第17話
瑞樹が最後に目撃されたのは、学校から例の公園まで続く通学路だったという。
午後三時過ぎ、ホームルームを終えた教室で瑞樹は友人に挨拶をし、一人で帰途に就いたという。校門を出て真っ直ぐ公園の方向へと向かって行った姿を、校門前にいた教員が見ていたそうだ。
が、数秒目を離した間に瑞樹の姿は通学路から消え、教員は横道に入ったものと思っていた。
しかし、夕食時になっても帰らぬ娘を心配した知恵が学校に連絡を入れたことで事態が発覚。連絡を受けて早々に帰宅した佐々木も加わって、通学路近辺を捜索しているとの話だった。
「子供の行動範囲は馬鹿にできないからな。俺も急いでそっちに行くよ」
「すまん。こんな状況だし川の近辺や農地のため池とかも探しては見たんだが……」
この瞬間、真っ先に水辺が怪しいと踏んでいた私の予想が見当違いであると早々に確定した。ならば、瑞樹はどこへ向かったというのか。
――いや、この失踪に霊の関与あるならば、探してない水辺はあと一つある。
「佐々木、もしかしたら皆甕山にいるかもしれない」
山にある御澄もまた、玉返川の水源という立派な水辺だった。瑞樹の行方に千代達が関与し、また、御澄から水の流れに戻ろうとしているのだとすれば、その際に瑞樹を連れて行こうとする可能性はゼロではないだろう。
そう告げた瞬間、佐々木の怒声が響き渡った。
「ふざけるな! 瑞樹を連れて行くなんてそんな、そんなことがあってたまるか……!」
「わかってる。とにかく俺も行くからお前も山に向かってくれ」
そこで一旦通話を切ろうとしたが、電話口から聞こえた悲痛な声に手が止まった。
「なぁ、俺達が……俺がもっと瑞樹と一緒にいてやればあの子はこんなことにならなかったのか? 俺がもっと瑞樹の寂しさに気づいてやれてたら」
喉から絞り出したかのような、普段の佐々木からは考え付かない程に弱弱しい声だった。
当たり前だろう。娘の寂しいという思いに漸く気づけたと思った途端、その娘が居なくなってしまったのだから。私には察して余りある程の悲痛さに襲われているのだろう。
だからこそ、早く彼女を見つけなくてはならない。
「そう思うなら、これから幾らでも傍にいて、話を聞いて、一緒にいてやればいいんだ。その為にもまずは瑞樹ちゃんを見つけよう、佐々木」
そして今度こそ通話を切り、疲弊した肉体に鞭打って私も駆け出した。脳裏に浮かぶ嫌な想像を振り払うように、全力で。
道を大分南下して来ていた為、ひとまず実家方面へ北上した後に西へ直進するつもりだった。
数メートルは走った後だろうか。不意に海の方へと引き寄せられる感覚に襲われた。
一瞬ふらつくも何とか態勢を立て直す。
海の方へ目を向けると、そこは沖に突き出した堤防へと続く砂浜の北端だった。
風が強まり高めの白波が打ち寄せる波打ち際に、沖を見て立っている小さな影が見えていた。
慌ててスマホのライトを向ければ、覚えのある後ろ姿がぼんやりと照らし出される。ランドセルはしょっておらず、彼女は打ち寄せる波の中、足元が覚束ない様子で何とか一人で立っている、といったように見えた。
「瑞樹ちゃんっ! 」
少し戻って高低差が低い場所から飛び降りると、一目散に瑞樹の元へと向かう。思わず抱きしめた小さな体は波に濡れ、初夏のじんわりとした熱気にも関わらず随分と冷えて冷たくなっていた。
そのまま瑞樹を抱きかかえて波の来ない浜辺まで来ると、スマホを取り出して佐々木へとコールする。
丁度スマホを手にしていたのか、ワンコールで佐々木は出た。
「佐々木ぃ! 瑞樹ちゃんいたぞ! 」
「本当か! 今どこにいる! 」
「海だ海、うちの実家の近くの浜辺だ! 」
そういうと、すぐに行くと言って通話は切られた。
私は浜に下した瑞樹の肩を支え、もう大丈夫だと声を掛けた。
「もうすぐお父さんたちも来るからね。でも瑞樹ちゃん、どうしてこんな所にいたの? 」
瑞樹は訳が分からないと言った様子で瞬きを数回繰り返すと、混乱した様子で話し始めた。
「あのね、ちよちゃんがお姉ちゃんも一緒に海で遊ぼって言ったの。だから一緒に遊びたくて……遊んでくれるって言ってくれたから」
「そうだったのか。でもママやお兄ちゃん達にちゃんと言ってからにした方が良かったよね。凄く心配してたから、後でおじちゃんと一緒に謝ろうか」
心配していたといった辺りで泣き出した瑞樹だったが、謝ろうというとしっかりと頷いていた。
一瞬、何かが頭を過った気がしたが、目の前の状況にすぐ押し流されていった。
ひとまず瑞樹を落ち着かせた後にランドセルはどうしたのかと聞くと、どうやら少し離れた浜辺に置いてきたらしい。
「瑞樹ちゃん、今、ちよちゃんとお姉ちゃんってどこにいるのかな? 」
私は今最も気になっていた事を聞いてみた。すると、瑞樹は沖の方を指さして言う。
「あそこにいるよ」と。
指の先を目で追っていくと、それはいた。
陽が沈み、深い闇の色に染まった夜の海。風にあおられて白波が寄せる遠浅の水際に立つ二つの人影がじっとこちらを見つめている。
見つめていると分かったのは、二人の全体を包む影の中に、見つめるその二対の目がくっきりと浮かび上がっていたからだ。
その眼には喜怒哀楽がなく、ただただ無感情に見えた。
そうしているうち暗闇に目が慣れてきたらしく、影に覆われた二人の容姿が少しずつ顕わになってきた。
ひとりは髪を三つ編みに結い上げ、左目の下にある泣き黒子が特徴的な、背の高いセーラー服姿の少女だ。風に揺れているスカーフには恐らく刺しゅうがされているのだろう。
もう一人は丸襟のブラウスにスカート姿、髪をセミロング程に伸ばしている小柄な少女。名前や境遇は知っていたのに、姿を見るのは此処が初めてだったと不意に思い出した。
「『お姉ちゃん』と……『ちよちゃん』」
その名を呼んだ途端、得も言われぬ感情の傍流に襲われた。
それは、漸く二人に出会えた感動か、この世ならざる存在への畏怖、悲惨な境遇への憐憫、そして今も彷徨う二人への悲哀。ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされたそれらが噴水のごとく湧き上がり、気づいた時には涙が流れて止まらなくなっていた。
「おじちゃん、大丈夫だよ」
隣に立った瑞樹が私の手を握り占める。冷たかったはずの手が、今はとても暖かく感じられた。
その温かさに大丈夫だと、そう返したい私の口から零れたのは嗚咽だった。
子供のように泣きわめく私の頬に、触れた手があった。見ると、遠浅にいた筈の恵子が目の前にいて、私の頬に手を添えていた。
「『お姉ちゃん』が泣かないでだって」
私は改めて恵子をみる。残念ながら、彼女の声は私には聞こえないようだ。けれどもその寂しげな笑顔だけで私には充分だった。
「ありがとう『恵子ちゃん』」
始めて名前を呼ぶと、一瞬驚いた顔になる。しかし、次の瞬間には花のように鮮やかな笑顔が咲いていた。
「それ『お姉ちゃん』の名前? 」
「そうだよ。『前島恵子ちゃん』って言うんだ。『ちよちゃん』は『山口千代ちゃん』だよね」
言いしなに振り向くと、千代もまた笑顔で笑っている。名前が分かって嬉しかったのか、何度も二人の名を呼ぶ瑞樹に笑顔で頷く千代と恵子のやり取りが微笑ましい。ここが暗い夜の海で、今も私たちはずぶ濡れの状態だということすら忘れそうになる。
しかし、暫くすると恵子が千代の手を取り、二人で沖の方へと歩き始める。
瑞樹もついていこうとし、慌てて制止しようとするも伸ばした手は空を切った。
数歩先では千代が瑞樹の手を掴み、一緒に歩き出そうとしている。私は自分の愚かさを嘆きたくて仕方なかった。
何故あの二人に微笑ましいなどと思ってしまったのだろう。そもそも瑞樹を夜の海という危険な場所へと連れてきたのは誰だったか。
くず折れそうな膝を叱咤して走り出そうとした時、目の前の状況に変化が見られた。
千代の手を繋いでいた恵子がしゃがみ、千代に何かを話している。数回のやり取りの後、繋いでいた瑞樹の手を千代がそっと離した。
急ぎ瑞樹の元へ行くも、特に変化は見られない。何があったのか尋ねれば、困惑した顔を向けてきた。
「恵子お姉ちゃんがね、千代ちゃんに瑞樹は連れてはいけないんだよって言ったの」
不意に下から視線を感じて見下ろすと、唇をきゅっと結び目尻を釣り上げた千代と目があう。子供とは思えぬ程に恨めし気なその目と。
瞬間全身に鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが伝う。山で出会った葬列とはまた違う恐ろしさを感じていた。
そんな私を見つめ続ける千代の身体が、不意に反対側へと引かれる。引いた手の主をみると、変わらずに花のような笑顔で私に笑いかけると、一つ大きく頷いて見せた。
そして瑞樹に二三言話しかけると、彼女は千代の手を引いて再び沖の方へと歩き出していく。
私は何も言わず、その姿を見つめ続けていた。
「『千代ちゃん』『恵子お姉ちゃん』バイバーイ」
瑞樹が降り続ける手に返すことなく、二人の姿は夜の海へと消えていく。千代は最後まで瑞樹を、そして私の方を無表情で見続けていた。
彼女達はやはり瑞樹を道連れにしようと海に連れてきたのだろう。けれど、少なくとも恵子はすんなりとそれを諦め、千代もそれに続いた様子だった。
一度、いや二度も道連れにしようとした瑞樹を彼女達はどうして諦めたのだろう。
その時、不意に視線を感じて反射的に振り返った。砂浜の北端より更に奥、沖へと付き出した堤防の上に人影が立っている。
それは父だった。よく見ると、父もまた笑っていた。山で見た寂しげなものでも、遺影のぎこちないものではなお。笑い皺を深くした、ただただ穏やかな笑顔で。
その笑顔を見て、彼女らが諦めた理由が分かった気がした。
「父さん……ありがとう」
最初に海へと身体を引き寄せ、瑞樹へと引き合わせてくれたのはきっと父だったのだろう。確信と共に伝えた感謝に、父は深い頷きで応えた。
「瑞樹ぃー! 」
遠くから近づいてくる佐々木の声に耳をそば立てたところで、気が付くと父の姿は消えていた。少しの寂しさを胸に、私は瑞樹を佐々木の元へと連れて行く。
離れ離れだった父と娘が再会を果たすと、待ちかねていたかの様に雨がこの町全体へと降り注がれていった。
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