第11話
夕暮れが迫る頃になって喫茶店を出ると、ホテルまで送るという佐々木の提案を逃げるように辞して、私はひとりホテルに戻っていた。
戻るや否や、夕食もとらずに飛び込んだ部屋の扉を音を立てて閉め、綺麗に整えられたベッドへとその身を投げ出して横たわる。厚いマットレスと柔らかなシーツが無防備な身体を迎え入れ、包み込んでくれた時、それがまた郷里のあらゆるものから私を守る盾となってくれることを期待していた。
しかしどれだけ顔を枕に埋め、シーツで身体を包もうとも、それらは盾としての一切の役割を放棄し、今度は私を守ってはくれなかった。
『人の縁とか巡り合わせってこう言うことなんだろうな。あまりに自然で、当然のようにそこにある。だからそう簡単には切れないんだよ』
目蓋を閉じた暗闇の中に、佐々木の声が反響する。声は徐々に大きく、そしてより明瞭になり、遂には映画館のように映像と共に再生されていく。
「無理にとは言わないけどよ。せめて会うだけ会ってみたらどうだ? ずっと気にしてるよりは会った方がすっきりするんじゃねぇの? 」
こちらを向く佐々木の動きに合わせて、その手に持つグラスの水が微かに揺らぐ。
私は視線を合わせることなく、ただひたすらに黙したままで聞き続けている。
「それに、今回の幽霊騒動ってさ、お前にも直接関係あるんじゃないかって思うんだよ。俺」
それはこの時の私にはあまりにも予想外の指摘だった。顔を上げ、驚きで見開いた私の目と、鋭く細められた佐々木の目が合った。
「なあ、小学校三年生の頃の事覚えてるか? 俺が告白してデート出来たのは誰だったかとか」
「いや、あの時お前加奈子ちゃんに告白はしたけど玉砕だっただろ。健太や幸助と一緒に残念パーティーしたじゃないか」
「正解。じゃあさ、その頃急にオカルト好きになったのはどうしてかは覚えてるか? 」
突拍子もなく聞かれ、私はどうだったかなと曖昧な返答でそれに返した。別にからかいや突き放しといった意図は含んでいない。自分のオカルト好きに関しては、いつの間にか本を読み漁り、録画した特番をビデオが擦り切れるまで見直すようになっていたという印象だったのだ。切掛けなど覚えておらず、その事を気にも留めてこないまま今に至っている。
けれどもこの時に聞かれて初めて、それが小学三年生からだった事すらも忘れていたと気付かされた。気づかされてなお、記憶として蘇る様子はなく、他人事のように受け止めていただけだったのだが。
それが一体どうしたというのだろうか。
「それともう一つ。お前、親父さんと喧嘩してたけど、そうなったそもそもの理由、覚えてるか? 」
なぜそんな事を今更聞いてくるのだろうか。問いが重ねられるたびに、私の中で嫌悪、不快、憤怒といった感情が湧き上がってくるのを感じていた。
そして、佐々木が望む答えを苛立ちのままに吐き捨ててやろうと口を開こうとして、何故か言葉が出てこなかった。
いや、頭の中にすら思い浮かべられなかった。何一つとして。
『いい加減、現実を見なさい』
口を開けばそればかりであった父と衝突を重ねた日々を覚えている。最後に喧嘩し、逃げる様に家を出た日の肌寒さも、新幹線の停車駅に着くまでずっと纏わりついていたむせ返る様な水臭さも。
けれど、父を嫌悪したその初めの日、初めの出来事だけはどうしても思い出せない。何故かそこだけぽっかりと穴が開いたように抜け落ちてしまっていた。
すると、困惑を隠せず動揺する私に、眉間のしわを深めた佐々木がこう返してきた。
「喧嘩の理由とか忘れてるのってさ、いつの間にか忘れたってより無意識に忘れようとして記憶を押し込めたとかじゃないかって思うんだよ。前に水樹がまだ小学校上がる前にも落ち着かなかった事があったって言ったろ。そんときに少し齧ったんだけど、何か無意識にイヤなこと忘れたり違うことに没頭したりってあるんだろ? 赤ちゃん帰りとかさ」
人間は強烈なストレスに晒されたとき、傷ついて壊れぬよう心にバリアを貼り、または適応しようとするのだが、時にそれが思考や行動として表面化する事がある。それらは精神分析学の創始者ジークムント・フロイトらによって『防衛規制』と呼ばれ、幾つかに分類されている。
その中には佐々木の言ったようにストレスの元となっているトラウマから逃げる「逃避」や、他の活動に没頭する事で生じたストレスや不安を解消し、需要を進める「昇華」といったものがある。先の赤ちゃん返りに関しても、防衛機制による行動の一例だ。
常日頃仕事として接する患者達にも防衛機制はよく見られるし、自分でもストレスを感じたときは意識して「昇華」に努めたりしている。が、自分の趣味や進路選択に防衛機制が関わってきているなど、これまで考えた事すらなかった。
しかしよくよく考えてみれば、父に非常に近い場所におり、またそのものが嫌悪の対象である皆鹿目町に帰ってくるというストレスに飛び込む行為をしている筈なのに、私はこの三日間一度たりとも根本の情景を思い出すは無かった。父のいる実家にも近づこうとすら思わなかったが、それはただ体験に基づく不快な感情に晒されるのを拒んだだけで、体験そのものを思い出したからという訳ではない。
逆を言えば、それだけ徹底的に忘却されているような物が『気がついたら忘れていた』という程度である筈が無いだろう。
「ここからはあくまで想像なんだが、お前は幽霊を見て、恐らく怖い思いをした。けれどそれを親父さんに否定されたんだ。だから嫌な記憶を無意識にしまい込んで親父さんの険悪な印象だけが残った」
「トラウマとなる記憶の忘却……『抑圧』だろうな。だが、恐らくは説明できない物への恐怖心も隅の方に残ってた。だからそれを受け入れようとして寧ろ積極的にかかわっていくようになった? ……トラウマへの不安や恐怖と逆の行動をする『反動形勢』か」
いつしか会話は自問自答へと変わっていた。私は自ら出した結論に自分で納得していたが、それによって示された記憶が蘇る事はなく、未だ他人事も同然であった。
寧ろこの自問自答すら、記憶との対面を避けようとせんが為に知識と理屈でコーティングした『知性化』にあたる行動だったのかもしれない。
「で、結局お前はどうするんだ」
佐々木の言葉が逃避終了の合図となり、気づけば他に客の姿が無くなった静寂の店内に響き渡った。
「どうするって、どうしろって言うんだよ」
「もうやるべきことは分かってるだろ。ここでお前んちと繋がったってことは、いつまでも目を背けてちゃいられないってことだろ。お婆さんから話聞くのも大事だけど、俺は今回の一件の根が親父さんに繋がってる様に思えてならないんだ。だからお前が親父さんから、その大事なものを受け取ってきてほしいんだよ」
佐々木の声を聞いた瞬間、脳裏を急速に駆け巡る映像があった。
そこは自宅の居間で、目の前には誰かの足がある。見上げると、若かりし頃の父がそこにいた。今も良く覚えている般若の如き怒りの表情とは違い、穏やかな表情で何やら語り掛けている。
対する私も興奮気味に何かを返していたようだが、どうしてかどちらの言葉も聞き取ることが出来ない。唯一感じられたのは、父の優しい息遣いだけだった。
暫し無声のやり取りが続いていたが、不意に父の両手が私の頬へそっと添えられる。そこで言ったこの言葉だけは、何故か聞き取ることが出来た。
『これは大事なお役目だからな。無事にお前にも伝えられそうで良かった……』
次の一瞬で景色は変わり、私は深い山の中にいた。そこには何度も踏み固められた獣道が続くだけで、周囲には鬱蒼と茂る木々や方々に伸びる野草の枝葉ばかりしかなく。その全てがしとしとと降り続く雨に濡れ、あの強い水臭さを纏わりつかせている。
私は独り傘もささず、生い茂る草の中に身を隠して静かに震えていた。だが、それは寒さからではない。体から熱を奪い、奥歯をがちがちと鳴らすものの正体は、紛れもない恐怖だ。
私は山の中で、何かから逃げていた。
過ぎてゆく静寂の中、不意に音が聞こえた。
ズシャッ
シャンシャン
ズシャッ
シャンシャン……
それは濡れた地面を踏み鳴らす音と、触れて擦れる金属音に聞こえた。
音は少しずつ、そして確実に私の隠れる場所へと近づいてきている。けれど逃げ道は無く、今音を出せば確実に見つかってしまう。
私は頭を抱え、目を閉じて、ひたすらに祈っていた。
お願いです、助けて、助けてください。僕をあの人たちから隠してください、と。
振り続く雨が、震える私の音を消してくれることを願い、居るとも知らぬ神に祈り続けていた。
ズシャッ
シャンシャン
ズシャッ
シャンシャン……シャン!
ひと際大きな鈴の音を響かせて、音は止まった。
目を閉じた暗闇の中に、雨音以外に音は無い。私は瞼を開き、ゴクリと喉を鳴らして勢いよく顔を上げた。
そこには何もいなかった。身を隠す茂みの向こうには、何の影すらも見当たらない。
恐る恐る茂みから獣道へと出てみると、すぐ傍で誰かが倒れているのが見えた。
これは誰だろう。慌てて近寄るも、顔の部分だけが影になって分からない。
幼い私はどうしたらいいのかわからず、とにかく助けを呼ぼうと立ち上がり、勢いよく振り返った。
そして、黒い何かと目が合った。
「っ……! はッ……はッ……はぁー……」
強い恐怖と共に枕に埋めていた顔を上げた。仰向けになって荒い呼吸を暫く繰り返しているうちに、少しずつ落ち着きが戻ってくる。
体を起こして周囲を見渡し、そして漸くそこがホテルの部屋だった事を思い出した。
ベッドから身を起こすと、じっとりと濡れた身体の重さがより一層肌に感じられたが、今はどうしてもシャワーを浴びる気にはなれなかった。
喫茶店で脳裏に過った父との怒鳴り合い、あれは一体いつの記憶なのだろう。見上げなくてはならない程の身長差からすると、間違いなく子供の頃の出来事だ。しかしいくら犬猿の仲だったとはいえ、父の腰程しかない身長の頃に激しい怒鳴り合いをした覚えなど今まで無かった。
無かった記憶といえば、その次に出てきた山中の光景もそうだ。子供の頃は良く山に行って遊んだものではあったが、当然独りでは行かないように言いつけられており、予報も含めて雨天での山遊びなどもっての外である。けれども記憶の中の私は子供で、確かに独りであそこにいた。
そう、どちらにおいても私は幼い子供で、今の私自身には覚えのない情景だ。だが佐々木の言葉の通りなら、それらは無意識に消し去っていた紛れもない私自身の記憶なのだ。そして心のどこかの片隅で、私は間違いなくそうだと確信していた。
――あの記憶の中で感じた恐怖こそが幼い私が確かに抱き、今に続く根源の感情であるのだと。
私は意を決して、テーブルにあったスマホを手に取る。そして十年間見ようともしなかった番号を表示し、震える指で通話ボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が流れてくる。一回、二回……そして五回目が繰り返されようとした時、一瞬音が途切れた。
『もしもし? 久しぶりね、元気だった? 』
女性の声は、記憶よりも年を重ねた穏やかな声音で、十年前と変わらぬ優しさがあった。
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