第9話

 カランカランとドアベルが音を立て、涼やかな空気とともに香ばしい豆の薫りが漂ってきた。

 佐々木との待ち合わせ場所であるここは、学生時代に佐々木や他の友人たちとよく利用していた、私にも馴染みのある喫茶店だ。創業は明治に遡るらしく、代々の店の様子を写した写真が店内のあちこちに飾られている。

 「お、こっちだこっち! 」

 いつぞやと似たような呼び声に顔を向ければ、カウンターの奥から佐々木が手を振っていた。

 私も隣に座ると、若いウェイターの女性がお冷とおしぼりを運んできた。

 「どうぞごゆっくり」

 「待った、こいつにホットコーヒー一つ。オリジナルブレンドのやつね」

 佐々木の注文を受けた女性が店主のもとへと戻っていく様子を見て、俺は再び佐々木に向き直った。

 「何勝手に決めてんだよ」

 「別にいつも同じだから問題ないだろ? それよりさ、どうだったよそっちは」

 ため息をひとつ付くと、スマホのメモアプリで書き留めたものを見ながら先程の三人の体験談と、その多くに『水』が関わっている事を話した。

 すると、佐々木が仕入れてきた話でも舞台となる場所に『水』が関わっているという。

 「俺が聞いてきたのは水路で遊ぶ子供の話や、海に浮かぶ婆さんの話、あと山で雨宿りしてたら坊主の霊が出てきたとかだけど、確かにどれも水が関係してるな」

 偶然にしては重なりすぎではあるし、そもそも幽霊について語る上で水の存在は必要不可欠なところがある。


 水、それは海や川、霧、雨とこの地球上にあらゆる形態で存在し、我々人間の体組織における約七割を構成する命の源と言える物質である。

 古来の人々は全ての源である水に神秘性をも見出し、世界各地において信仰の対象とされてきた。日本では同じく生命を生み出す存在として重要視されていた『火』と並べて『火水(かみ)』つまり『神』の語源にもなっており、日本神話にも水にまつわる神が数多く登場している。

 その神秘の存在である水は死や穢れなどの不浄を流し清めるとされ、人々は浄化や弔いの手段としても水を用いてきた。例としては穢れを移した人形を水に流して清めた平安時代の流し雛や、死者への弔いとして今も行われる灯篭流し辺りが有名だろう。

 そうして人は目に見えない死者の魂は穢れと言った不浄の物に対し、ただ畏怖するのではなく水を通して寄り添い、共生し続けてきた。

 水は独立した信仰の対象であるだけではなく、人と人には見えない物とを繋ぐ親和性に優れた存在でもあったのだ。

 そうして死や穢れなどの不浄を流し清めてきた水は、一方でそれらの不浄とされたものや人ならざる存在を引き寄せる媒介としても人々に恐れられてきた。

 よく『水辺には霊が出やすい』などと言われ、特に盆や彼岸の時期には多くの死者が水辺に集まり、生者を水に引きずりこむなどとされてきた。その為死者にあの世へと道連れにされないよう、水辺に近づいてはならないとの言い伝えに繋がり、死者の呼ぶものとしての水を人々は恐れてきた。

 その多くは海難事故や自殺への警鐘、教訓が形を変えたものではあるのだろうが、このように水には死者の魂、または『死』そのものと強く結びつけられていた事が伺える。

 なので、水あるところに霊の存在ありとすることに何ら不自然な点はなく、さらには水が豊富な皆鹿目町で水辺の目撃談が多くなる事も仕方ないと言えなくもないのだが。

 「確かに水と関連する話が多い。けど瑞樹ちゃんのだけは違うだろ。確かに小学校には池があったけど、あの子が『ちよちゃん』や『お姉ちゃん』と出会ったのは学校じゃない」

 だからこそ、この時点で水に関係のない千代や『お姉ちゃん』の存在が奇妙に思えてならなかった。

 私の話を聞いて佐々木はしばらく考え込んでいたが、ややあってこう切り出してきた。

 「山口千代、だっけ。その子の家が建つ前には何もなかったのか? 」

 なんてこったと、内心で舌打ちをした。山口家の存在に満足してそれ以前の状況に思い至らなかった自分が情けない。

 佐々木の言葉を聞くや否や、私は急ぎ国土地理院のページへとアクセスし、一九六〇年代以前の地図を呼び出した。

 が、残念なことに結果は芳しくない物であった。最古の地図まで遡って見てみても、山口家の場所に池などがあった様子はない。

 「でもさ、だったら二人はどこから来たんだ? 目の前にあって申し訳ない気もするが、あの地蔵に水やってる人は見たことないぞ」

 佐々木の疑問に二人でうんうん唸っていると、私の分のコーヒーが運ばれてきた。何故かクッキーのおまけつきで。

 「マスターからです。久しぶりに来てくれたからって」

 見ると、カウンターの向こうから店主がにこやかに手を振っていた。まさか覚えてもらえていたとはと嬉しい反面、郷里に抱く複雑な思いから申し訳なさも感じてしまう。

 その時、横から伸びてきた佐々木の手がクッキーを一つつまんでいった。

 「おいそれ俺のだぞ! 」

 「早く食べないからだぞ。あーマスターのクッキーうめー! 」

 わざとらしく強調して言われ、これ以上取られてたまるかと私もクッキーに手を伸ばした。昔から変わらぬ素朴な甘みが、疲れた身体に染みるようだった。

 ふと、十年前もこうして二人でクッキーを取り合っていたのを思い出した。そこに郷里への嫌悪感は無く、ただただ懐かしいと思えたことに、私自身驚いていた。

 「こういうのも、悪くないかもな」

 思わず口から出た言葉に、佐々木は何を言うでもなくただ頷いていた。


 その時、私のスマホに着信があり、店の外で通話に出ると先程電話をした男性からであった。

 男性は『市川と申します』と名乗り、亡くなった子とはよく親しくしていたという。

 話によると、亡くなった子供は名を薫といい、当時は七歳で市川少年と共に小学校二年生だったという。

 『薫とは幼馴染の中でも一番の仲良しでしたから、よく一緒に遊んでました。山へ虫取りに言ったり、川で水浴びしたり……あの池でもよく一緒に遊んでたんですがね』

 「亡くなった時は一人で遊んでいたと聞きましたが」

 『それがですね、正直今でもよくわからんのですよ』

 それは明らかに困惑そのものという声だった。更に尋ねると、少しの間を置いてから返答があった。

 『確かによく一緒に遊んでたんですが、亡くなる少し前から急に人付き合いが悪くなったんです。聞いては見たんですが、その度に『女の子と遊んでる』って言ってたんですよ。けど、誰に聞いてもその女の子を見た人はいなかったんです』

どこかで聞いたような話だった。沈黙を促しと思ったか、市川氏は慌てたように続けた。

 『いや、たまたまタイミングが合わなかっただけかもしれないですよ。けど、当時は“男の子”と二人っきりで遊ぶ女の子なんて余り見なかったものですから』

 「待ってください、薫さんは男の子だったんですか? 」

 『ええ、男の子で薫です。我々の世代ではもう珍しい名づけでしたからよく覚えてますよ』

 私はどうやらとんでもない思い違いをしていたらしい。それまでは学校に現れた女の子の霊を、亡くなった薫という女の子だと思っていた。だが、薫が男の子であったならば、中庭に現れたという女の子は何者なのだろう。

 「その女の子の名前とかって薫さんは何か言ってらっしゃいましたか? 」

 電話口からは暫く唸る様な声が聞こえてきていたが、ややあって、


 『確か、“みよちゃん”だか“いよちゃん”だかって言っていた気がします』


 電話が切れてからも、私は暫くその場に立ち尽くしていた。市川氏は朧気に覚えていた女の子の名前が、その時の私にははっきりと分かった気がした。

 「電話終わったのか? なんて言ってた? 」

 様子を見に来た佐々木に、今だ衝撃で呆然としつつもこう返した。

 「……『ちよちゃん』だ」

 「え、何だって? 」

 「『ちよちゃん』だよ。池で亡くなった子供も『ちよちゃん』と遊んでいたんだ」

 私達の間に、暫しの静寂が流れた。

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