第6話

 図書館を出ると、目を刺そうとする程の強い西日が差し込んでくる。ムラなく染まった茜空の下を歩き続けると、行く手に現れたのは一本の広い川だった。皆鹿目町の東西を横断する玉返川である。

 玉返川はそれなりに広い面積を持つものの、その流れはとても穏やかな川だ。私はその静かなせせらぎに耳を傾けながら、瑞々しい草花を眺めつつ遊歩道を歩いていた。

 たまにすれ違う程度に人はいるが、平日の午後とあってかそれ以上に増える様子rはない。もし人影が増えていたとしても、それが突然なのか、それとも前々からいたのかには気づかないだろうと思った。

 しばらく川の流れを目で追っていくと、川岸の砂利の上にスズランテープで囲いがしてある箇所が幾つかあった。何だろうと思い唸っていたのだが。


 「あれは灯篭を置く場所の囲いだな」


 声を追って振り返ると、目の前に周囲をきょろきょろと見回す杖を持った高齢の男が現れた。

 「灯篭を置く場所ですか? 流すのではなく? 」

 ここ皆鹿目町には旧暦のお盆に灯篭流しをする習慣があったはずだ。私も幼い頃にキャラクターの絵をかいた物を作っては、当日に川へと持って来て流した記憶がある。

 「環境問題とか管理がどうとかで、今はもう流さなくなったんだよ。当日作ったものに火を入れたら、流さずにあそこに置いて眺めるようになっちまった」

 夏の風物詩であった灯篭流しも、この十年の間に随分と変化していたらしい。私も基本的には時代の流れによって変化は起こるべきものとのスタンスだが、ゆらりと流れてゆくほのかな灯りが見られないと思うと少し寂しい気もした。


 そんな私の哀愁を他所に、男はきょろきょろと周囲を見渡し続けていた。どうやら何かを探しているようだったが、なかなか見つからない様だ。蒸気が出そうな程に真っ赤に染まった顔から、いら立ちが募ってきている様子が伺えた。

 「すみません、もしかして何かお探しなのですか? 」

 あまりにも一生懸命なその様子が妙に気になったので、少し訊ねてみることにした。

 「何かも何も、うちの家内が何処にもいなんだよ! あいつどこに行っちまったんだ」

 男の真っ赤な顔に張り付くつり上がった眉と目が合った。大分ご立腹らしい。

 「奥さまですか。服装とかはお分かりになりますか? 」

 「服か? あいつはいつも藤色の着物に若草の帯を締めててな。髪は黒……いや白だったかな。良く静かに笑ってる様な女で、俺が呼べばすぐ来るんだが、最近はいないことが増えてだな……」

 男の様子に、記憶にある父の姿が重なり、胸に苦いものが競り上がってくる感覚を必死に抑える。

 すぐ近くに控え、呼べば来ることが当然というように、父もよく母を呼び出していた。その様子を見る度に、頭が昭和の家長制度で止まっている、いつまで凝り固まった古い慣習にしがみつくつもりなのかと言ってはよく喧嘩になったものだ。

 「そうですか。ところですみません、私カレンダー無くしちゃってですね。今日何年の何月何日かお分かりになりますか?ここが五丁目というのは分かるんですが」

 「あんたも馬鹿だなぁ、此処は三丁目だろ。そんで今日は平成十八年の……いや違うな、十五年だ。四月、五月の十六日で……すまんな、朝カレンダー見てくるのを忘れてしまってな。後で確認させてくれ」

 申し訳なさいと言う男に内心で謝罪しつつ笑顔で礼を言っておく。勿論私はカレンダーを無くしたわけではないし、そもそも男に尋ねる前にスマホで調べることも出来る。年号は令和になって久しく、此処は五丁目でも三丁目でもない二丁目の外れに当たる場所のはずだ。

 共に暮らしているだろう妻の外見があやふやな時点で怪しさ満点であったが、見当識の低下とそれをごまかすような言動で私は察した。恐らくこの男は認知機能に難があり、ともすれば認知症を患っている状態で、誰にも言わずに家を離れてきたのではと。  

 季節に沿った衣服や靴は恐らく介助者の手によるものだろう。そのどこかに連絡先を記した名札か何かが無いか調べるべく、埃を払う体で身体検査をさせてもらおうと声を掛けようとした。

 「とにかくここにあいつがいる筈なんだ」

 男は眉と目じりを下げ、まるで置いて行かれた子供の様な寄る辺ない表情をした。そして踵を返し、妻を探して再び歩き始める。

 それを放置するわけにもいかず、かといって無理に引き留めようとしても逆に危険である。

 いざとなれば通報も可能であるし、もしかするとこの先で男の家族か誰かと会えるかもしれないと考え、妻探しの短い旅路に暫しの同行を決めた。

 「俺はこの町で産まれて以来、今年で九十四になる人生の大半をこの町で生きてきた。途中赤紙が来て南部へ行かされて、一度は御国に捧げる命と諦めたこともあったが、足の自由を獲られただけで運良く五体満足のまま帰ってこれたよ」

 「そんな御歳だったんですか! 足が不自由そうとはいえ、てっきりまだ八十代かと」

 「世辞は要らん。コレとももう長い付き合いだ」

 持っていた杖に目を向けて男は染み入る様な声で言った。

 「せっかく帰ってこれたはいいが、こんな足じゃ生活の一つもやっていけんと思っとったよ。けれどあいつはな、俺が未練がましく吐いて捨てていった戯言を馬鹿正直に拾って待ち続けてくれたんだ。『私が支えますから、もう少し一緒に頑張ってくれませんか』ってな」

 「それが奥様ですか」

 「そうだ。あいつと一緒になってから男が二人に女が一人の子宝にも恵まれた。今はもう独立してったがな。

そうしてまた二人になったんだが、いつからかこの位の夕暮れ時に二人で散歩するようになってな。俺もあいつも病気とは縁が無かったから、欠かさずにやってこれたよ」

 病気とは縁が無かった、の辺りは先の怪しい言動を思うと少し怪しかったが、この男は杖を要するとはいえ九十四まで歩行をやってのける体力があるのだ、ほとんど休むことは無かったのだろうと思う。

 そして染み入るように妻との半生を語る男の優しい声音は、この夫婦の日課をありありと私の脳裏に浮かび上がらせた。

 茜色に染まる空の下、青々とした草の薫りと草の薫りと穏やかなせせらぎに満ちた遊歩道を歩く一組の老夫婦。ゆっくりと歩む夫に寄り添う、藤色のやさしい色が目に浮かんだ。


 「けど最近は歳のせいか寝床に戻るのもままならなくなってきてな。全く知らん場所で朝や夜を迎える日もある。酒を呑んでたんだろうが、それすら忘れてる有り様だ。それで帰ろうとすればそこの家主だか何だかが、やれ帰るな、ここにいろ、泊まってけと言ってくる。ほんと困ったもんだ」

 記憶を辿るうちに、最近まで戻ってきたようだった。時間に取り残されてしまった男の混乱も辛く苦しいものだろうが、そこの家主と呼ばれた、恐らくは妻か子供達の誰かはさぞやるせないものを抱えられているだろうとその心境を思った。

 「でも一番困ってるのはあいつがどっかに居なくなることだ。その上顔も知らん奴があいつやや子供らに頼まれたからと入れ替わり立ち替わりやってきて、勝手に世話をやこうとする。挙げ句にあいつの家事仕事まで獲ろうとするもんだ。勝手にいじくればあいつが困るだろうと止めさせてここまで呼びに来るんだよ、最近はもう散歩よりあいつを探しに来てるようなもんだ」

 「それは……大変ですね。今日みたいに中々見つからない事も多いのでは? 」

 「いや、探しに来るとちゃんと必ずいるんだよ。買い物ならすぐ帰ってくれば良いのに、いつもそこの『境橋』の辺りで俺が来るのを待ってんだ」

 その言葉に私は足を止め、男に聞き返した。いつも家には帰らずに橋で待っているんですか、と。

 「そうだよ。ちゃんと俺が来るのを分かってるからなあいつは。そこから行きつけの喫茶店まで行って、一杯だけ飲むんだ。けど最近入った若いのがいつもあいつの分のお手拭きと水をわすれてな、何回注意しても直りゃしない。で、まぁその後は川沿いを歩いて家に帰るんだ。あいつは家に帰って直ぐまたどっか行っちまってたりするけど、結局毎日顔は見てるし大丈夫だろ」

 言葉とは裏腹に、表情はまた不安そうなものへと変わっている。

 だが、次の瞬間には目を見開いて、そして緩みそうな頬を必死に締め直しつつ、杖を持っているとは思えぬスピードでスタスタと軽快に歩き出した。

 ついていこうとする私の足は、あの優しい声音で止められる。

 「大丈夫だ。ほら、あいつが待ってるだろ? 」


 気づけば橋のすぐ傍まで来ていたらしい。男が促す先に、石造りの簡素な橋が架かっているのが見えた。日も大分沈み、より濃さを増した茜色が橋を染め上げている。

 老人は橋の袂まで行くと、何やら文句を言っているようだった。

 ――西日が差しこむ、誰もいない場所へ向かって。

 私は驚愕も恐怖もせず、“二人の”会話を眺めていた。男の話から、彼の話す『妻』が他の人には見えない存在であることは予想がついていたからだ。

 しかし、それが本当に『亡くなった妻』なのか、それとも『妻を騙る別の存在』かは、実際にその光景を見ても私にはわからなかった。

 その後、妻に挨拶をさせようとする男に、何もない場所へ向かって挨拶をし、話しかけたりしていたところへ男の長男がやってきた。当然息子の顔を覚えていない男は嫌がったが、私も仕事があると言ってその場を長男に引き継ぐこととなった。

 そうして歩き出した二人、いや“三人”が遠ざかっていく姿を暫し見送って、私もホテルへの帰路についた。


 長男に確認したところ、やはり彼の妻は五年前に他界していた。そのショックで認知症が大分進行したのだという。

 そして長男にも、母親の姿は見えていなかった。だが、彼はこうも言っていた。

 「父はいつもこうして徘徊に出てしまうんですが、その度に迷子になる事も無くちゃんとこうして会えたり、家まで帰ってこれるんです。それに時々、父の隣で紫色の袖が見える気がするんです。

 習慣化されていると言ってしまえばそれまででしょうが、もしかしたら本当に母が見守ってくれてるんじゃないかと思ってます」

 この言葉も、言ってしまえば長男の主観でしかない。もしかするとやはり『妻を騙る別の存在』が男に付きまとっている可能性もある。

 だが指摘したところで、それはきっと意味をなさない。それでも男は明日もまた妻の影と一緒に散歩をし、この町で最期まで妻と共に在るのだろう。


 もしかすると、私が古い家長制度にしがみついていると評したあの父も、母に対して所有権を主張する以上の愛情を持っていたのだろうか。それを知っていた母は、だからこそ何度なげやりな扱いをされようとも付き従っていられたのかもしれない。

 遠い記憶の中、仕事場へ赴く前に「おい!」と立った一言だけ告げては後は待つだけの父に、甲斐甲斐しく弁当や飲み物を用意しては手渡していた母の姿に、今更な疑問を抱いた。

 その時にふと、母親が用意していた中に酒と塩があった事を思いだした。仕事に行くというのに何故酒などと思ったところで、そもそも父の仕事そのものをよく知らなかったと、まさに今更気づかされていた。

 

 私には何も見えていなかったし、何も分かっていなかったのかもしれないからこそ、男や彼の長男の言葉を信じたい。ただただそう思えている自分に少なからず驚いていた。

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