第16話

 水源を後にして山を下りながら、私は父と話をした。

 大学時代、看護師としての仕事、この町に帰ってきてからの事。実家を出てからの日々についてとにかく話した。父は相槌を打ち、時に質問を返してきてくれて、信じられない程に和やかなひと時だった。

 そうしているうちに、父と再会したあの場所へと差し掛かる。そういえば、父にここで見た葬列の事を話していなかったのに、私が見たものを父は何故か知っていた。

 どうして知っていたのだろう、そう思っていると、父の姿が見えないことに気が付いた。

 慌てて周囲を見渡すと、大分後ろの所にポツンと立ち、笑顔で手を振る父がいた。

 「母さん達に宜しくな。お前に、伝えられて良かった……」


 何を言っているんだ、早く家に帰ろう。そう言って一歩踏み出した時、不意に目の前かが翳り、大粒の雨が打ち付けてきた。

 曇天の薄暗さに満ちた獣道に、誰かがうつ伏せに倒れている。慌てて近づくも、何故か顔だけが暗くてよく見えなかった。頸動脈に触れ、同時に呼吸を確認する。触れた肌は温かかったが、どちらも既に止まっていた。

 心臓マッサージをしなければと、急いで向きを変えようとした時、


 シャン、シャン


 あの音が聞こえた。

 思わず顔を上げると、そこには傘を目深にかぶり、錫杖を持った僧侶がいた。後ろにあの白い葬列を引き連れて、僧侶は黙して立っている。

 何も分からなかった。なんであの葬列がここにいるのか、そして何故この人物は倒れているのか。

 その時ふと、横から視線を感じた。それを追って振り向くと、藪の隙間から覗く見開かれた一対の目があった。まるで子供の様に小さい目が一杯に見開かれ、僧侶達を凝視している。

 声を掛けようとした瞬間、雨に濡れた視界が一気に白くなった。


 そして瞬き一つすると、白い背景に黒い縞々が入り込んでくる。よく見ると、それは周囲をぐるりと取り囲むようにして掲げられた幕だ。

 その幕が張られた一面に、色とりどりの花で彩られた場所がある。近づくと、一段上がった場所により一層の花に囲まれた何かが置かれている。長方形の大きな箱だ、人ひとりが横たわれそうな程の。

 今は木の蓋で硬く閉じられ、唯一開いているのは蓋についた小さな窓だけだ。

 その中を覗きたくなくて、箱の上を仰ぎ見た。

 そこには一枚の写真が掲げられていた。黒い額縁の中で、少し硬い笑顔で笑うその顔は一体誰なのか。それを思い出せない事に、魚の小骨が刺さったかのような違和感があった。

 腕を組んで唸っていると、周囲からひそひそと潜めて話す声が聞こえてくる。

 『急な心臓麻痺ですって、まだお若いのに』

 『よりによって山の中でねぇ。もうお参りなんて止めとけばよかったのに』

 『お子さんもそこにいたんでしょ? まだ小学生なのにね……』

 小学生の言葉に振り返ると、親族席の辺りに黒い服に身を包んだ母と祖母がいた。 次々にやってくる人々に何度も礼を繰り返している、まるでロボットの様に。

 その一番隅の席に、俯いて座る小さな少年がいた。何も言わず、動きもしない様子は、却ってその姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 私はゆっくりと少年に近づく。目の前まで来た時、少年が勢いよく顔を上げた。

 『お父さんは死んでない! 』


 視界が再び朝日の差し込む山道へ戻ってくる。気づけば私は泣いていた。

 泣きながら、ただひたすらに父へ詫びていた。

 何故父の仕事すら知らず、喧嘩をした記憶しかなかったのか。

 その切っ掛けすら忘れて、何故あれだけ父を嫌っていたのか。

 その父が生きていたこの町を嫌悪し続けていたのか。

 母と父が何故、寂しそうな顔をしていたのか。


 私が本当に忘れていたのは、一体何だったのか。


 私は山を下りると、再び実家の門を叩いていた。

 「あら、山行ってきたの? どうだった? 」

 「うん……父さんに、会えたよ」

 母は笑って、私を通してくれた。そのまま私は居間へ続く襖ではなく、閉ざされていたその隣へと手を伸ばした。

 そこは仏間だった。壁の一角にある黒塗りの仏壇の前へと来ると、目に入った幾つかの位牌の中から一つを手に取り、裏返した。

 そこに記されていたのは、確かに父の名前だった。没年は私が小学三年生の頃で、日付は今日と同じだった。

 「ずっとお父さんは生きてる、今日も喧嘩したってあんた言ってたのよ」

 母が昨日と同じく麦茶を持って入ってきた。そのまま腰を下ろして、私を見てくる。

 「学校の先生や精神科の先生に相談してね、あんたが自然と受け入れるまで待ってみてはどうかって。でもまさかこんなに時間が掛かった後で、あんな形で山に行きたいって言い出すとは思わなくてねぇ」

 ノートを渡す時に結構ドキドキしてたのよ。そう言って母は笑った。

 私は上を見上げる。鴨居に立てかけてある遺影の中で、少し硬い笑顔で笑う父の顔と目があった。

 「お母さんも最初はあんたの作り出した幻覚か何かかと思ってたんだけどね。あんたが今日もお父さんがあれを言った、これを言ったって喧嘩の報告してくるのを見て、もしかしたらあんたの所にはお父さん出てきてくれてるのかなって思うようになったの」

 「うん。さっきも来てくれたよ、父さん。母さんに宜しくって」

 「そう……もう、直接言いに来てくれたら良いのにねぇ、お父さんったら」

 母の瞳から涙が静かに伝っていき、それが山中で過った葬儀の時の姿と重なった。

 あの時、幼い私が叫んだ相手は実際には母だった。

 『お父さんは死んでない! 』

 あれから二十年以上もの間、私はずっと目を背け続けていた。そんな私の前に現れた父はいつも言っていた。

 『いい加減、現実を見なさい』と。

 当時はそれが自分への過小評価であり、県外への進学を認めない言葉だとばかり思っていた。けれど、本当はそうではなかったのだ。

 この町に感じていた、何処へ行こうと纏わりつく、いつまでも捨てられない過ぎ去りし過去への嫌悪。それは突然いなくなってしまった父へのものであり、現実を受け入れられず過去に執着し続ける自分への同族嫌悪でもあったのだ。

 そんな私を父はいつも心配してくれていたのだと、どうしてもっと早く気づけなかったのか。

 今こそ父と話がしたかった。もっと色々と語り合い、謝りたかった。思い出し、納得し、受け入れられた今だからこそ。

 けれども、どこかで気が付いていた。おそらくそれはもう叶わないだろうと。


 手に持ったままの位牌。そこに刻まれている名前をもう一度見た。間違いなく、父の名だった。

 それで父がもう亡くなっていたのだと、私は漸く受け入れることができた。



 実家を出る頃にはもう、辺りはもう夕闇に染まり始めていた。

 時刻は午後六時を過ぎ、海沿いの道に人の姿はない。予報によれば夜にかけて天候が崩れるらしく、既に海には高い白波が目立ち始めている。

 少し速足気味に道を辿りながら、私は今後についてどうするか思考を巡らせていた。


 自分自身の問題に執心して忘れそうになっていたが、元々ここへ来たのは瑞樹の現状をどうにかできないかという佐々木の依頼あっての話だった。

 瑞樹の傍にいる千代や恵子がイマジナリーフレンドなどではなく本物の霊であるとなれば、この帰省における最終目標は霊からの瑞樹の解放である。

 解放などとそれらしいことを言ったが、要は瑞樹と千代達を接触させないようにするという事だ。その為には千代達が成仏するか、瑞樹の方の接点を無くすかの二択になる。

 父の言やノートの記述によれば、強い思いを抱いたまま亡くなった者の魂は、変わってしまった水の流れから溢れて、この町を彷徨い続けている。それを成仏させるには思いを晴らすか水を消すしかない。

 しかし、そう簡単に思いを晴らせる無念など無いだろうし、反対に水を消す事など出来るわけもない。

 となると、取り得る方向は瑞樹の方の接点を無くすという事になるが、こちらも中々難しいものがある。今現在霊に対しての瑞樹は『見える』『聞こえる』の状態だ。だがそれが果たして瑞樹側に原因、要は霊感があっての事なのか、それとも霊の方から強く干渉をしてきているからなのかは今も不明のままだ。

 結局、実家にて『お姉ちゃん』こと恵子の素性は分かったものの、どう接触を断つかという手掛かりについては全く得られなかった。

 仮に霊からの干渉によるものとするなら、最も現実的な対策は引っ越しだろう。だが佐々木家は持ち家でありそれは現実的ではない。

 一方で、瑞樹側の要因によるものと仮定した場合、それが多感な子供の頃特有のセンシティブなものに由来するのであれば、成長し精神的に安定すると霊が見えなくなる事もあるという。

 だが瑞樹は現在八歳であり、精神な安定が揺らぐのは思春期に入るここからが本番となる。要はその時期を過ぎるまでひたすら耐えるという事になるのだが、それは余りにも辛い道であると、今や私自身が良く知っていた。そもそも耐えたところでどうにかなる保証はない。これでは八方塞がりも良いとこだ。


 どうしたものかと頭を抱えたくなっていると、ポケットのスマホが着信を知らせてきた。ナンバーを見ると件の瑞樹の父、佐々木からである。

 「よう、丁度電話しようと思ってたとこだったんだ」

 「それなら良かった、ところで、お前今日瑞樹をどこかで見なかったか? 」

 「瑞樹ちゃんか? いや、山じゃ見なかったし、その後はずっと実家にいたからわからんが……何かあったのか? 」

 佐々木からの唐突な問いかけに質問で返すと、電話口から焦った様な声が聞こえてきた。


 「瑞樹が帰ってこないんだ! 」

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