第18話

 「本当にいいのか? 何なら乗り換えのとこまででも送ってくぞ?」

 「良いよ別に。もう体調も良くなったし、帰る前に少し歩きたいしな」


 瑞樹発見から丸一日が立った翌日の夜、帰宅を明日に控えていた私は最終報告も兼ねて佐々木と連絡を取った。

 瑞樹を見つけた直後、長いこと濡れた状態でいたせいか、私は見事に風邪を引いた。

 もしかしたら体調不良で休暇を伸ばせないかと一瞬頭を過りもしたが、母の訪問を受けつつホテルで籠城しているうちに、気づけば体調は回復していた。

 とはいえその間は佐々木とも連絡を取れなかったため、今こうしてスマホを手に取ったという訳である。

 「そうか、瑞樹も良くなったから最後にみんなで外食でもと思ったんだけどな」

 「気持ちだけ受け取っとくよ。その分瑞樹ちゃんの傍についててやってくれ。“見えなくなった”とはいえ、また何かの拍子に見える様になっても可笑しくはないからな」


 そう、今の瑞樹の傍に恵子と千代の姿はない。

 それが分かったのは今日の昼頃。私と同じく熱を出して家で横になっていた瑞樹だったが、熱が下がった途端に部屋の窓を開けて外を見渡し始めたという。その様子を心配して訊ねた母親に、瑞樹は言った。

 「お地蔵さんのとこに『恵子お姉ちゃん』がいないの。本当にいなくなっちゃった……」

 更に、千代の姿も近くにはいないと瑞樹は言う。

 毎日のように現れていた筈の二人は、こうして瑞樹の前から姿を消した。

 「子供だけで行くなって、あれほど禁止してた海にまで行ってたっていうのには、本当に肝が冷えたよ……なぁ、本当にいなくなったと思うか?」

 「正直言ってわからないな。もしかしたら熱の影響で見えなくなっただけなのかもしれないし、父さんによればこの町の死者は水がある限り彷徨い続けるらしいから」

 「……お前の親父さんがいうなら、そうなんだろうな。それにしても、親父さんのことはこう言っていいかはわからないけども、何か安心したわ俺」

 心から安堵したという様な声に、悪かったなと私は笑って返した。

 父との事では佐々木にも随分と心を砕かせてしまっていたと、この電話の初めに知る事となった。この町に帰省した初日から、折に触れて実家へ帰る事を進めていた理由はそこにあったのだ。

 友人とて直接的に死の事実については言えない。ならば実家にあるだろう遺影等の現実を目の当たりにさせてみればどうかという、ショック療法の様な効果を期待したのだという。無論、素人考えで手を出せば反対に状態を悪化させる危険性もあるため、どうかこれっきりにしておくようにとは釘を刺している。

 けれど、最終的に佐々木の想定とは少し変わってしまったが、彼が勧めてくれなければ実家に帰る事も山に行くことも無かったので、そこには素直に感謝の念を抱いていた。

 「父さんと言えばさ、どうしてあの時二人は瑞樹ちゃんを諦めたんだろうって思ったんだけどさ……多分、覚えていてくれると思ったからじゃないかって」

 あの山の中で父は言っていた。


 『人が抱く強い思い、特に死者の無念といった思い残しの念は信仰によく似ている。どちらも『縋る』ものだからな。人々が水への祈りを忘れてしまっても、寧ろ忘れられているからこそ、死者の持つ強い念に水も惹かれてしまうんだろうな』


 人の思いに縋る、それは死者も同じだったに違いない。

 今回の一件があるまで、母親に捨てられた子供の死など知る由もなかったし、地元にある地蔵尊の由来がどうだったかなど考えようともしなかった。祖母の様に近しい友人であれば覚えてもいるだろうが、この町の人口は定期的に流動し、入れ替わりを繰り返している。

 その間に、そこに彼女らが生きていたことをこの町の人々は忘れてしまっていた。忘れられ、存在が揺らいでいたからこそ、生者が抱く強い思い、特にパワーのある子供に惹かれ、縋ってしまうのだろう。

 そして子供の方も、精神的にまだまだ不安定であるが故の強い感受性で、彼らの思いを存在ごと受け取ってしまうのだ。

 「おそらくは、瑞樹ちゃんの抱いていた『寂しい』って感情に惹かれたんだろうな。そして同じく寂しさを抱えていた彼女らはそれに縋ってしまった。縋れるものがあるっていうのは、受け入れてもらえる存在がいるのは、とても気持ちのいいことだって父さんも言ってたからな。けどあの時、瑞樹ちゃんが名前を呼んでくれたことで、彼女達も安心して寂しさが紛れたんじゃないかって思う。だから連れて行く必要が無くなった……」

 「なるほどな。それでこのまま諦めてくれればいいんだがな」

「それはわからない。だから瑞樹ちゃんの周辺はこれからも気に掛けてあげた方が良いだろうな。けど、これから思春期に入ったりで精神的に不安定になったとしても、傍に理解者がいてくれるかどうかでも大分違ってくるだろうさ。頑張れよ、お父さん」

 聞こえてきた佐々木からの力強い返答を最後に、私は通話を切った。

 途端にどっと疲労が押し寄せ、押し流されるままに私はベッドへと横になった。

 明日は午前中には町を発たなくてはならない。名残惜しさを抑えつつも、ベッドサイドのライトだけを残して部屋の電気を消した。

 薄いオレンジ色の光が照らす天井を見上げていると、この六日間が怒涛の様に脳裏を過っていく。


 久しぶりにこの地へ戻ってきた日、その時点ではまだ瑞樹の行動についての第三者的視点を提供すれば済む、それだけを思って帰って来た。しかし、蓋を開けてみれば本物の幽霊騒動であり、それは町全体をも巻き込む事態でもあった。そしてそれは私の祖母や、私自身の忘れていた記憶とも繋がっていた。

 人と人、霊と霊、人と霊。この町に、いやこの世界に存在するものは、生きる時代や領域を超えて必ずどこかで繋がっている。

 その繋がりこそ、人が『縁』と呼ぶものなのかもしれない。

 きっといつか、海に消えていった彼女達とも、またどこかで繋がるのかもしれない。果たしてそれがいつになるのか、私自身にも分からないが。

 分からないと言えば、浜辺の夜から今日までずっと、喉元に小骨か何かが引っ掛かったかのような違和感を覚えていた。だがそれが何に対してなのかが一向に思い出せない。

 私は何が気になっているのだろうか。いくら考えても、答えは出てこないままだ。

 そうして思考の海を泳いているうちに、私はいつしか深い眠りへと落ちていった。



 翌朝、少し早めにチェックアウトして、私はゆっくりと駅へ向かい歩き出した。

 昨日は快晴だったにもかかわらず、今日は明け方から弱い雨が続いている。持ってきていた折り畳み傘で何とかなる程度ではあるが、父の死に際や皆甕における死者と水の関係を思うと、やはり雨やその薫りには複雑な思いを抱かずにはいられなかった。

 商店街へと続く道の前まで来ると、少し迷った後に曲がることなく前へ進む。暫く歩いて住宅街へと入り、規則正しく整列した戸建ての合間を歩いていく。

 目指す場所は、全ての始まりであるあの公園だった。

 然程時間を掛けずして公園の出入り口が見えてくると、不意に横を黄色い傘が追い抜いていく。

 ちらりと見えた赤いスカートに心臓がどきりと大きく跳ねた。

 「ママー! 早く早く!」

 傘から顔出したのは年長児くらいの幼い少女だった。大きく片手を振り、私の背後にいるだろう母親へと呼び掛けている。

 自然と張っていた緊張の糸を緩めつつ公園の前まで来ると、ちらりと横目を中へと向けた。

 雨が降り続く公園はどこもかしこも濡れに濡れ、砂場には水が溜まって池の様になっている。

 乗り手のいないブランコは動くことなく、雨の中で静かに佇んでいた。

 おそらくあの親子はこれからここで雨を楽しむのだろう。邪魔をしてはならないと思い、素通りしようとそのまま歩き続けた。はしゃぐ子供の声を通り過ぎ、しとしとと打ち付ける雨音で世界が満たされる。


 ――その瞬間、目の端を恨めしそうな子供の目が掠めた気がした。


 振り向いた先、目に入ったのは公園のフェンスと雨に濡れた花や植木。その奥に止まったままのブランコだけ。そこにいた幼い少女は海へ還り、再び魂の循環へと向かったのだ。

他は何も変わらない、そこにはもう誰もいないのだ。


 本当に、そうなのだろうか。

 上を見上げ、傘をずらして空を見る。大粒の涙の様な雨が途切れる事無く降り注いでくる。この雨も、魂を運ぶ水の道だ。もしかするとあの目は気のせいではなく、この雨に乗って千代が帰ってきたのではないか。

 少し足を戻して公園の中を見る。先程の親子が砂場の水たまりで遊んでいる姿が見えた。恐らくは、千代にとって寂しい光景だろう。

 彼女も今、公園のどこかであの親子を見ているのかもしれない。この公園で多くの親子を見つめながら、これからも待ち続けるのだろうか。たった一人で。


 ――いや、彼女は一人ではなかった。


 『亡くなる少し前から急に人付き合いが悪くなったんです。聞いては見たんですが、その度に『女の子と遊んでる』って言ってたんですよ……確か、“みよちゃん”だか“いよちゃん”だかって言っていた気がします』

 千代は瑞樹だけではなく、他の子どもたちの前にも表れていた。彼女は既に、水に乗ってこの町に帰ってきていた。

 それに薫の頃から三十年以上もの時が経っている。今年になって瑞樹の前に現れるまで、そんな長い時間を彼女が一人のままでいたとは思えない。

 ――思えない? それは何故だ。そう考えた時、不意に浮かんだ声があった。


 『 “ちよちゃんが”お姉ちゃんも一緒に海で遊ぼって言ったの』


 それは海岸での瑞樹の言葉だった。

 あれ以来ずっと何かが引っかかっていたが、それが何なのか今、はっきりと理解できる。

 あの時、瑞樹を誘っていたのは恵子ではない、千代だった。あの幼い少女が海の果てまで誘おうとしたのだ。そこにあるのは明確な理由、明らかな死への誘いだ。

 だが疑問が残る。何故千代は一人ではなく、止められるかもしれない恵子とともに誘ったのかというものだ。現に千代は恵子に行動を止めている。そうなる事を予測できなかったのだろうか。


 そこまで考えて、私には一つのおぞましい仮説が浮かんだ。

 もし海への誘いが瑞樹との一対一での話だったとしたら、自分より年下の少女以外に大人がいない状況で、果たして瑞樹は海まで付いて行っただろうか。

 子供だけで水辺へと行く事を禁じる家庭は多く、佐々木家もその一つだった。尚更瑞樹が誘いに乗るとは思えない。


 ――けれどそこに第三者の、それも年長者の存在があったならどうだ。

 瑞樹は彼女達を霊とは思っていなかった。瑞樹からすれば、彼女達はよく見知った仲の良い女の子と、年上のお姉さんでしかない。その年上の人物が引率者として一緒にくる、と言われたとしたら。

 思えば恵子との出会いも千代の導きがあってのものだ。その出会い自体が、最終的に入水を促すための、信頼を勝ち得る段取りだとすれば。子供のやる事にしては余りにも手慣れ過ぎている。

 私は池で亡くなった薫の事を今一度考えていた。亡くなる前に千代と遊んでいたという彼。佐々木の言う通り、その死が千代によってもたらされたものだとしたら。

 相手の子供や変化した環境に応じて手段を変えることが出来る程に、年齢に合わぬ狡猾な思考。それを体に入れるまでに、千代という少女の霊は、どれほどの人間を死へと誘ってきたのだろうか。

  脳裏に浮かぶのは、入水を邪魔された時に千代が私に向けた恨みの目。そして、千代を供養し続ける本谷住職の言葉。


 『あれから漂う念はこの世の者のそれよりも遥かに強く、根が深い』


 まだ幼い筈の少女に、目に宿る程の深い恨みを抱かせる強い念。

 水と共に何年も、何十年もめぐり続け、この地に深く根付いた遺恨。それが、一人の子供に覚えて貰えた程度で晴れるものとは思えない。


 ならば、千代は今も諦めず、遊び相手を求めて彷徨い続けているのだろうか。


 気が付くと公園の中で遊んでいた子供が、ひとしきり遊んで疲れたのか母親の手を引いて帰ろうとせがんでいた。見ると、母親の方がちらちらとこちらを見ており、それは明らかに不審者へ向ける視線だった。

 流石に不味いと思い、再び歩き出そうとした時。


 「ちよちゃん、バイバイ」


 打ち付ける雨の中、その子供の声は真っすぐ耳に届いた。声はゆっくりと遠ざかっていき、その場には私と公園だけが残された。

 もう帰ろう。そう思い、踵を返して歩き出す。出入口を通り過ぎ、あと一歩で隣の住宅を囲む塀の前へ躍り出ようという時だった。


 ――ギィー、ギィー

 

 錆びついた金属の音がして、むせ返る様な水臭さがより一層濃くなり鼻を衝く。

 私は後ろを振り向かずに、駅へと向かって走りだす。

 雨は止む事を知らない様に、だんだんと強くなっていた。

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