二:
「ええ、確かに、書庫に行けば王国の魔法使いの役職をまとめた台帳がありますが……」
訊ねられた質問に戸惑いながら、三十路をようやく超えたばかりの青年財務官は答えた。場所は宮廷の何でもない廊下で、彼は両手一杯にかさばる書類を抱えており、明らかに所用のため駆け回っていた最中に足を留めさせられている。「しかし、そんなの何に使われるんですか? こんな時に」
「拒否する権限が君にあるのか?」
青年に言い返したのは、彼よりもひと回り年下に見える女だった。「忙しいところ申し訳ないけど、書庫にあるのなら案内してほしい。あいにくこっちも急いでいるのでね」
「はぁ……仰せとあらば。マリス・フィリアス
小柄なくせに気の強いお澄まし娘――そう見えたとしても、立場的に青年が抗えるはずもない。彼に所用を命じた上官も然りだ。
賢聖官である彼女に表立って逆らえる立場と言えば、国王と執政と首席賢聖官と、貴族院の中でもとびきり偉そうな一部の古狸ぐらいのものだから。
彼は言われるがまま方向転換し、書庫までの先導を務めた。いざとなれば一万人近い人々を城内に抱え込む巨大な宮廷を、端から端まで移動しなければならなかった。
壁面に並ぶ鮮やかなモザイク画を次々と通り過ぎ、四方から献上されたであろう見事な細工の工芸品が場を争うように置かれ、王国300年の栄華をまざまざと見せつけるようだった。
王家の勇武を讃えるもの、過去の大会戦の戦勝を祝うもの、秋の豊穣を祝福するものなど数多の巨大壁画が居並ぶ中、ほとんど目もくれず先を急ぐマリスの目に束の間の印象を残したのは、木船に乗って荒れ狂う大海を
それは始祖の王の伝説だった。彼の船のすぐ前には、蒼の魚鱗が輝く海神が描かれ、その指先は
しかし、そうしたせっかくの名画も、今や誰も立ちどまって見ようとはしない。
2人の身長の何倍も高い天井には、床を叩いて進む足音だけでなく、宮殿の方々から伝わる喧騒が絶え間なく反響していた。2人の耳に聞こえてくるのは、どれもこれもが切迫した声だった。
古今一と称された荘厳な宮殿には、仄暗い悲壮感が鳴り響いている。王国の名誉と威光を知らしめる時間は既に終わり、これから訪れるのが清算の時間であることを暗示していた。
「今朝の報告によれば、ついに敵はガリウ川まで迫ったようですね。
宮廷の騒がしさから自然と連想したのだろう、彼はマリスに話しかけた。「それにしても、王国の魔法兵団は大変優秀な精鋭揃いだと聞いていたんですが。やはりサルディオ源炉の失陥がまずかったのでしょうか?」
「当たり前だ。あれで魔原供給能力が3割減ったのだから」
マリスは毒づいた。「そもそも魔法兵団の数からして4、5倍ほど違う。もう無理だ」
この戦乱の行方など、彼女の中ではとうに結論の出ている話だった。
「ああ、ここです。右手に行って奥から3つ目の棚だったと思います」
目当ての書庫に到着した財務官はそのまま中へ進入し、居並ぶ書棚の狭間でぴたりと立ち止まった。「これだ。わかります?」
マリスは彼が指し示した台帳を手に取って確認すると、満足して頷いた。
「ありがとう。確かにこれのようだ」
「では、これで」
「待って」
マリスは立ち去ろうとする彼を鋭く呼び止めた。「しばらくしたらここに戻ってきてほしい。もうひとつ案内してほしい場所があるんだ」
「この後ですか?」
さすがに彼もげんなりした表情を見せた。相手が彼女でさえなければ、こんな雑用に手を取られている場合ではない。
だが、躊躇う彼にマリスは迫った。
「どうかお願いだ。助けてほしい」
そう口にした彼女の、中性的で凛々しい顔立ちと眼差しを間近で受け止めてしまっては。むむむ、と悩んだ末に青年は観念した。
「……承知いたしました、すぐに戻ります」
青年の去った後、世界から忘れ去られたように静けさを取り戻した書庫の中で、マリスは台帳を頭からめくり始めた。
彼女は、ひとりの知人の所在を探していた。
◇
自らの目論見の協力者を思案した時、マリスの脳裏に思い浮かんだのは彼女だった。魔法学校の生活を共にした間柄で、巣立った後に会ったことはなかった。
それでも、あの子ならきっと協力してくれる――そう確信めいた直感に突き動かされ、彼女の居場所を調べることに決めた。
魔法学校を卒業した以上、王国のどこかで魔法使いとして職務に当たっているはずで、であれば宮廷の連中がリストをまとめているはず。マリスのその読みは的中し、宮廷には所属魔法使いの管理台帳が保管されていた。
一気に頁をめくり、彼女の名前を一心不乱に探した。やがて、その名を発見することができた。
書き留められていた彼女の駐在地は、王国西方を埋め尽くすバルトゥルカンの大樹海――隣国の執拗な侵攻を尻目に悠然と横たわる魔境、その最奥部であり、魔法の発動に必要な魔原を生み出すバルトゥルカン源炉の管理施設だった。
なるほど、そこは王国の魔法基盤を支える最も重要な拠点のひとつだ。そして数ある源炉の中でも、王都から近くはないが遠くもない。マリスの企みにとっては出来過ぎなぐらいに都合がよかった。
台帳を書棚に戻すと、早足で出口へ向かった。
そこには財務官の青年が律儀にも待機していて、マリスの接近に気づくと敬礼をした。先ほどその両手は抱えた荷物で塞がっていたはずだが、すっかり手ぶらになっている。
「ありがとう。おかげで欲しい情報が見つかった」とマリスが言えば、「それはよかったです」と彼も応じた。
「それで、賢聖官様。もうひとつ案内してほしいと仰っていたのは?」
「そうだな、西方の地図を借りたい。保管庫の場所を教えてほしいのと、表向きに残らない形で借用させてほしいのだけど」
「西方の地図?」
それを聞くなり、彼は
彼はそれなりに勘の鋭い人物だった。若くして政務官の一角に任命された将来の貴族院議員候補として、王国への忠誠と情熱にも溢れている。マリスにとってそれは彼を信用する理由でもあったが、今に限っては裏目に出た。
「君に答える義理はないよ」
「なぜ今なのですか?」
しらを切ろうとしたマリスに、財務官は食い下がった。「ご存知ですよね、3日後の夜には今年1番の<
「必要な差配は既に済ませている、問題はない」
「だとしても、戦況も予断を許しませんし、まもなく大々的な反攻の動きがあるやに聞いています。いかな賢聖官様でも、規律破りをなさるとあっては……」
彼の懐に潜り込み、その二の腕を思い切り掴んだ。その突飛な行為と、そして存外の力強さに驚いた彼に、ぐっと顔を近づけた。
「下手なことは訊かないでおけ、それから誰にも言うな。事が露見した時はお前も殺されるぞ。――それでも説明が必要ならするが?」
一気に青褪めた彼に、こうも付け足した。「君が余計な心配をする必要はない。王国の利に反することをするつもりはないよ」
過剰なぐらい頷くと、何も言わずに地図の保管先へとマリスを案内した。その足取りは少し震えていて、部屋の前に着くなり、冷や汗を散らしながらそそくさと逃げてしまった。
バルトゥルカン樹海の描き込まれた地図を探し出したマリスは、書棚前の足元に勢いよく広げた。仔牛が寝そべれるぐらいの大きさの堂々とした地図だった。
樹海の中まで道の記載はなかった。しかし、樹海の淵ぞい、街道から外れてしばらく北上したところに『
ここから源炉に至る魔原の伝送線を辿れる、と気づいた。魔原伝送線は木の幹を伝って一本筋の縄となって樹海の奥、起点となる源炉まで伸びているはずだった。樹海は広大である反面、地形の高低差はそれほどないとも聞いている。
確信を得たマリスは、地図を折り畳んで鞄に仕舞い込むと、保管庫を飛び出した
――が、その矢先、廊下前方に立ち塞がっていた人影に気づいて急停止を強いられた。
色とりどりの豪奢な装飾の衣装を身にまとった、男の人影。マリスを見下ろすほど背が高く、贅肉のない顔付きには黒曜石のような双眸がじっと輝いている。
彼女を見るなり、腹の底に響く重厚かつ老成された声で話しかけた。
「探したぞ、マリス。そんなに急いでどこへ行く」
「……これは父上」
現れた人影は、彼女の養父だった。マリスは苦々しく顔を引きつらせ、頭も下げずに答えた。「4日ほど
「待て」
再び歩き出そうとしたマリスを制した。「わがままの前に、質問に答えなさい。4日間もどこへ行く」
「それは申せません。言えば、父上にもご迷惑がかかる」
「親子の間柄で何が『迷惑』か」
はー、と呆れたため息を吐く。「忘れた訳ではあるまい、<
「この国の魔法を救います」
マリスの答えに迷いはなかった。憤りさえも込めている。「誰もそうはなさらないようですので。父上も含めて」
その勢いに任せて、制止も聞かずに養父の脇をすり抜けた。
「マリス!」
呼び止めたが、彼女が振り返る気配はない。どんどん小さくなる背中に、彼は廊下中に響くほどの声を張った。「情動に惑わされず、よくよく考えよ。今、我々が護らねばならないものはそんなものではない!」
“そんなもの”。
そう言い放った養父の声にますます頭が熱くなり、マリスは奥歯を噛み締めた。
かえって歩みを加速させ、マリスは宮廷内の回廊に行き交う人混みを鹿のようにすり抜けて宮廷の外に出る。
待たせていた馬に飛び乗り、そのまま風のように王都の市街へ駆け出した。
◇
天候は曇天、分厚い雲海に遮られ、陽の光はどこにも見えず。
常ならば、天がいかに曇れども、威風堂々たる宮廷とそこから市外へ通じる街道沿いには昼夜
そして、悲運なのは魔法使いたちだけではない。大荷物を背負った避難民らしき家族、煌びやかな装具にも関わらずこわばった顔で行進していく騎兵たち、傷ついた身体で路端に横たわる男たち、物憂げに話し込む行商人たち――それらを追い越し、あるいはすれ違い、マリスの駆る馬は街道を駆け抜けた。
戦況が悪化の一途を辿り、ここ王都にまで戦いの影が忍び寄る中で、今年最大級の<
王国は、その現象を切り札とした、絶望的な反攻作戦を決断してしまった。マリスがいくら歯軋りしても、もう覆ることはない。
だから、すぐに頭を切り替えて、計画の算段を弾き出す。許された時間の猶予は全くないと言っていい。訪ね先の彼女がすんなりと協力してくれる保証もない。
だが、本来課せられていた職務のことも、街角に蔓延する不穏も、単身樹海に乗り込む不安も、片道2日以上かかる旅程も、彼女の決意を押し留めるものではなかった。
彼女の愛した魔法の命運は、今や自分の双肩にのしかかっていたのだから。
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