後もどちらかがいらっしゃられるかと思います」

 どうやら彼女にも男性の妻は見えないらしい。ちなみに佐々木にも見えるか聞いてみたところ、やはり彼にも見えないという。

 「見えない奥さんとデートしてるったって、あれじゃあ奥さんも冷や汗もんだろうな」

 「仕方ないさ、他の人には見えてないの知らないんだし」

 本物が幻視か、いずれにせよ男性にとっては妻の存在は確かなものなのだ。むやみに否定するわけにもいくまい。

 そう言って、話題が認知症に対する対応へと移りそうな時だった。

 「君たち二人には見えてるのかい? 彼の奥さん」

 いつの間にか傍に来ていた店主の問いに、私達は首を横に振った。

 「そうかい。残念だなぁ、結構美人なんだよ奥さん」

 藤色の置物がよく似合っててねぇ、と店主は記憶に浸っている。

 「お会いしたことあるんですか? 」

 「もう何年もお二人でいらっしゃってたからねぇ。君たちは覚えて無いだろうけど」

 全然覚えていないと嘆く佐々木に、私も同意だった。残念なことに、当時の学生たちには然程周囲が見えていなかったようだ。

 「ところで、マスターは“今”見えるんですか? 奥さん」

 その問いに、店主は暫し無言で考え込む様子を見せたが、ややあって答えを待つ佐々木へと向き直り、笑顔を見せた。

 「いや、見えないよ。本当に残念だけどね」

 でもね、と店主は一言添えて話をつづけた。

 「見えないけれど、いらっしゃってるのはちゃんとわかってる。あくまでも経験則の上で、だけどね」

 経験則? と疑問符を浮かべて首をかしげる私たちを見て、店主はその笑みを更に深めた。


 「写真好きな先代からこの喫茶店を継いだのは平成初期の頃だったよ。で、それから約三十年、店の顔ぶれも結構変わったもんさ。なんせ山裾の田舎町だからね、出ていったままの人もいるし、帰省の度に顔を出してくれる人もいる。そして、地元に残ると決めて毎日のように来る常連さんも結構いるんだよ。本当に、人に恵まれているし、信頼してもらってると思うね。僕も、このお店も」

 謳うように語りながらも店主の手は止まることは無い。丁度いい塩梅に温まった湯を、手に持ったポットで滑らかにドリッパーへと注ぎ入れる。その熟練した技術は大正の頃より代々受け継がれ、当代で四人目になるという。

 「本当に長く、強く結ばれた信頼だと思う。あの世にいった人をも呼び戻すくらいにね」

 彼の先代である三代目店主は、時折妙な行動を周囲に見せることがあったという。誰もいない席にお冷を用意し、時にはコーヒーと軽食を運んでは誰もいない席へのもてなしをしていた。

 そんな店主の行動に訝しんだ一人のウェイターに、彼はこう語ったという。

 常連は生きている人だけではない、と。まだいちウェイターだった店主は先代が聞かせた言葉の意味を、理由に得心を得はしたもののその全てを信じてはいなかったと語った。

 そんなある日、もうすぐ来る常連客の為にいつも彼が座る席を整えていたという。その人物は腰の曲がった老年の男であり、いつもソファー席にクッションを置いておくのがウェイターである彼の仕事の一つでもあった。

 そうしてクッションを取りにカウンターへ向かった時、鳴り響いたドアベルの音に振り向くも、そこには誰も居ない。首を傾げつつクッションと共に再び席へと戻ると、無人の席に仄かな人の温もりが感じられた。

 そのときに鳴った電話を取った先代が寂しげな眼差しを向けた時、もうクッションがなくても大丈夫なのだと彼は直感し、あの言葉の意味を初めて理解したのだという。


 「その後も暫くその時間にドアベルがなって、その席に温もりだけがあるって事が続いてね。いつしか姿の見えない常連さんの存在が当たり前になってたよ。何年か経つと皆成仏しちゃうのか、気づいたら別の誰かが常連になってるのもね。多分人の繋がりってのはそう簡単に途切れたりはしないし、見えなくても必ずどこかで繋がってて、この先も続いていくものなんだろうね。店がある限り、この町がある限りね」

 その手の才能がないから一度も『みえた』ことはないけれど。そう語る店主の目線が私達を越えて、陽の光が差し込む窓際へと注がれる。

 それはあの子も同じらしいけどね、と苦笑する視線の先で、あのウェイターの女性がまたも男性から妻の分がないと誰も居ない席を横に怒鳴られていた。

 カップに入れた新しいコーヒーとケーキを手に、店主がカウンターを出て私達の前へと来る。

 「今度は僕が彼女に伝えていかなくちゃいけないんだけど、どうやって行ったらいいかが悩みどころなんだよね」

 そう語る店主に、何か理解の助力になりそうな情報が入ったら教えますよと言うと、彼は笑って“老夫婦”の座るテーブルへと向かって行った。

 「見えなくても必ずどこかで繋がる、か。言われてみりゃそうだな」

 神妙そうな佐々木の呟きに、私は頷く。幽霊も生きてる人間と同じ、言われてみればそれは当たり前の事だった。山口千代だけじゃない、この二日間で見聞きした見えない彼等も、元はと言えばこの世界に生きていた人間達なのだ。『幽霊騒動』に没入し過ぎてて、気付けばこんな当たり前の事すら忘れていたのかと胸をつかれる思いだった。

 「もしかしたらここに写ってる人達とも、まだこの町のどこかで俺達とも繋がってるのかもしれないな」

 店内にところ狭しと貼られた写真の数々を見渡して佐々木が言う。近年のスマホやデジカメで撮られたカラー写真から、古くは大正のモノクロ写真まで、この店の約一世紀に渡る歴史がレンズを通して切り取られていた。

 よくもここまで残したものだと感服しつつ眺めていると、ふとその中の一枚に目が止まった。

 それは制服姿の女学生達を写したもので、かなり昔のものなのか大分色褪せてしまっている。よく見ると所々焼け焦げがあり、穴も開いてしまっていた。

 それでも撮影者の腕が相当良かったらしい。陽光のしたを歩く少女達の眩い笑顔や身に付けているセーラー服の皺までも、一人一人綿密に写し出していた。


 ――そのうちの一人の襟を結ぶスカーフの細かな刺繍や、左目の黒子までも。

 

 「佐々木、絵! 」

 「え? 」

 「だから絵だよ絵! 瑞樹ちゃんの描いた絵! 早く!」

 訳もわからずというように緩々とした動きで渡された絵を掲げて、写真の少女と見比べた。横から佐々木も顔を覗かせ、間もなく彼が息をのむ音が聞こえてきた。

 長い二本の三つ編みと、左目の黒子。紺色のセーラー服に結ばれた赤いスカーフには銀か白の刺繍が陽光に煌めいている。

 瑞樹の描いた通りの少女が、色褪せた写真のなかで眩しい笑顔で笑っていた。

 「『お姉ちゃん』だよな、あれ」

 「どう見ても『お姉ちゃん』だろ、あれ」

 「違いますよ」

 にべもなく一刀両断した声の主は、思わず凝視してきた私達に向かって微笑み、空いたテーブルから下げてきたカップを置いた。

 そして壁に手を伸ばし、少女達の写真を外して私達に手渡してきた。

 「その写真昭和の初めの頃に撮られたものだそうですから。お二人のお姉ちゃんにしては歳上過ぎじゃないですか? 」

 なるほど、そう言う意味かと私は大きく天を仰いだ。安堵のような、それでいて落胆にも似た思いで、訂正の言葉を返す。

 「いや、私達のじゃなくて、この人にあったって人がいるんだよ。その人が『お姉ちゃん』って読んでて、俺達はその人を探してるんだよ」

 「なるほど、そうなんですね」

 流石に瑞樹の事までは言えないので、その辺りをぼかしながら説明すると、あっさりと納得した返事が帰ってきたので安心した。

 渡された写真を裏返してみると、下の方に『昭和十八年 九月 店ノ表ニテ』と角張った字で書かれている。空襲のほぼ一年前にこの店の前で撮られたもののようだった。

 「でも図書館で見たこの辺りの昔の学校の写真には、セーラー服なんてなかったんだけどなぁ」

 腕を組んで唸る私に、店主がやってきて呼び掛けてきた。

 「それは開戦して間もない頃のじゃないかね? ほら、あっちのとか」

そう言って店主が指差した先には、図書館で見たままの着物にモンペ姿の少女が写っていた。

 「元々はセーラー服だったんだけど、開戦すると禁止になっちゃったそうだよ。でもその後に推奨された国民服は人気がなかったからって、セーラー服の上だけは着てもよくなったそうだよ」

 調べていた割には、写真以外はあまりよく見てなかったらしい。

 羞恥で顔から蒸気が吹き出そうだったが、続く店主の声が私の注意を引いた。

 「この写真の彼女達については先々代の話だからあまりよく知らないけど、こっちのお嬢さんはどこか君に似てる気がするなぁ」

 そう言って少女の隣で笑う、髪をショートカットにした別の少女を店主が指差す。

 よく見ると、確かに目の形や口元がどことなく似ている気がする。戦時中、この辺りが皆甕と呼ばれていた頃に少女時代を過ごした自分によく似た人物。

「これ、もしかしてお前のお婆ちゃんじゃないか? 」

 

 丸く見開かれた佐々木の目が向けられた瞬間、忘れかけていたあのむせ返る様な水の臭いが、私が嫌悪し続けてきた過去が、より一層その濃さを増して強く、強く漂ってきていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る