第12話

 翌日、私は北東の海沿いにある実家の戸を十年ぶりに叩いた。

 叩いてからチャイムを鳴らせばよかったと思った時にはすでに遅く。ほぼ無意識にとかつての行動をなぞってしまう辺り、染み付いた習慣とは恐ろしいものだと思う。

 そうこうしているうちに、あらかじめ来訪を知らせていた為か数秒もかからずに扉は開いた。

 「あらー! お帰りなさい。随分大きくなっちゃって……」

 「高校生の頃とそんなに変わってないだろ」

 「そんなことないわよ。さ、入って入って」

思わず口をついたひねくれた言葉にも動じず迎え入れる母に、こみ上げるものを抑えつつ中に入った。

 通された畳敷きの居間には、座椅子にちょこんと収まった祖母の姿があった。

 記憶が正しければ御年九十三になる筈の、立派な戦前生まれである。

 「婆ちゃん久しぶり、元気だった? 」

「細かい怪我とかはあったがな、大病せずにこうして皺くちゃになって生き永らえとるよ」

 差し出された手に勧められるまま座布団に座ったところで、母が人数分のコップを持って戻ってきた。

 「外はじめじめして暑かったでしょ。ほら、飲みなさい」

 そう言って置かれた麦茶を一口飲むと、暫く近況報告に花を咲かせた後で私は鞄から持ってきていた写真を取り出して祖母に見せる。

 それは少女の頃の祖母と『お姉ちゃん』が写るあの写真で、出掛けに喫茶店から借りてきていたものだった。

 「おんや、懐かしい。婆ちゃんが中学校に行っちょった頃の写真やね 」

 「あら、こっちのショートカットがお婆ちゃん? 可愛いわねー! 」

 当時と変わらぬ目を細めて笑う祖母に、私は隣に写る三つ編みの少女を指さして尋ねた。

 「婆ちゃん、こっちの人は婆ちゃんの友達の人でいいの? 」

 「おや、『恵子ちゃん』の事ね? 婆ちゃんの一番のお友達だったよ」

 懐かしそうな、それでいてどこか寂しそうな表情で祖母は微笑み、そしてゆっくりとした口調で『恵子ちゃん』の話は始まった。


 『お姉ちゃん』こと、本名『前島恵子』は元々遠い都会の生まれであった。暫くは都会で暮らしていたが、その後開戦して暫く経った十四の頃に皆甕の親戚宅に母親と疎開してきたという。

 「恵子ちゃんは良いとこのお嬢さんだったそうだけど、それを鼻に掛けたりせんと誰にでも気さくに話しかける気立ての良い娘だった。婆ちゃんと恵子ちゃんは特に仲が良くてね。行きも帰りも、学校でもいつも一緒におってね。隣町の紡績工場に勤労奉仕に行くのも一緒にだったんよ。けんどね」

 過去を懐かしむ穏やかな表情がそこで一転し、みるみるうちに溜まる涙で祖母の目が潤っていく。

 そこから先の二人に起こる展開を、私は既に分かっていた。

 「あの日は朝から急に冷え込んだ曇り空の日でね、二人して『帰ったら半纏ださんとね』って笑いながら帰ってたんよ。そしたらいきなり空襲警報が鳴ってね」

 警報から数分もたたないうちに、上空から特徴的なプロペラ音がいくつも聞こえてきたという。

 そして、雲の切れ間から現れたB29は、皆甕の町に鉛の雨を降らせていった。

 「あまりにも早くて、身を隠す暇なんて無かった。爆弾が落ちる中を二人で逃げてるうちに、恵子ちゃんの服に火がついてね。鞄で叩いても砂をかけても、何をしても消えなくて、どうやってか海に辿り着いて火を消した時にはもう遅かった」

 気が付くと空を埋め尽くしていた機影は去り、浜には同様に焼け焦げた人々が山となって波打ち際に漂っていた。祖母はそれを『地獄絵図だった』と言った。

 「浜のどこもかしこも焼けたり、ケロイドになったりした人のご遺体で一杯だった。中には水欲しさに海に入って、塩水の痛みで苦しみながら死んでく人もいたよ。婆ちゃんはもう何が何だか分かんなくてぼーっと座ってるだけだった」

 呆然とする祖母の目の前で、焼け焦げた恵子の遺体は生き残った大人達により浜に埋められた。祖母の家族らが迎えに来たのは日が暮れてからだったという。


 翌年、日本がポツダム宣言を受諾し終戦を迎えてからひと月ほど経った後、浜に埋葬されていた犠牲者の遺体は改めて荼毘に付された。そして恵子の遺骨も、今は他県にある前島家の墓に納められているそうだ。

 しかしあの時代を生きた人々の中で、戦争の傷跡は今も彼らを苛んでいる。

 祖母は皺の刻まれた手で袖をまくり、左腕に残るやけどの後を私に見せた。

 「これは恵子ちゃんの火を消そうとした時に着いた火傷の痕。お前にも見せた事は無かったね」

 私が頷くと、真っ直ぐな祖母の目が私を射抜くように見つめてきた。

 「恵子ちゃんとの思い出は楽しい事も嬉しい事も沢山あった。けど思い出すと最後はいつもあの光景が浮かんで今も悲しくなるんよ。だからもう戦争なんて繰り返しちゃいかんよ」

 祖母はしっかりした口調で言った、強く言い聞かせるように。

 私が一つ頷くと、再び穏やかな表情に戻った祖母はコップに口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を流し込んでいった。


 「けど、どうして婆ちゃんのお友達なんて調べてるの? 」

 母の言葉に、一瞬私はどう答えたものかと思った。『友人の佐々木の娘さんにお婆ちゃんの友達が憑りついているから原因を調べてます』などと素直に言えるわけがない。

 「あー……この町の歴史を調べてたら、偶然写真を見つけたから、それでね」

考えあぐねた末に漸くひねり出したのは、そんな当たり障りのない言葉だった。それでも追及は来なかったので、どうやら納得は得られたようだ。

 ひとまずの危機を脱し、からからに乾いた喉を冷たい麦茶で潤しながら、私は得られた情報について考えた。

 『お姉ちゃん』こと『前島恵子』は戦争という理不尽な暴力の前に強い思いを残して亡くなったと思われる。そして彼女の思いは遺骨が移された後のこの地に残り、霊となって瑞樹の元へと現れた。

 亡くなった場所に留まり続ける存在と聞くと『地縛霊』もしくは『残留思念』がよく想起されるだろうが、彼女の場合は亡くなった場所から離れた住宅街に現れている。

 だとすると、オカルト的には成仏できずにさまよい続ける『浮遊霊』と考えるのが妥当だろう。死没者を弔う地蔵尊の場所に現れたのは偶然かもしれないし、完全なランダム移動ではなく町内にある地蔵尊を基点として移動を行っているのかもしれない。

 もしくは、それこそ『海』という水のある場所が、彼女の出現に関わっているのではないだろうか。彼女もまた他の霊たちと同様に水のある場所と深いかかわりを持っていたのだから。

 『水』と『幽霊』――この数日間で幾度となく聞いた言葉の組み合わせに、今更ながらも私は深い親近感を感じていた。まるで昔からよく聞いていたことがある様な感覚だった。

 否、もしかすると聞いたことがあったのではないだろうか。

 「変な事聞くけど、二人は『幽霊』と『水』の二つの言葉に、何か心当たりある? 」

 自分でも唐突と思う質問に二人は顔を見合わせていたが、先に口を開いたのは母だった。

 「幽霊と水っていえば、お父さんが前に良く言ってたわね。確か」

 「『魂は水と共に巡る』御山に関わる者に昔から伝わる言葉やね。爺さんも、曽爺さんもずうっと言っちょったとよ」

 ――そうだ、その言葉だ。

 祖母の言った言葉に、私は直感した。なぜ今まで思い出さなかったのかとは、思わない。

 脳裏を過った祖母ではない声こそが、何よりも確かな理由だったからだ。

 問題は、祖母の言う御山が何処にあるかという事だ。皆鹿目町にある山は三つ。最も高い南西の遠見山、ほぼ真西に位置し玉返川の水源がある皆甕山、最も北方かつ標高の低い見笠山である。

 実家から最も近いのは北方の見笠山だが、何故か頭に浮かんだのは水源のある皆甕山だった。

 「御山って、玉返川の上流にある皆甕山でいいの? 」

 「そうそう。この家もお爺ちゃんの代にこっちに移したけど、元々は皆甕山の麓にあったのよ」

 私が生まれた頃には既に祖父は亡く、家も海沿いのこの地にあったためにそれを疑問に思うこともなく、この移築に関する経緯などはまさに寝耳に水だった。曰く、家屋の老朽化の為に昭和の終わりに居を移したとの話だそうだが。

「それで父さんは山で何してたんだよ、林業? 」

 私の言葉に母は苦笑し、仕方ないわねとため息をついてから話してくれた。

 「お爺ちゃんもお父さんもずっと農業だったでしょ。ただいつも朝早くに山の方に行ってお供え物してから仕事始めてたけど」

 「お供え物って、あの酒と塩か! 」

 一発大きく膝を打った私に母が頷く。父が朝早くに用意させていた酒と塩の正体。今更知った父や祖父の生業よりもそちらのほうが私の興味を引いていた。

 「他にも採れた野菜とか持ってってたみたいだけどね。まだ暗い山は危ないからって母さんやお婆ちゃんは連れて行ってくれなかったけど」

 「そりゃ懸命だったよ。下手に慣れてないもんが御山に入れば簡単に連れてかれっちゃうかんな」

 連れて行かれる。明らかに不穏な響きを持った言葉について更なる追求をしようとすると、不意に母が立ち上がって部屋を出ていった。と思えば、数分と経たずに再び居間へと戻ってきた。その手に少し色褪せた表紙のノートと、見るからに古そうな一冊の和綴じの本を持って。

 「これはね、父さんが御山についてまとめたノートと、うちの家に代々伝わる御山の信仰に関する本ね」

 そう言って差し出された二冊の本を、私はすぐに受け取れず困惑したまま見つめていた。

 「いや、これ持ってって良いの? 怒られるんじゃない? 」

 「良いのよ。貴方に貸すってならお父さんも良いって言うわよきっと。それ読んで、明日にでも山に行ってみたら? 」

 お父さんには報告しておくから。そこまで母に言われて漸く、私は本を受け取ることが出来た。

 

 その後も暫く話をして、気づけば昼をとうに過ぎた頃だった。私は昼食を一緒に取ると、そのまま実家を出ることにした。

 もう暫くいなさいよと玄関先で渋る二人に、このままいると父が帰ってきそうだからと笑って返した。

 「それもそうねぇ……ちょっと早いけど帰ってくればいいのにね」

 その母の少し寂しそうな顔が、何故か心に引っ掛かった。家族や実家への懐かしさ、寂しさとは違う、妙な違和感だった。まるで、まだ何かを忘れているかのような。

 しかし、母や祖母の顔を眺めてみても脳裏にかすめるものすら無く、訝しむ母達に再び別れを告げて踵を返し、来た道を歩き出した。

 歩きながら、鞄の中が心なしか重く感じる。それはこの中に入っている二冊の本の、我が家の歴史の重みなのだろう。恐らくはこの町の幽霊騒動に繋がる何かが、そして私と父の記憶に連なる何かが書かれているに違いない。

 一体何が書いてあるのか、この時の私は読むのを少し怖く感じていた。

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