第14話

 その夜、ホテルに着いて諸々の雑事を済ませると、私は鞄から例の二冊の本を取り出した。

 ベッドに並べた二冊を前に、どちらから読もうかと迷う。暫く逡巡した後、和綴じの方へと手を伸ばした。

 『皆甕山縁起』と書かれた表紙を慎重に捲る。が、その先に広がっていたのは、達筆すぎる程に達筆な筆字。

 素人目にはミミズがのたくったようにしか思えない物を一字一字眺めていたが、数分でギブアップした。

 理不尽極まりない怒りを抑えながら、諦めてノートに手を伸ばす。何も書かれていない表紙を震える手で開くと、几帳面に整列する角ばった字と対面した。

 『昔、この地に飢饉が起こり多くの人々が飢えて死に絶えた。その時天から神が降臨し、その身を御山と御澄へと変えて人々に恵みをもたらしめた』

 どうやらそれは、先の『皆甕山縁起』を父が訳したもののようだ。素直にありがたいと思いつつ、ページを読み進めていく。

 『人々は恵みに感謝し、山に石の座を作って神を祀った。御山の木々で家を建て、御澄の水で畑を実らせた。そうして暫く平穏に暮らしていたが、ある時大地が大きく震え、御澄の水が減り始めた。そして遂には枯れ果てそうになり、水が無いため作物は育たず、再び飢饉が村を襲った。人々はこれを神の怒りに触れたのだと思い、変わらず石の座に畑の作物なども供えていたが、それではいけないのだという声が上がり始めた。』

 どうやら御澄とは玉返川の水源を指す様だった。地震による湧水の枯渇といった地下水脈の変化はままある事であり、最近では二〇一六年に発生した熊本地震の直後に温泉や池の水が枯渇、または泉質の変化と言った被害が報告されている。

 地震が地下水脈に与える影響に関しては今なお研究が進められているが、当時の人々はそれを神の怒りととらえていたようだ。

 そして神の怒りに触れたと考える人々が次に供物として選択するものといえば、それは大抵共通しているものである。

 『人々は大きな甕を作り上げた。そこに飢えによる死者を収めて御澄の周りに埋め供物とした。それでも水が増える様子はない。ならばと今度は生きた人を甕に入れ、土に埋めた。すると、御澄に再び水が戻り、村に恵みをもたらしたのだ』

まさによくある人柱の流れそのままの展開だが、私が気になったのは入れ物の方だった。

 現代日本における遺体の埋葬法の主流は火葬であるが、その歴史自体は古く古墳時代にまでさかのぼるとされる。しかし、明治政府による火葬の義務付けがなされるまでは決して一般に普及していたとは言えず、地域によっては土葬を行う所も多かったそうだ。

 この辺りもその地域の一つであり、町内には今もかつての土葬跡が残っているところもあると学んだのは確か中学時代の地域学習であったと記憶している。

 しかし、この地域における土葬に使用されていたのは他の土葬地域と同様に木桶であったはずだ。何故わざわざ人が入る程の大きな甕を拵えたのだろうか。


 当時、人々は山を神そのもの捉えて信仰の対象としつつ、その山から木材を“戴く”ことで生活を成り立たせていた。その伐採した木材は当然埋葬用の木桶にも使用されていただろう。

 恐らくは、怒りを買ったとした神の一部とされていた木材の使用そのものを控えていたか、それとも供物の為に神の一部を使うのを躊躇ったのではないだろうか。

 続く父の字は、この土地が度々震災に見舞われていたことを記していた。どうやら玉返川の水源である御澄は地震の影響を受けやすいようで、度々地震により増減や泉質の変化をきたしていたとある。

 人々はその度に土をこねて甕を拵え、選び抜いた者をそこへ入れて御澄の傍に埋めて神に祈りを捧げていた。

 『 “村の皆”の為と、人を“甕”に入れて供物とする。それが繰り返されるうちに、いつしかこの地は“皆甕”と呼ばれるようになった』

 なるほど、そういう事だったのか。皆鹿目町の古い名である皆甕とは、公式には亀の集団を現す「皆亀」か、亀を見る様に促す「見な亀」に、当時はまだ生業として存在していた陶芸家達を示す甕を充てたものとされていた。だが、実際は甕そのものに人柱の入れ物という重要な意味があったのだ。

 いや、もしかすると、この町に陶芸家が存在した理由とは、そもそもこの甕を作る事にあったのではないのだろうか。

 父の書き記した『皆甕山縁起』には、この町にどうして焼き物の製造法が伝わっていたのか、その記述を見つけることは出来なかった。しかし、それこそ最初は他所から人を呼んで作らせたのかもしれないが、神への供物を入れる容器を作る名誉を他所の人間に任せ続けるとは思えない。

 甕づくりは回数を重ねるうちに、いつしか必要な技術を学んだ村人の手で作られるようになり、そのまま工芸品制作としての陶芸へと発展させていったのではないだろうか。

 そして彼らもまた、供物を御澄へと送り届ける葬列に加わっていたのだろう。創り上げた作品の役割を見届けるために。


 私は『皆甕山縁起』を読み進めながら、いつしかその光景を脳裏で描き始めていた。

 突然大地が揺れた後、息吹を止めた水源のまえで打ちひしがれる村人達。もう何度目かも分からぬ絶望を前に、彼らはせっせと土をこねて大きな甕を型作って焼き上げる。

 そして村の中でもひと際立派な家へと皆が集まり、長い長い話し合いの末たった一人を選び出す。家族や友人達が悲しみにくれる中、選ばれし人はこう言うのだ。

「村の為、皆の為ならば、この命をお返し出来る事は本望だ」と。

 その身に白を纏った人は焼き上がった甕へと入れられ、村人は輿に乗せた甕を水源まで運ぶ。経の声が響く山道を、死出の送り人らは列をなして黙々と進んでいく。

水源へとたどり着くと、彼らは手にした鍬や鍬で穴を掘り、そこへ甕を入れて土を掛けていく。口にするのは神への祈りと、捧げし者への懺悔だけ。

 捧げられた者は何も見えぬ暗闇の中、微かに届く彼らの嘆きを聞き続ける。暫く経ち、外の音すら無くなると、そこはもう闇だけだ。

 父の記述によれば、彼らには鈴が渡されていたという。己すら見失う暗闇の中、彼らは鈴を鳴らし続けた。誰が聞くともわからぬままに。そうして孤独を抱えたまま、いつしか鈴は音を止める。

 村人たちは甕に入れた者の旅立ちを知っては嘆き悲しんだだろう。それとも彼らは繰り返すのだ。御澄の水が戻る時まで、ずっと。

 そしていつしかこの地は皆甕と呼ばれるようになった。だが、彼らはその名にどんな感情を抱いていたのだろうか。捧げた者への懺悔か、人柱に頼らねばならぬ自分達への羞恥か。

 それとも、神と共に在る事への誇りか。

 『……捧げた人のみならず、皆甕の人々は死した後の魂は水の流れに乗って癒され、あの世へと旅立つと考えていたようだ。そうして時が来たらまた水と共に村へと戻り、産まれ直すという。俗にいう輪廻転生があるとされていた』

 読み進めるうちに、目に留まった個所があった。おそらくはこれが祖母の言っていた『魂は水と共に巡る』という事なのだろう。

 水に乗って村に戻る。それは人の魂が水を媒介として移動するということ。記述にはないが、これまでの流れから考えるにこの水とは御澄、つまり玉返川の水源に湧き出る水の事ではないだろうか。つまり、玉返川に乗って魂は返ってくると人々は考えていたことになる。

 その根拠として、次のような逸話が書き残されていた。

 その昔、村である一人の青年が亡くなった。彼の家族は遺体を山の麓にある共同墓地へと葬った。

 すると、暫くして御澄の近くで彼の姿を見たという者がちらほら出てきた。生前の家族や友人が彼に会いたさに山へ入るも、彼は姿を現さない。どんなに名を呼び、涙を流そうとも。そうして僅かな希望に縋りつくままいつしか時は過ぎていった。

 が、今度は村の中で彼を見る者が増えていった。家族や友人らはその姿を追って山の麓から海の方へと村を横断していった。

 そしてついに、海辺で青年との再会を果たした。皆が口々に会いたかったと声を掛けたが、青年は「もうすぐまた村で会える」とだけ言って、そのまま消えていった。彼らの悲しみに寄り添った神は涙し、それは雨となって村に降り注いだ。

 それから一年の月日が経ち、村に赤ん坊が生まれた。その赤子の右腕には、青年のものと同じ形の痣があったという。

『村を横断する。それはつまり川の上流から下流、そして河口へと流れに沿って進んでいる。最後が海だったことが、川に沿って魂が移動するという事に一定の信憑性を持たせていたのだろう』

 所見としてそう書き加えられていた父の字は、先程私が抱いた感想そのものだ。だがこの逸話を知ったことで、私は寧ろ疑問を抱いてしまった。人々が魂の移動の媒介となる水として考えていたのは、本当に御澄から湧く玉返川の水だけなのだろうかと。


 この話の中に水は二種類登場している。一つは御澄から湧き出し玉返川へと流れる水、もう一つは村に降り注いだ雨の水である。

 雨は輪廻転生にある産み直し、この話の場合には村に再び赤子が生まれる前に降ったものとされている。単に神の慈悲の心だけを現した一文の可能性もあるが、人々は青年の魂は川だけではなく雨をも媒介として村へ帰り、母体に宿ったとも考えていたのではないかと思う。

 水は皆甕山縁起が執筆される遥か昔より不浄を流し清めるとされてきた存在だった。彼らは、死した魂は御澄へとたどり着き、その後水に流されることで清められ、海へいくとした。そして上昇気流に乗って空へと昇り、雨と共に村に降り注ぎ、産まれ直して育った後、死して再び水へ帰るのだと考えたのだ。

 彼らが見出した魂の路、それは、水の循環にもよく似ている。

 水が自然の中でどう循環するかという事について一、度でも学ばなかった人はこの日本においてはごく少数だろう。その中で、湧水といった自然発生する水の大循環については、まず海をその起点として語られることが多い。

 太陽熱で暖められた海水は蒸発して気体となり、それらが大気中で集まることで雲が形成される。そして雲から降り注いだ雨の一部は河川や湖沼の水として、また一部は地下に浸透し地下水脈を通ってゆっくりと時間をかけて再び海へと戻っていく。

 そしてまた雲となり、雨となって再び大地に降り注がれていく。


 ここまで考えてみて、よく似ている、というにはあまりにも似すぎていると私は思った。もしかすると、人の魂は本当に水と共に循環しているのではないだろうか。湧水や川、海だけではなく、雨や地下水脈とも。

 そうなればこの町に現れている全ての霊、その出現全てに説明がつく。

 川や海での目撃された者たちは勿論の事、井戸や埋め立てられた池の跡地に出現するのも地下水脈や雨が運び手となっているならば道理が通る。例え目に見えず、止めば消えてしまうものでも水は水だ。彼らは確かに、水を伝って現れていたに違いない。

 ――が、そこまで確信した私は、次の瞬間には自分でそれを否定した。

 霊という存在は決して水だけで移動するわけではない。一定の場所に囚われている地縛霊でもない限り、基本的に彼らは自由に移動できるはずだ。現に、千代や恵子は瑞樹と共に水の無い佐々木家へと移動を行えている。

 これまで水との関連性ばかりに目を向けていたために忘れていたが、寧ろここまで水と霊の出現パターンに一貫性がある方が些か妙な話なのだ。それとも、そこにも何か理由があるのだろうか。

 疑問はまだある。仮に彼らの移動に水が関わっていたとして、それが皆鹿目町の宅地造成計画とどのような関係があるというのか。

 私はノートをめくり、続きに目を通してみようとした。ノートは日記ではない為記載頻度はまちまちであり、数か月何も書かれていない事もあれば、一行のみ『山へ行った。葉がほんのりと色づきつつある。秋ももうすぐそこだ』といった山の様子が書かれているだけの事もあった。せめてその一行に意味を見出そうと頭を捻るも、結局何も思い浮かばない。

 そして捲り続けること数分、残り数ページの所でノートの記載は止まっていた。何があったのだろうと日付を見ると、二十年以上前の五月の日付で止まっている。幾ら仕事が忙しかったとしても、父は二十年も放置する程筆不精だっただろうか。

 疑問は残ったままだが、一方で確かな成果もあった。少なくとも、水と霊には古来からの深い関りがあるという確信を得られたのだから。

 これまで点と点で区切られていた一つ一つの出来事、それが水という線で全て繋がっていく。そして、それらの線の起点は水源、つまりは皆甕山にあるのだろう。

 私と父を繋ぐものも、恐らくはそこに。


 この時点で私は作業を切り上げ、早めに就寝することにした。

 なにせ、明日は早朝から山登りとなる。今日一日で心身ともに大分疲弊していたし、体力の回復を努めるに越したことはない。

 二十年分のノートの残りや疑問点はについても今は保留でいいだろう。それらは明日執筆者本人に聞いてやればいいのだから。


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