第4話
初めに通ってきた国道沿いを曲がることなく北に進んでいくと、暫くもしないうちに小高い堤防とへ突き当たる。そこを越えた先に見えてくるのが、皆鹿目町の北を流れる二級河川の『玉返川』である。
玉返川は町の北にそびえ立つ大山に水源をもち、町の中を通って太平洋へと流れ込んでいる。途中、蜘蛛の巣のようにあちこちで引かれた水路を伝って昔から農耕や工芸、生活にと利用されてきた。
水路の町というと岡山県の倉敷美観地区が思い起こされるが、此処の水路は一見すると巨大な用水路の様な蓋で覆われている為に、観光資源にはなり得ないように思える。
しかし、一方では本流の周囲には堤防を兼ねた遊歩道が造られ、路肩を芝や花で覆い見目好く整備されていた。
小学三年生の高橋拓海少年は先月の放課後、その遊歩道で独り遊んでいたという。
時刻は午後四時前位かで、覚えている限り周囲に人影は無かったそうだ。
元来植物に興味を抱いていた拓海は図書館で借りたポケット図鑑を片手に、成育している草花の観察に時間も忘れて精を出す。それ自体は拓海がよく行っている事である。
が、この日は少し違っていた。
それは路肩にしゃがみ、花と図鑑を見比べている時だった。
「ねぇ、何してるの? 」
見上げると、同い年程の少年が興味深そうに拓海を見下ろしていたという。
「図鑑でこれ調べてんの。でも似てるのが二つあってどっちかわかんないんだ」
「ちょっと見せて」
少年もしゃがみ、暫し花と図鑑を見比べて言った。
「これ『さんがつ菜』って言うんだよ。このセイヨウカラシナってやつの方」
「マジ? こっちのクロガラシかと思った」
少年は笑った。けれど、その顔はどこか寂しそうだったと言う。
「よく母ちゃんと摘みに来てたんだ。そこら中に生えてたけど早い者勝ちですぐなくなっちまうんだ」
「これそんな人気あんの? 俺からしってあんまし好きじゃないんだよな」
「僕もこれ嫌い。もう食べなくていいやってなったし」
からし嫌いの二人は馬が合うなと笑い合い、それから一緒に遊ぶことにした。
その少年は手ぶらで出来る鬼ごっこや高鬼といった遊びには詳しかったが、流行りのゲームやアニメについては良く知らず、拓海が教える話一つ一つに目を輝かせていたそうだ。
「その『ぽけもん』って面白そう! 何処にもいかずにあちこち行けるのって言いなぁ」
「ポケモン知らないとか勿体ねぇよ! 今度貸すから一緒にジム戦とかやろうぜ! 」
拓海がそう言うと、少年は再び寂しそうな顔で笑った。どうしてそんな顔をするのかと拓海が聞こうとした時。
「あんたいつまで遊んでんの! もう夕飯出来てるよ! 」
振り向くと、怪訝そうに眉をひそめた拓海の母が立っていた。
「母ちゃん! 」
「いいから早く帰るよ」
夕食時になっても遊歩道周辺で遊んでいるなどいつもの事と、呆れた調子で踵を返した母親に拓海も慌てて後に続こうとした。
「また明日遊べ……あれ?」
声を掛けようとしたその先に、既に少年の姿は無かった。呆然と立ち尽くしていると、母親がやってきてこう聞いてきたという。
「母さんさっきから気になってたんだけど、あんた誰と遊んでたの? 」
結局、その少年との再会は未だ叶わぬままだという。
「あの後何度も3DS持って行ったりしてんのにそいつ何処にもいなくてさ。他の奴の話きいて、あいつも幽霊だったんだってマジビビったわ」
身を乗り出して話す拓海の話には瑞樹との共通点が多々あった。
放課後に、一人でいると現れる、他の人間には見えない存在。だが「お姉ちゃん」と同じく、拓海もまた少年の詳細について詳しくは分からないという。
「じゃあ今度は俺の番な! 2組の近藤って奴の話なんだけどさ」
拓海が生んだ波に乗るべく、飯島健斗少年が勢いよく手を上げて語り始めた。
それは、新学期に入って最初の日曜日のことだったという。
その日、近藤一真少年は父親と二人で釣行にいそしむべく海辺の堤防へとやってきていた。
天候も良く、並みも穏やかな絶好の釣り日和であったため周囲には釣り人の姿も多かった。
暫く父親の傍で引きを待っていた一真だが、一向に竿がしなる様子はない。そこでライフジャケットの常時着用と目の届く範囲にいる事、そして何かあれば必ず大声を上げる事の三つを条件に、父親から許可を得て場所を変えようとした。
竿とバケツを持って少し歩くと、堤防の入り口付近に人のまばらな場所があり、一真はそこで竿をおろす事にした。
引きを待ちつつ、テトラポットに打ち寄せる白波を眺めていると、急に声を掛けられたという。
「チヌか?」
「ううん、メバル。でも引きが全然無い」
言いながら振り向くと、甚平姿で細身な白髪の老人が立っていた。老人は曲がった腰をさらに曲げ、口元に蓄えられたひげを撫でさすりながら一真の竿を眺めていたという。
「そこじゃあ駄目だな」
ちょっと貸してみい、と老人は竿を一度引き揚げ、今度はテトラポットで陰になっている所を狙い竿を振った。
「メバルはお天道様がちと苦手でな。嫌いじゃねぇんだが、暗いところからひっそりと眺めていたいってのが多い。だから影が一等濃いところに投げてやると……ほい、きたでな」
数分もたたないうちに強くしなりだした竿を、老人は一真に握らせた。
引きはとても強く、海に引きずり込まれそうになる程だった。が、一真が諦めそうになる度に、横の老人から檄が飛んでくる。
「頑張れ坊主、堪えろ堪えろ! 負けるな! 」
その声は老人の発するものとは思えない位に力強かった。自分なら何でも出来ると思わせてくれるその声に応えたい。その一心で、一真はたった一人で竿を握り続けた。
何度も励まされつつ格闘を続けるうちに、白波の合間から見える魚影は少しずつ濃さを増していく。あと少しというところで、状況に気づいた父親が駆けつけてきた。
「一真! 何やってんだお前! 」
父親は一真を抱える様に背後から手を伸ばし、竿を掴むと一気に引き上げる。
その瞬間、水面を割って黒々とした大振りの魚が一匹、宙を舞った。
父親は持っていた網に魚を捉えてバケツへと放り込む。そして竿を置くと、手を上へ上げた。
その場にバチーンと乾いた音が反響する。左の頬が赤く染めたまま、こみ上げてくるものを必死にこらえて耐えようとする一真の頭上に父親の雷が落とされた。
「何かあったら声出せって言っただろ! あのままやってたら一真、お前は海に落ちて死んじまってたぞ! 」
「だって、出来るって思ったんだもん……お爺ちゃんも頑張れって」
「お爺ちゃん? どこにそんな人がいるって言うんだ」
言われて一真は気づいた。先程までいた筈の老人の姿がない。
父親の声に気づいて周囲に集まってきた釣り人たちの中にも見当たらず、その中で老人の存在に気づいていた者もまたいなかった。
それどころか、小学生が海に落ちそうになっている事すら誰一人として気づいていた者はいなかった。まばらだったとはいえ隣人との間隔は数メートルも無く、波も少ない静かな状況であったにも関わらず。
そして堤防のすぐ下にはテトラポットが敷き詰められている。その複雑な形状が生み出す海流に飲まれれば、遺体の引き上げすら困難だろう。
もし父親が気づかなければ、自分は今頃幽霊の仲間入りだった。翌日登校した一真は顔を蒼くしてそう話していたという。
目を細め、声のトーンを最大限落としておどろおどろしく語りあげた健斗は、一瞬目を閉じて一息つく。そして次の瞬間パァっと表情を明るくした。
「これで俺の話はおしまい! どうおっちゃん? 怖かった? 」
「いや凄い話聞いちゃったなぁ! 予想以上に怖かった」
そして、それ以上に健斗の話は興味深い内容であった。これまでに聞いた瑞樹の『ちよちゃん』と『お姉ちゃん』の話、そして拓海の見た少年の話。先述したとおり、この二人には少なくとも三つの共通点が存在した。放課後に、独りでいると現れる、他の人間には見えない存在の三つである。
だが、健斗の話した一真の体験は少し違っている。一真がいたのは放課後ではなく日中の堤防で、まばらとはいえ周囲に人もおり決して独りだったとは言えない。共通点と言えば、当事者が小学生であることと、その老人もまた他人には認知されない存在であったという位だろうか。
その時の私が抱いていた最大の疑問は、この共通点の少なさである。
よく『○○で××を見た、聞いた』という語り口で複数の人間から話を聞いた事はだれしも一度や二度ではないだろう。このうち場所か対象かのどちらかが同一のものを示していた場合、もう片方も共通する何かであるものだったりする。
例えば『○○という有名な事故多発の場所で被害者の霊を目撃した』という話であれば、場所と霊の目撃という事象、そしてそれらが事故被害者である背景と、これだけ複数の共通項を見出すことが出来る。
そして共通項が複数に渡っているならば、それらは根本で繋がっている可能性が高いと言えた。
以前映画化もされた小野不由美氏の著書『残穢』はまさに、こういう複数の体験談に共通する根、著者の定義では『穢れ』を追っていく内容である。著書の中に、このような一節がある。
『別の人物から聞いた別の場所の話であるにも関わらず、手繰っていくと根は同じだった、ということもある、という』
まさに、私が想定していたのはこの一節であった。
しかし、少年も老人も亡くなったちよちゃんや未だ素性不明の『お姉ちゃん』と関係があるようには思えず、場所や時刻もバラバラである。これではどうにも繋がらないと、内心頭を抱えたくなっていた。まるで問題となり得る情報に翻弄されて看護診断を導けずにいる新人看護師のように。
看護師は収集した患者情報を分析した上で介入する看護問題を設定し、日々のケアに当たっている。その分析手法としてよく情報同士、分析した内容同士を繋げて樹形図を作成したりすることがままあった。
このままここで悩み続けるよりは一旦ホテルに戻り、基本に則って樹形図の一つでも作ってみようかと思っていたのだが。
「次俺! 俺! 学校での話ね! 」
けれども白熱した小学生男子に水を差す事ほど無粋な真似はないとも、かつての小学生男子としてよく理解していた。
単純に、この暑さと徒歩運動ですり減った体力と気力が若さに負けただけともいうが。
佐藤駿少年の話は、なんと、つい昨日の事だと言った。
「国語のドリルやってくんの忘れて先生に教室で居残りさせられててさ、めんどくせーってサボりながらやってたら、終わったの夕方になっちゃって」
教室の壁掛け時計を見ると短針が四と五の間にあったことを駿は覚えていた。
窓から差し込む筈の夕日は雨雲に遮られ、電灯のついてない教室は普段より一層薄暗さを増していた。
慌ててランドセルを掴み教室を出る。昇降口までこのまま道なりに廊下を進む事も出来たのだが、母親の雷を恐れた駿は多少なりとも近道をすることにした。
廊下を真っすぐに進むと、曲がり角の所に中庭へと通じる扉がある。そこを斜めに真っ直ぐ突っ切っていけば、昇降口へと通ずる扉があった。
駿は廊下を駆け抜けて、迷うことなく中庭へと飛び込んだ。パラパラと落ちてくる雨粒が駿の身体を濡らしていく。
この中庭は人工芝で覆われた空間であり、校舎の外壁に沿って各学年で育てている野菜や花のプランターが並べられ、各クラスの当番が水をやる姿が日中はよく見られていた。
そして中庭の中央には、木登りが出来るほどの大きな樫の木が植わっている。
走りながらふと気になって、駿は横目で樫の木を見る。
――その木の下に、誰かがいた。
思わず立ち止まり目を凝らすも、さらに濃さを増した木陰に覆われて服装すらもよくわからない。陰に影が重なって、一瞬人物が二人に見えた気がした。
駿はなるだけ足音を立てずにゆっくりと近づいていった。だんだんと輪郭がはっきりとしてくると、それは同じクラスの新見春香という少女だった。
「なんだ新見じゃん! 何してんだよ? 」
「……」
背を向けたままの春香はか細い声で答えた。否、それは返答ではなかった。
春香はずっと何かを話し続けていた。まるで樫の木にむかって話しているかのように。
または、その下にいる誰かとの会話を楽しんでいるかのように。
気づいてしまえば、流石に駿も薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。耐えられずに手を伸ばし、春香の肩を思いっきり揺さぶる。
「新見! おい新見ってば! 」
「……あれ、佐藤君? 何してるのこんなとこで」
「何って、お前こそ今誰と喋ってたんだよ」
春香は首を傾げた。そして一言『女の子』と答えてきた。
駿は薄暗さを増してきた中庭を見渡してみた。けれども、二人の他に人影など見当たらない。今度は駿が首をかしげる番だった。
「『女の子』ってうちのクラスの? それとも二組の? 」
「どっちも違うよ。あの子は……あれ? あの子ってどこのクラスの子だっけ? 」
逆に聞かれた駿はいよいよもって背筋が寒くなってきた。ここ最近は以前より耳に入るようになった幽霊目撃談を思い出したのもあるが、この中庭そのものの謂れも彼にとっては問題だった。
この中庭が現在の姿になったのは、小学校が移転してきた二〇〇〇年代初頭である。それ以前の八十年代まで、この場所には敷地の半分を超える大きさの池があった。そこを土で埋め立てて土地を確保し、小学校移転と共に芝を敷いて樫の木が植えられたのだが、かつて池を埋め立てる原因となった事件があったという。
ある日の放課後、池の周りで遊んでいた一人の子供が、誤って池に落ちてしまい、そのまま溺死した。
それ以来、亡くなった子供の呪いで池の周囲で事故が耐えなくなってしまった為に池を埋め立てた、というものだった。
池が本当に存在していたのは校長室前に掲示されている昔の写真が示しているので確かである。となれば、証拠が一切無い溺死した子供とその呪いの存在をも、小学生の頭脳は関連して認識してしまうのも仕方の無い事であった。
そして、今ここで見た春香の行動とも。
男子が小学三年生にもなれば、妙に意識してしまう恥ずかしさから女子と手をつなぐなんてことなどありえない、と思う者が多いことだろう。
が、この時はそんな役に立たないプライドを捨てて、春香の手を握り昇降口へと続く扉に向かって走り出した。
そして今、この公園の中に、それを咎める者など一人もいなかった。
「あれ絶対幽霊と話してたんだって。先生にも聞いたけど、女の子で他に居残りして蛸なんていなかったって言ってたし。でも新見だけじゃないんだよ。最近壁とかにむかっておはよう! って言ってたり、話しかけたりするやつ他の学年でも結構増えてんだって。先生が参りましたねって保健室の先生とかカウンセラーの先生と話してるの聞いちゃったし」
やはり佐々木家で聞いた話の通り、瑞樹と同様の行動をする生徒に学校側も対応に苦慮しているらしい。
だがそれもそうだろうと私は思った。この短時間で三つもの具体的なエピソードが明らかになる位だ。恐らく学校側へはこれ以上に生徒らから体験や目撃した話が寄せられているに違いない。そしてそれらは一見、バラバラな内容にすら思えるだろう。
その中には駿の話の様に、放課後という時間帯や春香が中庭に一人でいたこと、そして恐らくは他には見えない存在との遭遇という、瑞樹や拓海とも似たような話もあるだろう。
その一方で、他とは一線を画している一真の様な体験もまた寄せられている筈だ。
このように、学校の七不思議や特定の幽霊話のように語る事そのものを止めて収まるようなものではなく、またそれぞれが独立して強烈な印象を放つエピソードである。範囲も、対象者も第三者的視点で限定できるものでもない故に、対応にも余計慎重にならざるを得ないのだろう。
――そう、それぞれが独立したエピソードだ。だがそれは果たして幼い子供達だけの特別な体験なのだろうか。
ふと疑問が湧く。だが、その答えの一部は既に知っていることを直後に思い出した。
瑞樹とともにブランコの怪の体験者兼目撃者である大樹、その大樹と共に瑞樹の行動を目撃した知恵。二人は既に幼い子供などではない。
ならば、他にもいるのではないだろうか。幼い感性ではなく、ある程度成熟した知性を通してなお実態を掴めない事象に遭遇した人物が。
まずその場にいる子供達に疑問をぶつけてみたが、残念ながら彼らに心当たりはないという。彼らにないのなら、後は町で聞き込みなりしてみるほか無いだろう。
が、その前に気になっている事がまだ一つ残っていた。
「君たちから見て佐々木さんってどんな子かな? 」
私が知る瑞樹とは、彼女の部屋で話したあの短時間の姿であり、あとは佐々木家の面々から聞いた情報のみである。しかし、そこにはやはり家族としての主観的視点が大いに反映されているだろう。情報の客観性を補うために、親兄弟の知らない瑞樹を知る彼らの話が聞きたかった。
「佐々木はなー。普通に話すし、凄い性格が悪いって訳でもないんだけど……なんかちょっとふわふわしてるっていうかさ」
「他の奴らはそんなでもないけどね。元から少し浮いてるって感じがあったけど、最近じゃずっと一人で幽霊か誰かと喋ってるから、余計に話しかけづらいんだよなー」
その声に一斉に同意を示す子供達をみて、私は無意識に姿勢を正していた。
やはりあの短時間だけで、人間そのものや置かれている状況を測れるものではない。職業上人を見る眼はある方だ、という無意識の驕りを指摘させられた思いだった。
その一方で、瑞樹をはじめとする不可思議な様子が目撃されている人々には、本当に見えない何者かが接触してきているのではとの思いが一層強くなってきていた。
しかし、このまま目撃談をただ集めていても確たる証明はえられないだろう。そこは普段患者と対面した時の対応と似ている。彼らに生じている事象を明らかにするには発言だけでは不十分。それを証明する客観的事実の有無が重要となる。
今必要なのは、目撃者が言う通りの人物が過去に存在していたという確かな情報だった。
私は彼らに礼を言うと、次の目的地に向かって歩き出した。
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